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私が喫煙室に閉じ込められてからどれくらいの時間が経ったのかはわからない。そもそも五時頃から時計を見ることも忘れて、窓の外ばかりを見つめていた。多分そんなに長い時間は経っていなかったと思う。
がちゃ、と鍵が開く音がして顔を上げた。人の気配に水川さんも息を飲んで顔を上げている。
何故、ドアが。もしやまた新しい感染者なのか。
ドアが開くと同時に、水川さんがドアへと突進した。

「ぅわぁあああ!!たす、助けてくれ!!頼む…!」
「放せ!!」

赤いシャムネコの男に水川さんが掴みかかるも、強く腕を振り払われて突き飛ばされる。ぼんやりとしていた思考が少しだけはっきりしたような気がして、慌てて水川さんに駆け寄ってその背中を支えた。

「おら!!お前は入ってろ!!」
「触らないで!!」

聞き慣れた声に目を見開く。
男に腕を掴まれて無理矢理喫煙室に放り込まれたのは…蘭ちゃんだった。蘭ちゃんが喫煙室に入ってすぐにドアが閉められ、再び施錠する音が響く。
蘭ちゃんがここに来たということは…彼女も、感染してしまったということ。見れば、蘭ちゃんの両方の二の腕の辺りに発疹が現れている。

「…蘭ちゃん、」
「…ミナさん。…私も、感染しちゃったみたいです」

蘭ちゃんが力なく笑うのを見て、ゆっくりと立ち上がる。
水川さんは体を起こすと、そのまま部屋の隅に座り込んでしまった。…今の、脱出のチャンスを逃したのがショック、だったのだろうか。

「蘭ちゃん、どうして…」

どうして蘭ちゃんが感染したのだろう。蘭ちゃんは喫煙室にはもちろん近付いていないだろうし、まさか私と同じ空間にいたからそれで空気感染を?けど私…咳も、くしゃみもしていない。
蘭ちゃんは緩く首を振ると、息を吐きながら肩を落とした。

「…わからないんです。喫煙室にも入ってないし、…心当たりがあるとすれば、藤岡さんに腕を触られたくらい…なんですけど」
「藤岡さんに?」

腕を触られた、と聞いて私は蘭ちゃんの腕に視線を向ける。…二の腕にくっきりと浮き出た発疹。けれど、それが…まるで手形のように見えて眉を寄せる。指の痕のような形に…こんな形に、発疹が上手く出るものなのだろうか?普通に考えて有り得ない。
この形が手形なのだとしたら、まるで後ろから両腕を掴まれたような。

「…ねぇ、蘭ちゃん…」
「え?」
「藤岡さんに腕を触られたって…どんなふうに?」

尋ねれば、蘭ちゃんは少し考えてから口を開く。

「どんな、って…こう、後ろから…」
「もしかして、こんなふうに?」

蘭ちゃんの後ろに回り込んで、ちょうど蘭ちゃんの発疹の辺りに両手で軽く触れると、蘭ちゃんも気付いたようにはっと息を呑む。

「ミナさん、もしかして…」
「…私も、藤岡さんに腕を触られたの。…ちょうど、発疹が出てるところ」

蘭ちゃんと顔を見合わせて息を呑む。
…もし、私と蘭ちゃんのこの発疹の出方が偶然じゃなかったとしたら、この殺人バクテリアは飛沫感染だけでなく接触感染もするということ。
ぞっとした。私はこの体で、透さんに触れてしまっている。蘭ちゃんも青ざめているところを見ると、心当たりがあるんだろう。…私が見ていた限りでは、園子ちゃんが危ないかもしれない。

「ミナさん…どうしよう、もし皆に…園子に感染してしまっていたら」

自分のせいで誰かが危険な目に遭うかもしれないというのは、とても恐ろしく怖いことだ。自分のせいで、なんて考え始めてしまったら止まらなくなる。私がそうだから。
ゆっくりと呼吸をして鼓動を落ち着ける。今は慌てふためいても、何にもならない。
私は蘭ちゃんの方に手を伸ばすと、そっと叩いた。

「蘭ちゃん、…私たちが慌ててもここでは何も出来ない。でも、だから…せめて、弱気になるのをやめようと思う」

殺人バクテリアの恐怖に怯えながら、それでもただ耐えるしかない。一刻も早くこのハイジャック事件が終わり、皆病院に行けることを祈るしかない。どうか皆が感染していませんようにと願いながら、私は蘭ちゃんの手をそっと握った。

「あんな奴らに屈したくない。…私、一瞬でも情けない顔をあいつらに見せたこと後悔してる。だから、今後どうなるかはわからないけど…気をしっかり持とう」
「…ミナさん、すごいですね。こんな状況でも、怯んだりしない」
「え?」

蘭ちゃんの言葉に目を瞬かせる。
怯んだりしない、なんて。考えてそんなことは無いと首を振る。私だって死にたくないしさっきまで絶望しか見えていなかった。自分が死ぬまであとどれくらいの時間があるだろうと考えては、ぼんやりとしてしまっていた。死への恐怖に怖気付いて、考えさえ上手くまとまりはしなかった。
私は、これっぽっちもすごくなんてない。

「…そんなことないよ。ものすごく、怖い。…死にたくない」

生きることを覚悟して、諦めることをやめる。そうして真っ直ぐに前を向いて、一体これが何度目だろう。
生きることに覚悟がいるなんて、以前の私なら考えもしなかったことだ。ただそこにいて呼吸をし、仕事をして食事をし、夜には眠る。それをなんの疑いもなく生きることと認識していたのだから驚きだ。
生きるには覚悟がいる。少なくとも、この世界では。私みたいなイレギュラーな存在は特に。

「…蘭ちゃんのおかげ。ちょっと目が覚めた気がする」
「私の…?」
「知り合いがいると…心強いの。…今の状況じゃ不謹慎だけどね」

感染してしまったものは私たちにはどうしようもない。泣いても喚いても状況は変わらない。死までの時間があとどれだけあるかはわからないけど…何も変わらないならせめて、いつも通りにしていよう。絶望に染まっているよりもずっとましな気がする。

「ミナさんは、」
「うん?」
「…生きて帰らなきゃダメです。絶対」

蘭ちゃんにはっきりと言われて、目を瞬かせる。

「安室さんの為にも、絶対生きなきゃダメです」
「…それは、蘭ちゃんもだよ」
「私も?」
「うん。……一緒に、生きて帰ろう」

これから私たちの体がどうなるかはわからないけど。希望を抱くことは悪いことではないと思うから。

透さん。
…仕方なかったこととは言え、彼の腕を振り払ってしまった。ちゃんと顔を見ることさえしなかった。今彼は、どんな思いでいるんだろう。どうか彼が感染しませんように。無事でいられますように。
ただそれだけを祈る。


─────────


『残りの人聞いてるー?リーダーやっつけちゃったよ』

どんな方法を使ったのかは知らないけど、工藤くんと怪盗キッドが この飛行船に戻ってきたらしいと分かってから僅か数分。一人、また一人と無線の先から連絡が途絶え、最低限の見張りだけ残して自ら工藤くんの始末に向かったリーダーを、どうやら彼はあっさり倒してしまったらしい。見張りの男の懐にある無線から聞こえてきた工藤くんの声は、どこまでも飄々とした、挑発するような響きを持っていた。
…まぁ、危うく殺されかけて工藤くん自身鬱憤も溜まってたんでしょうね。実際見てはいないけど、鮮やかな手際だっただろうことだけはわかる。懲らしめる時は徹底的にやる人だから。

『キャットAとB。それから他の三人も。多分CとDとEじゃないかな』
「な、なにぃ…?いい加減なことを…!」

無線から聞こえた工藤くんの声に狼狽した見張りの男に出来た隙。それを、彼は…安室透は見逃さなかった。
素早く飛び出し、無線に気を取られた男の脇腹に強い回し蹴りを叩き込む。それに男が吹っ飛ばされて床に倒れ、中森警部や他の刑事たちが取り押さえるように飛びかかった。見れば鈴木相談役の…確かルパンとかいう飼い犬も便乗している。
その場は一気に騒然となった。となれば当然、このラウンジと反対側のダイニングを見張っている赤いシャムネコのスパイだったウェイトレスが、気づかないはずもない。

「全員伏せて!」

安室透が声を上げ、ドアの方から銃声と駆け込んでくるような音。女がこのラウンジデッキに駆け込んだ瞬間、安室透が彼女に足払いをかける。

「っ、」

大きくバランスを崩した彼女の腕を掴んだのは、いつの間にか目を覚ましていた毛利小五郎だった。彼女の腕を掴んだまま自分の背中に抱え上げ、綺麗な一本背負いを決める。

「やったぁー!!」
「ったく、こんなもの振り回すんじゃねぇ!」
「さすが毛利先生。お見事でした」

女が手放した拳銃を拾い上げる毛利探偵と、それをにこやかに賞賛する安室透。…随分と余裕そうに見えるけど、彼が内心穏やかでないことくらいはすぐにわかる。早いところこの状況をなんとかしないとと思いながら、倒れた女の脇に転がる私の探偵団バッジを手に取った。

「江戸川くん。こっちの二人も片付けたわ」
『了解』



それからしばらくして、工藤くんはラウンジデッキへと戻ってきた。あちこちで伸びていた赤いシャムネコのメンバーも同じくラウンジデッキに集められ、手すりに手錠で拘束されている。もちろんリーダーの男も同様。
結局今回のハイジャック事件は二つのチームに分かれての犯行であったらしい。飛行船をハイジャックして殺人バクテリアをばらまくと吹聴すれば、当然飛行船が通る経路…奈良や大阪はパニックに陥る。そうして奈良や大阪から人が避難してもぬけの殻になったところで、分かれたもうひとつのチームが奈良の大仏や国宝を盗み出す、という算段だったそう。
まぁ、それも工藤くんと大阪の探偵が繋がっていたおかげで阻止されたみたいだけど。

「…うん、わかった。ありがとう、平次兄ちゃん」

工藤くんが服部平次との通話を終えて電話を切る。毛利探偵は「やっぱり大阪の探偵坊主が糸を引いていたのか」なんて言ってるけど…さっきまで呑気に寝ていた人がよく言うわね。…まぁ、何か睡眠薬でも飲まされたんでしょうけど。

「あ、そうだ。はいこれ」
「おぉ、すまんな小童」

工藤くんがレディ・スカイを鈴木相談役へと返す。赤いシャムネコの手に渡っていたものを取り返したみたいで
、何はともあれ良かったと肩を竦めた。
これで全てが終わったわけじゃない。殺人バクテリアに関しては何一つ解決していない。喫煙室に連れていかれたミナさんや蘭さんだって未だ閉じこめられたまま。けれど私は工藤くんの様子に違和感を感じていた。
ミナさんや蘭さんの感染が発覚して喫煙室に連れていかれたのは、恐らく工藤くんがこの船に戻ってきた頃か…それの少し後くらいだと思う。彼女達のことを知らない可能性もないわけじゃないけど、彼がそんな重要な情報を知らないわけがないと思った。そもそも、ミナさんや蘭さんがこの場にいない時点で全てに気付いているはず。
だとしたら。…彼の態度は、やけにのんびりし過ぎている。
…安室透もそこには違和感を感じているようで、難しい表情で黙ったまま工藤くんを見つめている。

「それより、早くミナさんや蘭を病院に連れて行かなきゃ…!」

親友が感染したとあっては当然心配よね。園子さんが鈴木相談役に言うけど、それを遮ったのは工藤くんだった。

「あ、そうそう、そのことなんだけど…」

そうして工藤くんから真実が語られた後。真っ先にデッキから飛び出して行ったのは…安室透だった。



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