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ラウンジデッキに移動して、私と透さんは蘭ちゃん達の隣のテーブルへと着いた。透さんが運んだ毛利さんは未だ目を覚まさず、大きなイビキをかいている。
哀ちゃんと阿笠博士は既にラウンジデッキへと移動済みだけど、子供たちも、子供たちに状況を知らせに行ったコナンくんも戻っては来ない。
部屋に知らせに行ったのだとしたらきっととっくに戻ってきてる。コナンくんが戻ってこないということは、やっぱりあの子供たち…部屋にはいなかったんだ。大丈夫かなと心配になって、小さな溜息が零れた。

「ミナさん」

声をかけられてはっと顔を上げると、透さんがテーブルに頬杖をついてこちらを見つめている。透き通るような瞳で私をじっと見つめ、すぐにほんの少しだけ苦笑した。

「大変なことになっちゃいましたね」
「……はい、まさかこんなことになるなんて」

鈴木次郎吉さんも、キッドも、誰も悪くない。悪いのは殺人バクテリアをこの飛行船にまいた赤いシャムネコだ。中森警部はこんな状況の対処に追われて必死に対策を考えてくれているし、感染した藤岡さんやウェイトレスさんは気の毒でしかない。
どうかこれ以上の感染者は出ないまま、早く藤岡さんやウェイトレスさんを病院に連れていけたらいいのにと思う。

「念の為聞いておきますが、体に違和感とかはありませんね?」
「え?…えっと、はい。…今はどこも、なにも…」

透さんに問われて目を瞬かせる。露出している腕や足元を見てみるも、痒みや発疹などはない。もちろん倒れるような気持ち悪さや目眩、体の痛みもない。
言えば、透さんは少しほっとしたように頷いた。

「…僕もあなたも一度は喫煙室に近付きました。殺人バクテリアがまかれたのがどのタイミングかはわかりませんが、もし少しでも体に異常を感じたら教えてください」
「…わかりました」

もしもの話だけど。
体に発疹が現れて…感染が確認されてしまったら。私は、死んでしまうのだろうか。感染したらほとんど助からないなんて聞くし、そうだとしたら藤岡さんやウェイトレスさんも…

「ミナさん」
「っ、は、はい」
「こんな状況です。大丈夫だなんて無責任なことは言えませんが…考えすぎは禁物ですよ。現状僕もあなたも感染していない。今はそれだけで充分です」

私の体にも、透さんの体にも、感染の証拠である発疹は出ていない。それは確かに救いではあるけど、どうしても考えないようにしても、考えてしまう。もし私や透さんが感染してしまったらと。そしてその先のことも。

「どうぞ」

テーブルにオレンジジュースの入ったグラスを置かれて顔を上げる。顔にそばかすのあるウェイターさんだ。

「あ、…どうも」
「密封されていたペットボトルを開けたものですから、安心してお召し上がりください」

優しく微笑まれて、テーブルの上のグラスに視線を向ける。
…こんな状況でも、彼みたいなウェイターさんやウェイトレスさん、この船の乗組員の人達は働かないといけないんだ。この状況から逃げたいのは皆同じはずなのに。
キッドを捕まえに来た中森警部や刑事さん達も、キッドどころではなくなって危険な殺人バクテリアの対処をしてくれている。
私も、いつまでも気落ちしてぼんやりとしているわけにはいかない。

「…ありがとうございます、」

ウェイターさんにお礼を言えば、彼はにこりと笑って仕事に戻って行った。
私がジュースの入ったグラスに手を伸ばす。グラスもジュースも冷えていて、口に運べば100%オレンジジュースの酸味と甘さが口の中に広がった。頭がスッキリして、少し落ち着く気がする。
今私に出来ることは無い。けど、自分に出来ることがもしあったら、その時は率先してやっていこうと決める。皆の足を引っ張らないように、自分が何かの役に立てるなら。
私が落ち着きを取り戻したのがわかったのか、透さんも小さく笑ってくれる。大丈夫、私は一人じゃない。

その時だった。
がちゃん、と乱暴にラウンジデッキのドアが開かれ、真っ黒な戦闘服に身を包んだ人がデッキへと入り込んでくる。顔は覆面をしているため見えない。
その手に握られたものを見て息を飲んだ。あれは、銃。小さいが、機関銃だろうか。

「動くな!!」

男性の声に場が凍りつく。更にラウンジデッキのドアから、覆面をしていない男性がゆっくりと歩いて入ってくる。その人の手にも、銃。

「誰じゃ!汝等は!」

招かれざる客だということは言われなくてもわかる。私たちが飛行船に乗った時にこんな人達はいなかった。次郎吉さんが知らないという時点で、本来ならこの飛行船にはいないはずの存在だ。

「アンプルは見つかったか?」
「っ…赤いシャムネコ…!」

次郎吉さんに電話をしてきた、赤いシャムネコの人達。ここには二人しかいないけど、まさか二人だけでここに乗り込んできたなんてことはきっとない。
髭面の男性はこちらに銃を向けながらにやりと笑う。

「この船内に爆弾を仕掛けた。大人しく言うことを聞いていれば、爆破したりはしない」
「ワンッ!ワンッ!」
「これルパン!大人しゅうせい!」

犬に対して不審者を見て吠えるなという方が無理な話だ。ルパンは忠実に次郎吉さんを守ろうとしている。けれども今は、下手に彼らを刺激する訳にはいかない。
息すら潜めながら、ふと日売テレビカメラマンの石本さんがテーブルの上に置いたビデオカメラにゆっくりと手を伸ばすのが見える。
一部始終を撮影しようというのか。でもそんなの気付かれたら。
瞬間、男性の構えた銃から放たれた弾丸が性格にビデオカメラを撃ち抜いた。がしゃん、という派手な音とともにビデオカメラがガラクタへと変わる。

「大人しくしろと言ったはずだ!」

…これは、下手な動きは出来ない。思わず透さんをちらりと見れば、彼は黙ったまま私に視線を合わせて小さく首を横に振る。…今は打つ手なしってこと、かな。
それはそうだろう。こちらは丸腰、向こうは機関銃を持っている。人間は、あれで撃たれれば簡単に死んでしまうのだ。殺人バクテリアに感染するよりも短時間で、確実に。

「…首尾はどうだ」

男性が無線機に向かって言うと、ノイズ混じりの声が聞こえてくる。キャットAだとかキャットBだとか…多分コードネームかな。コックピットや厨房、スカイデッキの制圧が終わったという報告だ。やっぱりここにいる二人だけではなかった。
ラウンジデッキにもう一人別の男性が入ってくる。

「客室には誰もいません!」
「…よし。船内放送で、クルーを全員ダイニングに集めろ」

この髭面の男性が、リーダー。赤いシャムネコのリーダーは次郎吉さんに銃口を向け、命令する。
次郎吉さんに、拒否権なんてない。


***


次郎吉さんの船内放送により、乗務員と乗客全員がダイニングデッキへと集められた。毛利さんはまだ目を覚まさす、透さんが運んだ。…毛利さんがここまで目を覚まさないの、やっぱりおかしい。なんだかとても嫌な予感がする。

「後方に下がって」
「はい」

透さんに言われた通り、後方に下がって阿笠博士や哀ちゃんの傍に行く。透さんは私よりも前の方で赤いシャムネコの動きに目を光らせているようだ。
周りを見るも、コナンくんや元太くん達の姿はない。赤いシャムネコの人達に連れてこられていないところを見ると、もしかしたらどこかで上手く隠れてやり過ごしているのかも。

「この飛行船は、我々赤いシャムネコがハイジャックした!全員携帯電話を出してもらおう!」

赤いシャムネコの男性二人が、大きな袋を手に皆のところを回り始める。私は鞄からスマホを取り出し、鞄のポケットにちらりと見えた探偵団バッジは見ないことにした。…これで、タイミングを見てあの子達と連絡が取れるかもしれない。何かあった時の命綱になるかもしれないと思ったからだ。
スマホは、透さんからもらったものは今現在修理中で手持ちのものは代替機。透さんから貰ったものを奪われなくて良かったとそんなことを思いながら、私はスマホを男性が持ってきた袋の中へと入れる。
隣にいた哀ちゃんは博士の陰に隠れながら携帯を所持していないことを告げ、男性が去ったタイミングでポケットからバッジを取り出した。コナンくんに連絡を取るつもりだ。私は博士の隣にぴたりと立って、周りの目から哀ちゃんを隠した。

「…すまんの、」
「…いえ。子供たちは…?」
「心配いらん、コナンくんがついとる」

阿笠博士と小声で話をしながら哀ちゃんに視線を向けると、彼女は小さく頷いた。
赤いシャムネコの人達は、次郎吉さんに恨みがあるという。はっきりとした要求は言わず、飛行船はこのまま大阪へ向かうということと、中森警部に警察に連絡するようにとだけ指示を出した。少しでも妙な動きをすれば飛行船を爆破するということも。更には殺人バクテリアの入ったアンプルも所持しており、いつでもこの飛行船全体に殺人バクテリアを蔓延させることが出来るという。
ぎゅ、と手を強く握りしめていたら、ふとスカートの裾をくいと引かれた。振り向けば哀ちゃんがこちらを見上げている。辺りを軽く見回してからしゃがみこむと、哀ちゃんが小声で言った。

「…人質の中に、犯人の仲間がいるかもしれない。気をつけて。…って、江戸川くんからよ。……あの人にも、伝えた方がいいんじゃないかしら。もっとも、彼なら既に気づいているでしょうけど」
「……わかった」

あの人とは透さんのことだろう。赤いシャムネコがこの飛行船に乗り込んでくるには、きっと飛行船の中から手引きした人がいるはず。油断は出来ない。

「なんだ?そこの女、妙な動きをするんじゃない!」

しゃがんでいたら、こちらに歩み寄ってきた赤いシャムネコの一人に怒鳴られる。そのまま背中に銃を突きつけられる感触がして、ひやりと肝が冷えた。
この距離で機関銃を撃たれたら、私は蜂の巣だ。漫画とかの表現で「蜂の巣にしてやる!」なんてセリフをよく見るけど、冗談ではない。現実に、起こり得るかもしれない。息をすることさえはばかられて、私は小さく唇を噛んだ。

「ミナお姉ちゃん!怖い…!」

どうする、と息を飲んだら、目の前の哀ちゃんが突然私の首に縋り付くように抱きついてきた。
いつもの哀ちゃんじゃない。先程までの大人びた表情から一変して、小学生の女の子らしく怯えた様子を見せている。これは。

「なんだこのガキ…」
「子供が怯えているから宥めていただけです。変なことはしていません」

哀ちゃんの背中に腕を回してしっかりと抱きしめながら、背後を振り向いてはっきりと言い切った。
これは、哀ちゃんが打ってくれた芝居だ。私が言い逃れられるようにチャンスを作ってくれた。この機会を見逃す訳にはいかない。
哀ちゃんを抱きしめたまま背後の男性を睨めば、彼はしばらくこちらをじっと見つめていたものの小さく舌打ちをして離れていく。無意識に詰めていた息をゆっくりと吐き出せば、耳元で哀ちゃんが小さく笑う気配がした。

「…なかなかやるじゃない」
「…ありがとう哀ちゃん、助かった」

こんなところで撃たれて死んでやるつもりは無い。
皆で生きて帰る方法を考えるんだ。断絶された空の上であろうと。



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