110

その後、次郎吉さんは赤いシャムネコのリーダーの男に連れられて出ていった。恐らくスカイデッキにレディ・スカイを取りに行ったんだと思う。赤いシャムネコの目的がレディ・スカイだとは考えにくいけど、何か利用価値がある…ということなのかな。売れば相当な金額になるだろうし。
さりげなく私が透さんの傍に寄ると、彼はそっと背中を屈めて私の方に耳を寄せてくれる。

「…人質の中に犯人の仲間がいるかもしれないって、コナンくんから連絡が」
「…ええ、でしょうね。あまりに手際が良く、行動が早すぎる」

このデッキの見張りは三人。見張りは解けず、あまり話をすることも出来ずにデッキには沈黙が流れている。透さんはじっと好機を窺っているようだけど、見張りの男達にも隙は無い。
…次郎吉さんは無事かな。それに今どこにいるかわからない子供たちも。せめて子供たちは見つからないまま、なんとかこの事態が終息すればと思う。どういう形で終息するかは分からないけれど。

「水川さん?…何をしてるんですか?水川さん、」

石本さんの声に振り向く。デッキの最後方で、日売テレビディレクターの水川さんがこちらに背を向けて何やら手を動かしていた。…なんだろう、様子がおかしい。
石本さんに声をかけられた水川さんはギクリと身体を震わせ、それから慌てたようにその両手を自分の背に隠しながら振り向いた。

「み、水川さん、まさか…!」
「な、なんでもない!!」
「水川さん…!」

騒ぎに気付いた見張りの男の一人が、大股で水川さんへと歩み寄っていく。水川さんはなんでもないと繰り返しながら後退りするが、男が水川さんの腕を強引に掴んで捻り上げた。その手のひらには、赤い発疹。全員が息を呑む気配がする。

「発疹…!」
「違う!!こ、これは、ただの蕁麻疹だ!!」
「そう言えばさっき、煙草の匂いがしたわ!喫煙室に行ったのよ!きっとそこで…」
「違う!!」

西谷さんと石本さんにまるで追い詰められるような形で、水川さんの顔が青ざめていく。私は水川さんの近くにはあまりいなかったから彼から煙草の匂いがしたかどうかなんてわからないけど、喫煙室に行ったのなら感染の可能性は充分にある。水川さんは必死で首を振る。

「い、行ったけど、感染なんかしちゃいない!現に他の場所は、ッぐ、ゲホッ!」

咳。この殺人バクテリアは飛沫感染…つまり咳やくしゃみで感染する。水川さんは口元を押さえながら激しく咳き込んでいる。緊張と恐怖で体が強ばるのがわかった。
じりじり、ゆっくりと皆が水川さんから距離をとるように後退る。

「下がって」

呆然としていたら、透さんに肩を抱かれて水川さんから離れるように引っ張られた。赤いシャムネコの男二人が水川さんに歩み寄り銃口を向ける。そうしてもう一人も私たちの横を抜けて、水川さんへと歩み寄った。それを見た中森警部と蘭ちゃん、それから透さんが少し腰を沈めて身構える。
今なら、この三人を後ろから抑えられる。空気がぴんと張り詰めるのを感じ、私も無意識に息を詰めたその時だった。

ぱん、という銃声とガラスの割れる音。びくりと体を震わせながら振り向けば、いつの間に戻ってきていたのか赤いシャムネコのリーダーと次郎吉さんが立っていた。
今の銃声は、デッキの照明に向けられて撃った音。そしてガラスの割れる音は、照明が砕けた音だった。
リーダーの男は未だ咳き込む水川さんに歩み寄ると、その首筋に強く蹴り込んで気を失わせる。呻き声を上げ、ぐったりと床に倒れ込んだ水川さんはぴくりとも動かない。

「喫煙室に放り込んどけ!」

男に背負われて行く水川さんを見送りながら、私は思わず透さんの腕や首を見た。彼の肌には発疹は現れていない。それから、自分の腕や足に視線を落とす。私の肌にも、発疹は現れていない。
けれど私も透さんも、喫煙室の空気を吸った。透さんは入口から少し顔を覗かせただけだったけど、私は喫煙室の中に一歩大きく踏み込んでいる。たまたまあれは殺人バクテリアがまかれる前だったのだろうか。私や透さんも、いつ発症してもおかしくないのではないだろうか。
今は、潜伏期間なだけ?
急にお腹の底から胸元までが冷たく冷えるような心地になって、小さく頭を振る。
今は大丈夫。…まだ、大丈夫。

「…ねぇ…そういえば子供たちがいないんじゃない…?」

西谷さんの声に振り返ったのは、私だけではなかった。赤いシャムネコのリーダーも、ぴくりと眉を上げて西谷さんを振り返り睨み付けている。
まずい。

「子供?」
「っ…え、えぇ…確か…あの子と同じくらいの男の子が三人と、女の子が一人いたはず…」

西谷さんが哀ちゃんを指差して告げると、リーダーの男は舌打ちをして部下達に探すよう指示を出した。男が二人部屋から出ていく。
透さんと阿笠博士が揃って顔を顰めるのを見て、私もほんの少しの苛立ちを感じながら唇を噛み締めた。…余計なことをどうして言ってしまったのか。今のこのタイミングで言うべきじゃなかった。子供たちの話題を出したことで赤いシャムネコは子供たちに狙いを定めるだろう。なんとかして逃げ切ってくれないだろうか。
そう思いながら哀ちゃんの方に視線を向け、私は目を見開いた。

「哀ちゃん!」

二人いたウェイトレスさんの、感染していなかったもう一人。探偵バッジでコナンくんに連絡を取ろうとしていたであろう哀ちゃんの手からバッジを取り上げ、冷たい目を細めた。

「洒落たことするじゃない」
「ぅあっ!」

ウェイトレスさんの右手が振り上げられ、哀ちゃんの頬を強く打つ。小さな哀ちゃんの体は簡単に吹っ飛ばされ、床へと転がった。

「何をするんじゃ!」
「大丈夫?!哀ちゃん!」
「子供を殴るなんて最低!!」

傍にいた蘭ちゃんと園子ちゃんが哀ちゃんに駆け寄りその体を抱え起こす。
この人が…このウェイトレスさんが、人質の中に紛れた犯人たちの仲間だったんだ。まさか乗客ではなく、乗務員の方に紛れていたなんて。
ウェイトレスさんは鼻で笑うと、右手を背中へと回した。

「今度妙な真似をしたら、殺すわよ」

そう言いながら取り出したのは…拳銃。
仲間がここに乗り込んでくるのを手引きしていただけじゃない。拳銃を扱えるだけの腕があるということは、犯罪組織の正式なメンバーだと考えるのが普通だ。
この女性も、赤いシャムネコ。
皆が息を飲んで固まる中、リーダーの男性が持つ無線機からノイズ音が聞こえる。

『ガキどもを見つけました』

リーダーの男が鼻で笑う声と、誰かの舌打ちが聞こえた。


***


赤いシャムネコの男達に連れてこられた元太くん、光彦くん、歩美ちゃん、それからコナンくんは、問答無用でリーダーの男の前へと突き出された。
それと一緒に、傍に配線の切れた爆弾らしきものが並べられる。あれは…この飛行船に仕掛けたと言っていた爆弾か。まさか子供たちがこれを?驚きに息を飲んでいたら、リーダーの男は爆弾を手に取り顔を顰めた。
子供たちには男二人の銃口が向けられている。この人達はきっと、子供だろうが容赦せずに殺せる人達だ。子供たちが変な動きを見せたら、引き金を迷わず引くに違いない。ちらりと透さんを見るも、眉を寄せたまま動くことが出来ずにいる。私達が下手なことをしても、誰かが犠牲になりかねない。

「………、」

バクバクと胸を打つ心臓を感じながら、ゆっくりと息を吐き出して鞄のポケットへと手を忍ばせる。
子供たちを見殺しにするなんて、私には出来ない。
私は、この世界で絶望に立ち向かう人達の背中を知っている。誰もが駄目だと諦める中、諦めるなんて選択肢を最初から知らない人達のことを知っている。自分がそうなれるとは思わない。そんな力が自分にあるとは思わない。けれど、彼らの背中を見送るだけではなく…その足跡を辿るくらいのことは、したいと思った。
今私に出来ること、私にしか出来ないことがあるのなら、私も「諦める」という選択肢のことを忘れてみたい。
リーダーと向き合う子供たちを見つめて、私はポケットの中の探偵団バッジを取り出した。固くてひんやりとした小さなそれを握り締めながら、唇を引き結んで顔を上げる。
恐怖で足も竦むけど、頭で体に命令するしかない。
動け。歩け。そうして口を動かして、声を出せ。

「お前らがやったのか!!」
「やったのはボクさ!こいつらは関係ないよ!」
「違います!」

リーダーとコナンくんの会話を遮るように声を上げる。全員が驚いたようにこちらを見つめるのを感じながら、私はゆっくりと子供たちへと歩み寄る。
蘭ちゃんも園子ちゃんも阿笠博士も愛ちゃんも…透さんも。中森警部や刑事さんたち、次郎吉さんも、私を真っ直ぐに見つめていた。

「…なんだ、お前は」
「私が、この子達のリーダーです」
「ミナさん、」

驚いて固まるコナンくんを後ろに下げるように、リーダーの男とコナンくんの間に割って入る。男の視線が私の頭のてっぺんから足元まで舐めるように辿り、剣呑な瞳で私を見据えた。

「私がこの子達に指示を出しました」
「お前が?」
「あなた方がこの船に乗り込んできた時、子供たちの居場所は割れてはいなかった。だから爆弾を解除し、そのまま隠れているように言ったんです」
「ずっとここにいたお前にどうやってそんな指示が出せる?」

犯人の仲間だったウェイトレスの女性が、哀ちゃんの持っていた探偵バッジのことをこのリーダーの男に報告するのは見ていた。小型無線機であることはわかっているはず。
ぎゅっと握りしめていた手を上げて、手のひらの中のものをリーダーの男へと差し出す。

「これで指示出しを」
「ッミナさん!」

男は私の手から探偵バッジを取り上げると、それを見つめて目を細めた。それからバッジを床へと落とし、強く踏みつける。ばき、と割れる音が響いた。
コナンくんが私の服を引っ張るけど、今ここで退くわけにはいかない。

「ガキどもを統率してたのはお前だったってことか。なるほどよく躾られてやがる。こんなガキどもに爆弾を壊されるのは予想外だった」

リーダーが一歩私へと歩み寄る。怯えた子供たちが後ろに下がるのを感じながら、私はただその場に立ち続けた。男の視線を真っ向から受けて、決して逸らさずに逃げ出したくなる弱い自分を歯を食いしばることで押し込める。
男はじっと私を見つめていたが、やがてにやりと嫌な笑みを浮かべた。気持ち悪さに怯みそうになる。

「…ふん、いい度胸だ。その生意気な目、…絶望で塗り潰したくなるぜ」

掠れた声で告げられた言葉に、ひゅっと息を飲んだ。
次の瞬間、男は私の体を押し退ける。咄嗟のことに踏ん張れずたたらを踏めば、男は私のすぐ後ろにいたコナンくんの首根っこを掴み上げた。どくんと心臓が大きく跳ねる。
一体何を。

「よく見とけ!このガキはお前のせいで死ぬ!!」

暴れるコナンくんをものともせず、男は窓へと大股で歩み寄る。
そんな、まさか。呼吸が上手くできない。頭も上手く働かなくて、私は考えるよりも先に無我夢中で男の腰へと縋り付いた。
駄目、やめて。

「ミナさん…!」

コナンくんの声に手を伸ばす。コナンくんがこちらに手を伸ばすのに、指先すら掠めはしない。
リーダーの男が楽しげに笑いながら窓を開け…コナンくんの体を、いとも簡単に飛行船の外へと放り投げた。

「コナンくん!!!」

窓から身を乗り出そうとして後ろから強く抱きとめられる。振り返らなくてもわかる。透さんだ。
私の力なんかじゃ透さんには敵わない。私がいくら暴れようと、彼の腕はビクともしないのだ。
あっという間に遠ざかるコナンくんの姿に、目の前が真っ暗になった。
絶望を…無謀を奇跡に変えようなんて大それたことを考えたわけじゃない。ただ私は逃げたくなかっただけ。強さに憧れを抱いて、強い彼らの足跡を辿りたかっただけ。
私は、間違えてしまったのだろうか。

「下がって!」

すぐ傍から声が聞こえてゆっくりと目を瞬かせる。
彼は…ウェイターの男の子。頬にそばかすのある、先程私にオレンジジュースを勧めてくれた男の子。

「大丈夫。任せて」

短く告げられて息を呑む。彼が、素早く軽やかな動きでコナンくんを追って窓から飛び出していく。その動きに迷いや恐れは一切感じられない。
もはや豆粒ほどになったコナンくんの影と、ウェイターの彼の影が近づいて重なる。
そのまま雲を突き抜けて、息を飲んで目を見張った瞬間…白い大きな翼が、海の輝きを受けながら空を舞った。

「………怪盗、キッド」

皆の歓声が上がって、私は腰が抜けて自力では立っていられなくなる。透さんが支えてくれなかったら床に座り込んでしまっていただろう。
安心からか涙が零れて、そんな私を宥めるように透さんが強く抱き締めてくれる。

「心臓が止まるかと思いました。…無茶し過ぎです」
「…ごめんなさい、」

胸が苦しくて息が上手くできなくて、私はこんな状況だと言うのに透さんの胸を借りて泣いた。手が、体が震えて安心感と恐怖が一緒に押し寄せる。

あのウェイターの彼が…キッドだった。
キッドが、コナンくんを助けてくれた。
怪盗キッド。彼もまた、絶望を無謀に…無謀を、奇跡へと変えるヒーローだった。


Back Next

戻る