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「やはりキッドが紛れ込んでいたか…これで厄介払いは完了だ!爆弾二つ、仕掛け直してこい!」

リーダーの男の声に頷いた二人の男がデッキを出ていくのを見送る。
まだ心臓がばくばくと激しく動いていた。コナンくんはひとまず大丈夫だったとはいえ、こんな上空から子供が放り出される瞬間を目の当たりにしたのだ。リーダーの言った「絶望で塗り潰したくなる」という言葉通り、私はあの瞬間絶望で目の前が真っ暗になるのを感じていた。そこから立ち直るには少し時間が必要である。
もしこの船にキッドが乗っていなかったら、あの状況でコナンくんを助ける術なんてなかった。こちらに手を伸ばしてきたコナンくんの手を掴めなかったことが、強い恐怖となって瞼の裏に焼き付いている。
子供たちを助けようと思ってやったことだ。けれど私は子供たちを助けるどころか、コナンくんの身を危険に晒してしまった。私には、どうするのが正解だったのかわからない。

「ミナさん」

透さんの声に視線を上げる。透さんはそっと私の背中を撫でながら小さく微笑んだ。

「今は、あれこれ考えるのはなしです。…コナンくんは無事です。大丈夫、落ち着いて」

透さんの手の動きに合わせてゆっくりと呼吸をすると、少しずつ体の震えが治まっていく。…透さんがいてくれて良かった。心からそう思う。こんな状況でも私の心は正直だ。透さんの言葉で、声で、体温で、私は少しずつ満たされていく。
大分呼吸も落ち着いて、私が長く息を吐き出したその時だった。

「おい、離れろ」

がちゃ、と機関銃を構える音がして体が強ばる。
透さんの腕の力が強まったのを感じたが、顔を上げて後ろを振り返れば…リーダーの男が、こちらに銃口を向けていた。…離れなければ、撃たれるかもしれない。今は言うことを聞くしかない。透さんまで危ない目に遭わせるわけにはいかない。

「ミナさん、」
「大丈夫です」

透さんから身体を離し、ぐいっと涙を拭う。
恐怖はまだある。指先の震えも完全に治まったわけじゃない。けど、こんな奴らに弱みを見せるのは酷く愚かなことのように思えた。
この男は先程、私を絶望させようとした。今弱った姿を見せるのは、この男に屈したのと同じことだ。
毅然としていろ。絶望に足元をすくわれないように。胸を張って息を吸い込み、歯を食いしばれ。

「全員、座って大人しくしてろ!」

怒鳴り声に、全員がデッキの椅子へと腰を下ろす。私も透さんと一緒にテーブルの席へと着き、深呼吸をひとつした。
気持ちを切り替えよう。コナンくんは大丈夫。一度きりだった夜の出会いを思い出し、彼ならコナンくんを絶対に助けてくれると信じられる。どこに落ち、どこに着地するのかはわからないけど…コナンくんとキッドなら、きっとなんとかするだろう。
私達も大人しくさえしていれば、恐らく突然撃ち殺されたりはしない。
心臓が一気に動いたからか、体が熱くなったような気がする。何だか右手のひらと左腕がピリピリとして、ほんのりと痒い。
こんな状況下でストレスも感じているのかもしれないと思いながら、私は自分の左腕に軽く爪を立てた。


キッドはコナンくんを助けるために、レディ・スカイを手にしないまま飛行船から飛び出して行った。このままであるなら彼の予告は失敗に終わるわけだけど…果たしてこんな状況で、キッドがもう一度ここに戻ってくるなんてことが、有り得るのだろうか。
ハンググライダーを装備していたくらいだから、空には慣れているんだろうが…戻ってくるとしたら移動し続ける飛行船にどういう手段を使って戻るのだろう。
赤いシャムネコも移動する飛行船に乗り込んできたのだから不可能ではないんだろうけど。…ヘリコプターを使うくらいしか私には思いつかない。
きっと戻ってこないだろう。そう思うのが普通なのに、何故だかキッドは戻ってくるような気がした。

──飛行船だろうがなんだろうが、キッドは予告を裏切らない

黒羽くんの言葉が脳裏を過る。
予告を裏切らないのなら…もしかしたら、再びこの船に戻ってくる、のだろうか。

顔を上げると、爆弾を仕掛けに行った男二人が戻ってきたところだった。リーダーはよし、と小さく呟くと、無線機を口元に近づける。

「キャットE、そろそろ準備にかかれ」
『了解』
「おい!何をするつもりだ!」

無線を切るなり、リーダーはしゃがみ込んで足元に置いてあった鞄を漁り始める。中森警部の問いにも、にやりと笑うだけで何も話しはしなかった。
今はただ、耐えるしかない。
体が熱い。…熱くて、痒い。


***


気付けば、外は少しずつ日が傾き始めている。時計を見ればもうすぐ夕方五時になる頃。予定通りなら、あと一時間半ほどで大阪上空へと差し掛かり、二時間後には全てを終えて飛行船を降りているはずだった。…その通りには事は運ばないだろうけど。
溜息を飲み込みながら無意識に左腕に爪を立て掛け、何とはなしに視線を落として、絶句した。

「………、」

左腕…肘下から手首まで広がる発疹。見れば右手のひらも発疹で赤く腫れ上がり、熱を持っている。ぶつぶつと浮いた発疹を、私はこの飛行船に乗ってから何度か目にしていた。
最初に藤岡さん。次いでウェイトレスのお姉さん。そして水川さん。今は大丈夫なんて思いながら、もしかしたらという疑いは常に胸の奥で燻っていたけれど、実際に目の当たりにすると言葉も出ない。
研究所から盗まれた殺人バクテリア。感染すると痒みが出て、そのまま衰弱して死に至る。助かる可能性はほとんどない。
水川さんに続いて次は…私の番だった、ということか。

そっと視線を上げると、透さんは赤いシャムネコの方を見ていて私の様子には気付いていないようだった。そのままデッキ内を見回すと、中森警部や次郎吉さんは反撃の機会を伺っているように見え、西谷さんと石本さんは黙ったまま。子供たちはテーブルに伏せって退屈そうにしているし、阿笠博士や哀ちゃんは視線を落としている。毛利さんは変わらず眠っていて、蘭ちゃんと園子ちゃんも浮かない表情のままどこか遠くを見ていた。
きっと、私と透さんが喫煙室に踏み込んだ時には殺人バクテリアがまかれていたんだろう。そんな中で、透さんに感染していないのは不幸中の幸いだと思う。このまま透さんが感染せず、全てが終わってくれたらいいのに。
この細菌は飛沫感染、そして喫煙室に入った人が感染したことから、空気感染も有り得る。気がかりなのは、殺人バクテリアを体内に取り込んだ状態で…私が透さんと接触してしまったということ。この細菌は接触感染はしないはず。けれど、透さんの身が危険であることは…きっと変わらない。
ならば、少しでもその危険性を潰さなければいけない。
今や私がその危険性のひとつだ。ここにいたら、皆に殺人バクテリアを移してしまう可能性がある。
私のせいで大切な誰かが危険に晒されるのは、もう嫌だった。

感染したら、どのくらいの時間で衰弱するのだろう。そして、どれくらいで死に至るのだろう。
足元から崩れていくような感覚。私がこの世界にいられるのは、たくさんの奇跡が成り立っていたから。それは重々理解していたはずだけど…奇跡が崩壊しないものなんて保証は、どこにもないのだ。
せめて誰にも迷惑をかけたくない。

「…、ミナさん?」

私がゆっくりと立ち上がると、目の前に座っていた透さんがすかさず気付いて振り返る。そして、透さんは私の腕と右手を見て大きく目を見開いた。

「ミナさん、」

透さんの目を見る勇気は、私にはなかった。足早に透さんの横を抜けようとして、立ち上がった透さんに二の腕を強く掴まれ足を止める。
何も言わず、このまま行かせて欲しい。どんな言葉もいらない。優しい言葉も、突き放す言葉も、今は聞きたくない。

「どうして、」
「触らないでください」

接触感染しないなんて保証はどこにもない。
私は早く、ここから立ち去るべきなんだ。
はっきりと言うつもりで口を開いたら、思いの外私の声は冷たい響きを持っていた。ぴくりと透さんの指先が震えたのを感じながら彼の手を強く振り払う。私が振り払うなんて思わなかったのか、予想外に透さんの手は簡単に離れた。
さっき、窓から身を乗り出そうとした時に抱きとめられた時は…どんなに暴れても離さなかった透さんの手とは思えないほど、簡単に。

「ミナさん…!」
「ミナ姉ちゃん!」
「ミナお姉さん!」

誰の声にも振り返らない。視線を向けない。
私が真っ直ぐに赤いシャムネコのリーダーに歩み寄ると、彼は振り返って黙ったまま私を見つめ、それから楽しげに笑った。

「いい目だ。絶望に塗り潰されたその顔、さっき見たかったもんだぜ」

──そうか。
私は今、そんな顔をしているのか。


***


赤いシャムネコの中の一人に連れられて、喫煙室へと閉じ込められた。この部屋、外から鍵がかけられるんだな、なんて的外れなことを思いながら、ぼんやりと窓の傍の手すりへと寄りかかる。
視線の先では、水川さんが鍵のかけられたドアを何とかして開けようと叩いたり蹴ったりしているところだ。
…私が来るまでも彼はずっとこうして…どうしようもない死への恐怖を、開かないドアにぶつけ続けていたのだろうか。

「っ、あ、あんた!どうしてそんなに冷静なんだ…!」

水川さんに声をかけられてぼんやりとしていた視線を合わせる。
冷静に、見えるのだろうか。何かを考えることも出来ないほどに動揺しているのが正しいんだと思う。考えをまとめようとしても、まとまる前に霧散して何を考えようとしていたのかさえわからなくなる。
恐怖や、悲しみや、憤りや…いろんな感情が綯い交ぜになって、自分でもよくわからない。辛くて苦しいのに不思議と涙は出てこなかった。

「冷静に、見えますか」
「っ…くそ、くそ!死にたくない!俺は死にたくないんだ…!助けてくれ!!助けてくれよ!!」

私の声すら届かない。
水川さんはドアを叩いて、叫び続けている。

私は手すりに上体を預けながら、窓の外をぼんやりと見つめた。
生きるって、どういうことだろう。この世界で何度も死の恐怖を味わってきたと思っていた。東都水族館での出来事や、誘拐されて閉じ込められた火事のこと。それからカジノタワーでの、カプセル落下の時。どれも恐怖したし、もうダメだと思った。そしてその度に、無謀を奇跡に変える彼らの力を目の当たりにしてきて、そうして今私は生きている。
逃げたくないと思う。諦めたくないとも思う。
けれど、殺人バクテリアに侵されたこの体で…どう諦めずにいればいいのか、どうしてもわからない。
私に待つのは衰弱と死。それを覆す方法なんて、一体どこにあるというのだろう。

「…私に出来ることは、」

ぽつりと呟いて、やはりまとまらない考えに目を細める。
窓の外は、赤く染まり始めていた。


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