113

外はすっかり暗くなっていた。
外が暗くなったことで、喫煙室の中も暗くなっている。誰も部屋の電気をつけようとしなかった。
蘭ちゃんと並んで手すりに体を預けながら、窓の外をぼんやりと見つめる。遠目に見えるあれは京都タワーかな。…こっちの世界では京都タワーというのかわからないけど。西都タワーとか?そんなわけないか。
少なくともそういうことを考えられるくらいには思考も回復していた。別のことを考えていれば、体の痒みもさほど気にならないのだ。
ただ…ちら、と部屋の隅に視線を向ける。
水川さんは、部屋の隅で頭を抱えたまま、ずっと「死にたくない」と呟いている。…死を怖いと感じるのは当然のことだ。私だって、きっと蘭ちゃんだって怖いと思っている。
死にたくない。…方法があるかどうかはわからないが、それでも生きることを諦めるわけにはいかないのだ。

「…ここ、大阪ですよね」
「え?」

蘭ちゃんの言葉に視線を戻し、首を傾げる。
窓の外は高層ビルの街並みだ。奈良はとっくに通り過ぎ、蘭ちゃんの言う通り大阪市内には入っていると思う。

「車が走ってないんです」

窓の外の景色に目をこらす。…蘭ちゃんの言う通り、車が一台も走っていない。人の姿も見えない。
ビルの明かりはそのままなのに、人の姿が…気配がないのである。

「…どうして」
「…この飛行船が殺人バクテリアを乗せてるとどこからか漏れて、皆避難したんでしょうか」
「それだったら、むしろ良いのかもね。…これ以上の被害は出ずに済むかもしれないし」

大阪に誰もいないなら、病院で身体を診てもらうのも難しくなってしまうのかもしれないけど。…病院に行けないのは、さすがに辛いな。感染して苦しんでるのは私だけじゃない。
蘭ちゃんも水川さんも…ウェイトレスの人、それから藤岡さん。皆、ちゃんと病院に行って…回復する方法を探さなければいけない。
この飛行船はどこに行くのだろう。大阪で止まるのか、それともまだののまま飛び続けるのか。地べたが恋しいなんてふと思って苦笑した。

その時、がちゃんと鍵の外れる音がした。蘭ちゃんと一緒に振り向くと同時に、ドアが少し乱暴に開け放たれる。
驚いて息を呑む。廊下からの光が逆光になって顔は見えづらいが、シルエットで誰だかすぐにわかった。

「…透さん、」

どうしてここに。赤いシャムネコは?ここは殺人バクテリアが蔓延していて危険な部屋なのになんの迷いもなく何故来たのだろう。見た感じ透さんまで感染したわけではないようだ。
驚きに硬直しながらも、私と蘭ちゃんははっとして口を押さえる。
この部屋にいたら。私達に近付いたら。透さんに細菌を移してしまう。

「あ、安室さん…駄目です、部屋に入っちゃ駄目です!」

呆然とする私の代わりに蘭ちゃんが叫ぶ。それに釣られるように息を飲んで、私は一歩後退りした。出来る限り近づいて欲しくなかった。今すぐドアを閉めて、出て行って欲しかった。

「こ、…来ないで。…透さん、来ないでください!」

透さんはじっとこちらを見たまま動かない。どうして何も言わないのか、どうして動いてくれないのか。理由もわからずにもう一度叫びかけた時、透さんの足元から小さな影が顔を覗かせた。

「蘭姉ちゃん、ミナさん。大丈夫だよ」
「……コナンくん…?」

いつの間にこの飛行船に戻ってきていたのか。けど、コナンくんがここにいるということは恐らくキッドも一緒に戻ってきたのだろう。
…こんな危険な船にどうして戻ってくるのだろうと思いかけて…コナンくんはそういう子だったと思い出す。そうだ。どんな時でも諦めずに真っ直ぐひた走る。それが危険で無謀なことであろうと、決して諦めない。それが、コナンくんだった。

「ダメ…来ちゃダメ!コナンくん!」

怯えたように口を覆いながら叫ぶ蘭ちゃんに、コナンくんは柔らかく微笑んで言った。

「大丈夫だよ蘭姉ちゃん。だって誰も、細菌になんか感染してないもん」
「え…?…で、でも発疹が、」
「その発疹はただのかぶれです。多分漆にかぶれたんだろうと、コナンくんが」
「…漆…?」

透さんの説明に眉を寄せる。
漆って…伝統工芸でよくある、あの漆だろうか。確かに山で漆に触れてかぶれたなんて話はよくあるけど、意味がわからずに首を傾げる。どうしてここで漆が出てくるんだろう。
透さんとコナンくんは部屋の中に入り、ゆっくりと私達に歩み寄ってくる。

「水川さん、ミナさん、そして蘭さんを連れて行ったのは皆同じ人でした」
「つまり、その人だけが彼らの中で漆に耐性があるんだ。ボク見たんだよ。その人、手の爪が黒くなってたから…きっと元漆職人か何かなんだろうね」

…コナンくん、そんなところまで見ていたんだ。手の爪が黒くなってたから漆職人だろうなんて普通なら考えも及ばない。
話を聞きながら、部屋の隅に蹲っていた水川さんも顔を上げてゆっくりと立ち上がっている。

「つまり、犯人達は最初から細菌なんか盗んでなかった。ただ実験室を爆破して、今回のバイオテロを本当っぽく見せただけだよ。その証拠に、」

コナンくんはポケットに手を入れると、そこから赤いシャムネコのマークの入ったアンプルを取り出した。…それは、この船がハイジャックされた一番最初の時に犯人達のリーダーが見せたアンプル。殺人バクテリア入りのアンプルだ。コナンくんが手にするそのアンプルには、まだ液体が入っている。

「それ、」
「このアンプル、リーダーの前で蓋を開けようとしたけど、リーダーは騒ぎもせずに平気な顔してた。もし本当に入ってれば、必死に止めるはずだよね」
「…先程のミナさんや、蘭さんのように、ね」

コナンくんが透さんの言葉に大きく頷き、そのままドアの方を振り返る。すると、ドアが開いて毛利さんと園子ちゃんが顔を覗かせた。
毛利さん、目が覚めたんだ。二人はそのまま部屋の中へと入ってくる。

「大丈夫か、蘭、ミナさん」
「う、うん…」
「…はい」

発疹の痒み以外、確かに身体の異常はない。
私が感染してから…恐らくもう三時間くらい、だろうか。ニュースで見ていた衰弱のような症状はない。

「最初の発疹とは別に、二人とも別の場所にも発疹が出ています。それも、何かに触れたような場所に。それは、全体的に漆が吹き付けられたこの部屋に入り、その箇所に触れたから」
「そう。きっと犯人達は、この部屋の至るところに漆を吹き付けたんだ。壁とかソファーとか手すりにね」

…確かに、筋は通っている。コナンくんと透さんが言うんだからきっと間違いないんだろう。でも私はそれでも、ほんの少しの不安が拭い去れなかった。
だって万が一、このかぶれが漆によるものじゃなかったら。細菌が本当に盗まれていて、この部屋にばらまかれていたとしたら。私には殺人バクテリアが本当に感染していたとしたら。全て可能性がないだなんて、私にははっきりと割り切ることは出来なかった。

「コナンくん、後は任せてもいいかな」
「えっ?う、うん…いいけど」
「ミナさん」

ぎゅっと手を握り締めたまま俯いていたら、透さんに声をかけられてはっと顔を上げる。透さんは私の目の前まで足を進めると、ほんの少し睨むように私を見つめていた。どきりとする。彼の目を真っ直ぐ見返すことが出来ずに怯み、少し後ろに下がりかけた瞬間彼の手が私の右腕を掴んだ。
ひゅっと息を飲む。

「やめ、」
「行きますよ」

強く腕を引っ張られてたたらを踏む。水川さんや蘭ちゃん、コナンくん…毛利さんや園子ちゃんが唖然としてこちらを見ているのがわかったけど、よそ見をする余裕はなかった。
毛利さん達の横を抜けて喫煙室を出る。ぎゅうと胸が痛んで、離してほしいのに私はさっきみたいに透さんの腕を振り払うことが出来なかった。振り払えない。振り払うことを、許してくれない。

「と、…透さん、」
「ミナさん、まだ信じてないでしょう」

階段を上がりながら、透さんは振り向かないまま言った。私が言葉に詰まって何も言えない間も、彼の足は止まらない。当然私も、歩き続けるしかない。
階段を進んで客室があるフロアに上がると、透さんは私達に宛てがわれた部屋へと入る。それからドアを閉めて、そこでようやく私の方を見た。

「自分がまだ殺人バクテリアに感染しているかもしれないなんて思っているんでしょう」
「……、…」

透さんの前で口を開くのも怖かった。触れられていることも怖かった。更に言うなら呼吸をすることだって、本当は怖いと思っている。
殺人バクテリアなんてない。体に現れた発疹はコナンくんや透さんの言った通り漆にかぶれただけ。それが事実だとしたら、私の感じている恐怖や怯えなんてとても滑稽なものだろう。有りもしない殺人バクテリアに怯えているということなのだから。
上手く言葉が出ずに俯けば、透さんは小さな溜息を吐いた。
透さんに感染させてしまうかもしれないその可能性が怖い。でも私が彼を真っ直ぐに見れないのは、それだけが理由ではない。
彼の腕を強く振り払い、突き放すようなことを言ってしまった。でもそれは、私が弱かったから。体に発疹が現れた時私は、一瞬でも透さんに汚いものを見るような目を向けられるかもしれないと、そう思ってしまった。だから突き放すような言葉も優しい言葉もいらないと思った。ただ彼の前から消えたかった。
…そんなはずないのに。私はまた、透さんのことを信じることが出来なかったのだ。

「証明しましょうか」
「…証明…?」

透さんの声にゆっくりと顔を上げる。透さんは、ただじっと私のことを見つめていた。

「あなたが殺人バクテリアに感染なんてしていないという証明ですよ」

そんなのどうやって、と思った時だった。
透さんの腕が伸びて私の首の後ろを掴む。そのまま強く引き寄せられて、慌てて彼の胸に手を付いて距離を取ろうとした。私が彼の力に敵うはずもない。やめて、という言葉を声に乗せる前に、噛み付くように口付けられた。

「ッ、ん、」

必死に唇を閉じるのに、空いていた透さんのもう片方の腕が私の顎を掴む。まるでこじ開けるように唇を開かされ、すかさず口内に滑り込んできた彼の舌に自分のそれを絡め取られた。

「ん、んっ…ゃ、」

彼の胸を強く押すもびくともしない。混乱で頭が真っ白になる中、彼の舌は乱暴に私の口内を蹂躙する。互いの口内で唾液を混ぜ合い侵されるようなキスに呼吸もままならなくなり、腕にも体にも上手く力が入らなくなっていく。

「…っは、ッ…はぁ、っ」

やがて唇が離されて、浅くなった呼吸をそのままに私は透さんを見た。
どうしてこんなことを。こんなことをしたら。

「これで、あなたが本当に殺人バクテリアに感染していたとしたら…僕も、同じように感染するでしょうね」

鼻先が触れ合う距離ではっきりと言われ、ぎゅっと眉を寄せた。鼻の奥が痛くなって、目の奥が熱くなって、それを堪えるために強く唇を噛み締める。
透さんはそんな私を見て、ようやくほんの少しだけ眦を緩めて微笑んでくれた。首の後ろに回されていた手が背中に周り、顎に触れていた手が私の腰を抱き寄せる。

「僕は死にませんよ。何故なら、あなたは感染なんてしていないから。…怖かったでしょう」

透さんの手が優しく私の頭を撫でる。その手に甘えて、私は彼の肩に顔を埋めた。
どうしてこの人は、こうやって私の心を溶かしてくれるんだろう。きゅう、と胸が詰まって吐息が震えた。

「…ごめん、なさい」
「何が?」
「…腕を…振り払ってしまって、」
「気にしていませんよ。…怒りましたけどね」

びくりと私が体を震わせると、透さんはクスクスと笑って違いますよ、と付け加える。

「…あなたにあんな顔をさせた、犯人グループに対してです」

あんな顔。…あの時の私はさぞ酷い顔をしていたことだろう。何せあのリーダーが楽しげに笑ったほどだ。透さんはそのことに対して、犯人グループに怒りを覚えたという。

「当然でしょう?好きな人が絶望して苦しんでいるのを、馬鹿にして笑ったんですから」

コナンくんが懲らしめてくれたから僕の出番はありませんでしたけどね、なんて言って笑う透さんに、苦しいほどの愛おしさが込み上げる。
透さんのことがこれ以上ないってくらいに好きなのに、それ以上の愛おしさを覚えてどうしようもない。
私はきっと、何度でもこの人に恋をする。昨日よりも今日、今日よりも明日。
毎日毎日、この人のことをもっともっと好きになる。


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