105

さて。日は変わって飛行船乗船の当日である。
長時間家に一人にしてしまうハロのことが気がかりだったけど、透さんが問題ないと言うのでそのまま家に置いていくことにした。名残惜しそうにこちらを見ながら尻尾を振っていたハロの顔が胸に刺さる。飛行船は楽しみだけど、なるべく早く帰ろうと心に決めた。
今日は、透さんから貰ったシャツワンピースを着てきた。カジュアルながら品のあるデザインだし、何より私のお気に入りだからである。透さんは何も言わなかったけど、少し嬉しそうに笑ってくれたからそれで良いのだ。
待ち合わせに間に合うように家を少し早めに出たのだけど、その際透さんに家の鍵を一度返して欲しいと言われ手渡した。どうしたのかと思えば。

「ハロの世話?」
「ええ。僕らが飛行船に乗り大阪に着くのは午後七時。そこから寄り道せずすぐに新幹線で帰ってきたとしても、東京に戻って来れるのは十時か十一時頃。なので、ハロの様子を見てもらうように風見さんに頼んだんです。その為鍵を彼に渡さないといけなくて」

風見さん。透さんのお知り合いの、優秀な刑事さんだ。風見さんがハロの面倒を見てくれるなら安心だし、ハロもそこまで寂しい思いをせずに済むかもしれない。様子だけでも見るのと見ないのとでは大分違うだろうし。

「風見さんが来て下さるなら安心ですね」
「ええ。…せっかく大阪まで行くんです。どうせなら少しくらいゆっくりしたいですしね」

大阪名物でも食べて帰ってきましょう、と笑う透さんにきゅんとして、私は無言のまま頷くことしか出来なかった。
…な、なんだか。とても…とても、これってデートっぽいのでは。透さんと東京ではない離れた土地に行くというだけでも胸が高鳴るのに、ご当地グルメを食べて帰ってくるとか、それって、とってもデートなのではないだろうか。
思わずうずうずと頬が緩んで、きゅっと唇を噛み締めて耐えた。
大阪に着いたら透さんと一緒に何を食べよう。心が踊る。

その後園子ちゃんとの待ち合わせに向かう途中で風見さんと合流し、透さんの手から鍵を手渡した。
風見さんはなんとなく私に何か言いたげだったけど、すぐに首を振って小さく笑うと、「是非楽しんできてください。良い空旅を」とだけ言ってくれた。風見さんすごく良い人である。



園子ちゃんとの待ち合わせ場所(鈴木財閥の私有地らしい)に向かうと、大きな飛行船が目に入った。予想していたよりも遥かに大きい。ちょっと、想像していたのと大分違う。なんだこれ。あれ。飛行船って、風船みたいな部分の下の方に小さな部屋があって、イメージだと最大でも定員は20人くらい、と思っていたんだけど。

「………えぇ…?」

思わず気の抜けた声が漏れる。
隣にいる透さんは、すごい大きさですねぇ、なんて驚いてるんだかいないんだかいつも通りの様子。
これは飛行船という感じではない。いや、飛行船なんだけど。飛行船とか飛行機とか、そういうじげんではないような。どちらかと言えば建物ひとつ飛ばすのと同じようなものではないだろうか。

「あ!来た来た!安室さん!ミナさん!」
「園子ちゃん、こんにちは」

飛行船の傍にいた園子ちゃんが、こちらに大きく手を振っている。透さんと一緒にそちらに歩み寄ると、彼女は私の腕をぐいっと引っ張って私の耳元に顔を寄せた。

「なっ、な、何、園子ちゃん」
「ちゃ〜んと、ダーリン連れてきたのね!」
「ダッッ」

ダーリンとか言わないで欲しい!
私がぴしりと固まると、園子ちゃんはニヤニヤとした笑みを浮かべながら私達の後ろの方で不思議そうにしている透さんに視線を向ける。

「当日になってミナさんしか来なかったらどうしてやろうと思ってたのよ!」
「なっ、何でよぉ!私だけだったらダメなの…?!」
「そんなことないわよ!でもやっぱりどうせなら、見たいじゃない?安室さんとミナさんがデートしてると、こ、ろ!」

小声で園子ちゃんとやり取りしながら、ニシシと笑う園子ちゃんに二の句が告げなくなる。赤くなった頬を冷ますために両手で顔を挟んだ。恥ずかしい。真っ赤な顔で皆の前には出れない。

「ほらほら、安室さんとミナさんも乗った乗った!二人が最後なんだから!」

園子ちゃんに体を反転させられ、背中を強く押されて小さくよろめくと目の前にいた透さんが手を伸ばしてくれる。彼の腕に受け止められる形になりながら園子ちゃんを小さく睨めば、彼女は満足そうな笑みを浮かべていた。…解せない。

「お乗りでしたらこちらへどうぞ」

飛行船の入口へと伸びるタラップの前に、作業員のお兄さんが立っている。眼鏡をかけた、まだ若い男の子みたいだ。透さんは一度そちらに視線を向けると、改めて私に向き直って笑みを浮かべる。

「それじゃ、行きましょうか」
「…はい」

透さんが、少しだけ乱れた私の髪を直してくれる。
再度これから乗り込む巨大な飛行船を見上げて、私は期待に高鳴る胸をそっと押さえた。


***


「わぁあ〜!!」
「トロピカルランドだぁ!!」
「お城が小さく見えますね!!」
「おもちゃの遊園地みたい!!」

少年探偵団の子供達がはしゃぎ窓に張り付くのを横目に見ながら、私も窓の外の光景に視線を向ける。
私と透さんが乗り込んで程なくして、この飛行船…ベル・ツリーT世号は出発した。乗り込む前はベル・ツリーT世号の外装に驚いていたが、乗り込んだ後はその内装にも驚かされてばかりである。とにかく広くて豪華なのだ。飛行船の中にエレベーターがあるなんて考えもしなかった。建造費にいくらかかったかは考えるのをやめた。
乗客は、あらかじめ園子ちゃんから聞いていた通り。毛利さんと蘭ちゃん、コナンくんを初め、阿笠博士と少年探偵団の子供たち。今回は哀ちゃんも一緒だけど、哀ちゃんは私から距離を取って阿笠博士かコナンくんの傍にいるようにしているようだ。…私と距離を取っていると言うよりは…恐らく、透さん、だろうな。詳しくはわからないけど何やら訳ありのようだし、下手に私から哀ちゃんに近付くのはやめておこうと考える。
今は子供たちの言葉通り、トロピカルランドの上空を飛んでいるところである。

「すごい…」
「絶景ですね」

トロピカルランド。この日本では代表的な遊園地だ。いつかは行ってみたいと思っているものの、そんな機会もない為こうして上空からでも見られるのは嬉しい。アトラクションもたくさんあるみたいだし、なんだか園内の景観もこだわってるようだ。いいなぁ。

「お父さん、すごい景色だよ!ねぇ、こっち来て見れば?」
「うるせぇ!今考え事してんだぁ!」

蘭ちゃんが窓から離れたところにいる毛利さんに声をかけるものの、毛利さんの返事はつれない。…というより、これは。

「…毛利先生は高いところが苦手のようですね」
「…顔色もあまり良くないですけど大丈夫でしょうか」

透さんとそっと声を潜めて話す。苦手なのに乗りに来たのは、やっぱりキッドが絡んでいるからそれの関係なのかな。それとも、蘭ちゃんやコナンくんが心配だったとか。

「おいそこ!聞こえてんぞ!そんなんじゃねぇからな!」
「ごっ、ごめんなさい!」

小さい声で話していたつもりだったが毛利さんの耳には届いていたらしい。嫌々ながらも声を上げる元気はあるようだと思いながら、透さんと顔を見合わせて思わず小さく笑った。
子供たちの方を見れば、すっかりキッドの話で盛り上がっている。

「ねぇ、キッドさんはいつもこんな景色見てるのかなぁ!」
「羨ましいですねぇ!」
「でもよぉ、キッド本当に来んのか?」
「来ると思うよ」

私が声をかけると、子供たちがこちらを見上げてくる。

「飛行船だろうがなんだろうが、キッドは予告を裏切らない…って、キッドファンの友達が言ってたの」
「そ!来るわよ。次郎吉おじさまのとこに、ちゃあんと返事が来たんだから。ほら」
「どれどれ」

園子ちゃんがスマホを操作して、一枚の画像を見せてくれる。予告状の写真のようだ。それを透さんと一緒に覗き込みながら、私は予告状の内容を読み上げた。

「飛行船へのご招待、喜んでお受けします。ただし、七十二歳のご高齢の貴方に六時間も緊張状態を強いるのは忍びなく…夕方、飛行船が大阪市上空に入ってからいただきに参ります。それまでは、存分に遊覧飛行をお楽しみください。怪盗キッド。…だって」
「あぁ〜ッ!あたしのこともいただきに来てくれないかしら!キッド様〜!!」
「そ、園子ちゃん…」

園子ちゃんも怪盗キッドの大ファンだもんな。男性アイドルを追いかけてる女の子って感じ。ものすごくパワフルだ。まぁ怪盗キッドほどになれば、ファンに追いかけられるのもわからなくないけど。
一度だけ会った夜のことを思い出す。気障だったけど、とても紳士的で優しくて素敵な人だった。そっと肩から斜め掛けにした鞄を撫でる。…念の為、うさぎのれいくんも持ってきているのだ。会えたらいいなぁ。

「そういえば、今回の乗客は僕達だけなんですか?」

透さんが園子ちゃんに言うと、キッドへの妄想を膨らませていたらしい園子ちゃんが現実に戻ってくる。ぱちりと目を瞬かせて、園子ちゃんは辺りを見回した。

「えーっと、確か藤岡さんってルポライターの人が…あ、あの人!」

園子ちゃんの視線の先を追う。緩い癖毛の男性が、のんびりと船内を見回しながら歩いてくるのが見えた。藤岡隆道さんというそうだ。園子ちゃんの話に寄れば、次郎吉さんとキッドの対決を是非書かせてほしいと自分から売り込んできたらしい。
彼の他には、日売テレビディレクターの水川正輝さん、レポーターの西谷かすみさん、カメラマンの石本順平さん。なんでも、次郎吉さんとキッドの対決を独占生中継するとのこと。夕方から特番を組んでいるそうだ。本当なら局を上げて放送したかったみたいだけど、赤いシャムネコの一件に備えているため叶わなかったという。

「七日以内に次の行動を起こす…予告通りなら、今日がその期限ですからね」
「キッドとの対決の日とそんな日が重なるなんて、何というか…」

日売テレビの人と毛利さんが話しているのを聞きながら、そういえば透さんがここ数日忙しそうにしていたのはその一件があったからなのかなと思う。ポアロのお仕事でも探偵のお仕事でもない、恐らくは彼本来のもうひとつのお仕事。
そんなことを考えていたら、コナンくんがこちらに駆け寄ってきて透さんの手を引いた。

「安室さん、ちょっと」
「うん?なんだい、コナンくん」

そのまま二人は部屋の隅に移動した。透さんはコナンくんに合わせてしゃがみ込んでいる。離れているし小声で話しているようだから内容は聞こえないけど…多分赤いシャムネコの件じゃないかな。コナンくんが今の会話の流れで興味を持ちそうなのはその辺の話題だろうし、透さんに情報でも聞いている…んだと思う。慌てて首をぶるぶると振った。
彼の職業に関しては、全部見ないことにして知らないままでいる。私はそう決めたのだ。詮索するような真似はしない、変に気にしないようにしようと視線を二人から剥がして窓の外へと向けた。

「ふん!お陰で、儂の自伝映画用のヘリの飛行許可も下りんかったわ!全く忌々しいドラネコどもじゃ。のう、ルパン!」
「ワンッ!」

新しい声に振り向くと、おじいさんと犬…それからボディーガードらしき黒ずくめの人達がぞろぞろとやって来た。犬の名前はルパン。そしてこのおじいさんこそが。

「次郎吉おじさま!」

園子ちゃんが次郎吉おじさまと呼ぶこの方が、鈴木財閥相談役の鈴木次郎吉氏。貫禄がすごい。先に挨拶しないと、と一歩前に出ると、次郎吉さんの視線がこちらに向いた。それと同時に、離れていたところにいた透さんも歩み寄ってくる。

「初めまして、鈴木相談役。佐山ミナです。園子ちゃんにお世話になっております」
「僕は安室透といいます。本日はご招待いただきありがとうございました」
「おお、園子から話は聞いておるよ。そんな堅苦しくせんでもいい。気楽にしなさい」

思っていたよりも優しい人のようでほっと胸を撫で下ろす。ありがとうございますと頭を下げると、話題は再び赤いシャムネコへと戻る。
感染したらほとんど助からないとか、飛沫感染で子供は掛かりやすいとか。ニュースで全て読んでいた情報だけど、改めて聞くとやっぱり心配だな。
元太くんや光彦くん、歩美ちゃんが怯えるのを見て、大丈夫だと声をかけようとした時だった。

「なぁに、殺人バクテリアだかなんだか知らねぇが、俺なんか病原菌がウヨウヨしてるところを飛び回って来たが、こうしてピンピンしてるぜ。人間様は、細菌より強ぇんだ」

藤岡さんだ。ルポライターと言っていたから、そういう地域なんかも行ったりしてたのかもしれないけど…なんとなくその言い方と言い、嫌な感じだなと目を細めた。子供たちはほっとしたように藤岡さんを見上げるが、藤岡さんはニヤリと笑う。

「もっとも、おめーらみたいなガキはコロッといっちまうだろうがな」
「ちょっと、」

藤岡さんの言葉に子供たちが青ざめる。やっぱりこの人嫌な人だ。私が藤岡さんを睨み付けると、蘭ちゃんや園子ちゃんも身を乗り出す。

「どうしてそんな言い方をするんですか?」
「やめてください、子供たちを怖がらせるようなことを言うのは」
「そうよ。無神経すぎるわ」

三人で言ったものの、藤岡さんはどこ吹く風。笑いながらその場を去っていってしまった。正直、とても、むかついている。
次郎吉さんは場を和ませる為か、「たとえ日本のどこで細菌がばらまかれようがこの飛行船に乗っていれば大丈夫」と言ってくれた。確かにその通りだけど…それは逆に言えば、この中で細菌が万が一ばらまかれたら逃げ場がない、ということだ。
そんなことは有り得ないだろうけど。この飛行船には園子ちゃんの知り合いか、次郎吉さん関係の人しか乗っていない。

「ミナさん」
「っ、はい」

透さんに声をかけられてぱっと顔を上げれば、彼は小さく笑って言った。

「せっかくですし、飛行船の中を見学させてもらいませんか。窓によって見える景色も違うでしょうし」

悪いことばかり考えていてはいけないな。せっかくの空の旅だ。楽しまないと、と私は小さく息を吐いて、透さんの言葉に笑って頷いた。


Back Next

戻る