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ようやくコナンくんや透さんが説明してくれた漆の話を信じることが出来、私が落ち着いた頃透さんはそっと体を離した。濡れていた私の目元を優しく指で拭って笑ってくれる。

「赤いシャムネコは…?」
「コナンくんが全員懲らしめて、今は拘束してあります。心配いりませんよ」

透さんが「コナンくんが」と言うからには、恐らくコナンくん一人の力で全員を捕らえたということなんだろう。でコナンくん、本当にすごいな。スーパーキッズすぎる。

「…それじゃあ、犯人グループも捕えられたし…これで解決ですか?…私の発疹も、漆にかぶれたもの…なんですよね」
「えぇ。あなたの発疹は、喫煙室に入り漆にかぶれた藤岡さんに触れられたところに現れたもの。それ以外のところは、喫煙室で何かに触れたところにしか現れなかった、……」

そこまで話して、透さんは不自然に言葉を切った。それからほんの少し眉を寄せて一瞬考え込み、すぐにはっとして顔を上げる。

「…見落としていた」
「え?」
「ひとまず皆がいるデッキへ行きましょう。今一人になるのは危険です」

全部解決したんじゃ、という言葉を飲み込み、透さんの言葉におずおずと頷く。透さんに手を引かれ、足早に部屋を出てはデッキのフロアへと降りる。
これは…まだ解決していないということなのだろう。透さんは見落としていたと言った。一体どういうことなのかと眉を寄せる。

「デッキに行く前に少し寄り道を」
「えっ?はい、」

透さんはそう言うと、廊下を真っ直ぐ進んでドアを開けた。診察室のドアだ。そしてその奥には、病室がある。確かその病室には、藤岡さんとウェイトレスさんが隔離されていたはず。
透さんは病室のドアを開け放ち、私は中を見て目を見開いた。

「ウェイトレスさんだけ…?!」

病室にいたのはウェイトレスさんのみ。しかも、両手を縛られ猿轡を噛まされている。これでは動くことも出来ない。一緒にいるはずの藤岡さんの姿はなかった。

「やっぱりか…!」
「ど、どういうことですか…?」

透さんは一度私の手を離すと、ウェイトレスさんの猿轡と手首の縄を外してあげている。
ウェイトレスさんは一体誰にこんなことをされたのか。真実になんとなく気付きながらも、私はその答えを口にすることが出来ない。
透さんはウェイトレスさんの拘束を全て解くと私を振り向いた。

「先程言った通り、漆による発疹はあの喫煙室で何かに触れたり、漆にかぶれた人に触れられた場所にしか現れません」
「……でも、それじゃあ、」
「ええ、彼だけだったんです。何かに触れにくい顔や喉にまで発疹が出ていたのは。…つまり、この事件の黒幕は…」

藤岡隆道さん。
最初の感染者であると思われていた彼が、まさか全ての黒幕だったなんて。確かにここに隔離されてしまえば安全なところから犯人グループに連絡を取ることも出来るかもしれない。だから敢えて、感染の恐怖を煽り自分は安全な場所に移動するため、感染者のふりをした?

「…さっき、小さな男の子がここにやって来て…すぐに飛び出していきました」

ウェイトレスさんの言葉に透さんが舌打ちする。ウェイトレスさんが言うのは間違いなくコナンくんのことだろう。彼のことだから、透さんと同じ答えに行き着いて、きっと藤岡さんの元へ向かった。きっと彼を捕まえに行ったんだ。
でも、藤岡さんの仲間である犯人グループは全員捕えられたと言うし、藤岡さん自身この後どうするつもりなのだろう。人質でも取って、逃亡するのだろうか。

「…とりあえずデッキへ。皆と合流しましょう」
「コナンくんは」
「あなた方をデッキまで送り届けたら僕が行きます。さすがに彼だけでは心配だ」

透さんに促されて、ウェイトレスさんと一緒に病室を出る。階段を駆け下りてデッキに駆け込もうとして、不意に横から伸びてきた手に腕を掴まれてバランスを崩した。よろめく体を強く引っ張られて、目に入った人物に息を呑む。カメラマンの石本さん。彼は私の表情を見てにやりと笑うと、背後からがっしりとした腕で私の首を絞めた。

「ミナさん!」
「動くな!」

頭に固いものが押し当てられて肝がひやりと冷える。見なくてもわかる。拳銃だ。
よくよくデッキを見回せば、皆手すりに両腕を拘束されていた。そしてそんな皆に銃口を向けているのは…レポーターの西村さん。
水川さん以外の二人が、まさかこの事件に一枚噛んでいたなんて思いもしなかった。

「ウェイトレスと…兄ちゃんと姉ちゃん。これであのガキ以外全員だな。大人しく手すりのところに手をつきな」
「妙な真似はしない方がいいわよ。あの子の頭が吹っ飛ぶから」

ウェイトレスさんが先に手すりへと手をつきその場に拘束される。透さんはしばらくじっと様子を伺っていたものの、ゆっくりと息を吐き出して西村さんの指示に従うように手すりへと近付いた。武器を持った相手に、丸腰ではどうすることも出来ない。刃物であれば透さんなら何とかしてくれそうだったけど、残念ながら相手は拳銃を所持している。下手な動きは危険なだけだ。
西村さんは満足そうに笑い、透さんの両手も手すりへと拘束する。

「さぁ、最後はあなたの番よ」

西村さんに言われ、石本さんに背中を押される形で手すりへと歩み寄る。透さんの隣に膝をつかされて、私も両手を手すりに拘束された。縄でぐるぐる巻きにして、しっかりと結ばれた結び目は簡単には解けそうもない。

「あなた方も彼らの仲間だったとは。盲点でしたよ」
「褒めてもらえて光栄。でも残念だけど、全員諸共…ここで死んでもらうわ」

全員って…見れば、犯人グループの人達も拘束されたままだ。彼らの仲間じゃなかったのか。私が驚いたのに気付いたのか、石本さんは肩を竦めて笑う。それから、ポケットからレディ・スカイを取り出した。…彼の手に渡っていたのか。

「予定が変更になってな。何せ獲物はこいつだけだ。だから、全員死んでもらうことにしたってわけだよ」
「そんな、」

そんな、いとも簡単に。
犯人グループの人達は確かに悪人だ。哀ちゃんを殴ったり、コナンくんを窓から放り投げたり、子供にだって容赦しない極悪人だ。裁かれて然るべき人達である。
けれど、少なくとも手を組んでいた仲間ではないのか。そんな簡単に切り捨てるのはおかしい。彼らは生きて、きちんと罪を償わなければならない。
怒りのような疼きのような、よくわからない感情が湧き上がって強く唇を噛んだ。

「燃料タンクに仕掛け直した爆弾はあのガキが解除したみたいだが、キャビンにはもう二つ爆弾が残ってるんだよ」
「私達が逃げ出した直後に爆発。あなた達全員海の藻屑ね。大丈夫よ、一瞬で死ねるでしょうから」

石本さんと西村さんが鼻で笑った、その時だった。
飛行船ががくんと大きく揺れる。それとともに、何やら機体が軋むような音がする。窓の外に視線を向けるも暗くてよく見えないし何が起こっているのかわからない。
石本さんと西村さんが小さくよろめいて辺りを見回していると床が傾いた。軋む音が大きくなり、それと同時に轟音が響く。

「な、なんだ?」
「どうしたの?!」

床が斜めになったことでデッキに配置してあったテーブルや椅子が滑って壁へとぶつかって行く。…もしかして、機体が何かに引っかかって傾いているんじゃ。
不安に胸がざわついて息苦しくなる。このまま墜落とか…爆発なんてしないよね。傾きが強くなるのに嫌な予感が止まらなくて、吐息が震えて鳥肌が立った。
そして私の嫌な予感は本当になる。

「きゃあああ!!!」

急な浮遊感に声が上がる。机や椅子が滑るスピードを上げ、壁に激突する音が響く。手首に縛り付けられた縄が肌に食い込み、体がぶらんと揺れた。
機体が、垂直になっていた。こんな経験遊園地のアトラクションでも体験したことがない。現実に起こっていることだ。手首に痛みが走り、いつしか瞑っていた目を開けてみれば壁が天井になっているという奇妙な光景に目眩がする。
浮遊感と目眩に吐き気すら感じながら、皆の叫び声を聞きながら、この地獄のような時間が過ぎ去るのを待った。
恐らく今この船のコックピットは無人。自動操縦が上手く動いてくれることを祈る。
このまま墜落するのか、機体が衝撃に耐えきれずどこかから折れるのか。史上最悪の事故になるかもしれない、なんて思いながら強く目を閉じた。


***


「…おい、皆!大丈夫か!」

毛利さんの声に、強く瞑っていた瞼からゆるりと力を抜く。
気付けば体はぶら下がってはいなかった。ちゃんと床に足をつけて座り込んでいる。重力の感じ方もいつも通りだ。

「は、はい!なんとか!」
「ちょっとびっくりしただけだ…!」

光彦くんと元太くんの声。息を吐き出しながら目を開けると、視界も普通だ。壁が頭上に来ているようなこともない。…自動操縦が上手く働いたのか。飛行船は、問題なく飛行を続けているようだった。

「ミナさん、大丈夫ですか」
「…はい、…とりあえずは」

透さんに声をかけられて、目を開けて頷く。発疹が出ていた部分に縄が食い込んで擦れたのか血が滲んでいたけど、それ以外はとくに問題は無い。
中森警部と次郎吉さんの声に視線を向ける。私達を拘束した石本さんと西村さんが後方の壁の近くで倒れていた。…動く様子もない。どうやら、飛行船が急上昇した際に壁に叩きつけられ気絶しているらしい。
私達は、縛られていたおかげで助かったんだ。ほう、と息を吐いたら、突然ルパンがドアの方に向かって唸り始めた。
視線を向けて、私は大きく目を見開く。

「いやぁ、驚きました」

飄々とした声。ドアの方からのんびりとデッキに踏み込んできた白い影に息が止まる。
仄かな月明かりの下で見たのとは違う、明るい電気の下での彼との巡り会い。彼と距離があるのと、彼自身がハットを被ってモノクルをしているせいで顔まではよく見えない。
…怪盗キッド、実在していたんだ。今更何をと思わない訳では無いけど、どうしても彼と会ったのが月明かりの下だったせいか、夢幻だったのではないかという疑いもほんの少しだけ持っていたのである。たとえうさぎのぬいぐるみを貰っていたとしても。まるで夢のような時間だったと思っていたから。

「ホールまで様子を見に来たら、急に床が傾くんですから」
「おのれキッド!!」
「キッド様!」

中森警部がすぐ横を通るキッドに噛み付こうとするものの、今の私達は全員縛られたままだ。当然距離が届かずにキッドは涼しい顔をして歩みを進めている。

「コナンくんは?!」
「あのボウヤなら無事ですよ。もうじき、ここに来るでしょう」

蘭ちゃんに答えながら、怪盗キッドは私の目の前まで来ると立ち止まった。まさか目の前までキッドが来るとは思わずに私はただ呆然とすることしか出来ない。
ぽかん、と口を半開きにして彼を見上げていたら、キッドはくすりと小さく笑って背中を屈めた。私の手首を縛る縄に手を伸ばし、丁寧に解いてくれる。

「ぁ、…あの、」
「…おや、また傷になってしまっている」

小さく呟いたキッドの言葉に息を呑む。キッドは縄を解くと、少し血の滲んだ私の手首をそっと両手で包んだ。柔らかなシルクの手触りにとくりと胸が弾む。
あの夜も。眠れずにいたあの夜も、私の手首には傷があった。今と同じような縄で擦れた傷だ。あの時もこうして、その手で私の手首を優しく包んでくれたのを覚えている。

「…もしかして、…私のこと、覚えてるんですか?」
「もちろん。月夜に出会ったお嬢さん」

柔らかい声に何故だか泣きたくなる。どうしてだろう。月明かりが似合う彼なのに、まるで太陽の温かさに触れたような安心感を覚えた。この安心感を知っているような気がする。よく、知っているような気がする。
キッドはふと私から視線をずらして隣の透さんを見ると、少し目を瞬かせてから小さく鼻で笑った。

「…怖い怖い。あなたの騎士は眼光だけで人を殺せそうだ」

眼光だけで人を殺せる、って。目を瞬かせながら隣の透さんを見てみるものの、その横顔は髪で隠れてしまっていてほとんど見えない。キッドは軽く肩を竦めると、そっと私の手を離した。

「それじゃ、皆さんのロープも解いてやってください」
「あ、」
「あーん!キッド様、あたしもぉ!!」
「待てーッ!キッド!このぉー!!」
「っと…もちろん警部のロープは最後でよろしく」

呆然としている私から視線を剥がすと、キッドはさっさと歩き出してしまう。
そうして園子ちゃんや蘭ちゃん、中森警部の横を平然と抜けると、石本さんの鞄の中を漁ってレディ・スカイを取り出す。それを掌に握りしめ、キッドは芝居がかった動きで振り返り、大袈裟にお辞儀をして見せた。

「では皆さん、お約束通りお宝は頂いて参ります」

用は済んだとばかりにデッキから出ていこうとするキッドに、中森警部と次郎吉さんの声が飛ぶ。
逃げるな、コソ泥め、そんな言葉にもキッドは笑みすら浮かべて、歌うようにこう言った。

「怪盗、ですよ」



キッドが行ってしまう。追わなきゃ。
鞄の中のうさぎのぬいぐるみを取り出して、覚悟を決めて顔を上げる。
皆のロープを早く解いてあげたい。けれど、そうしている間にキッドはきっとこの場を立ち去ってしまう。キッドは空を飛べるのだ、用が済んだら飛行船からも姿を消すだろう。
そうなる前に。一言、きちんと伝えないと。

「ミナさん!」

蘭ちゃんの声にも私の足は止まらなかった。
後ろを振り返ることもせず、私はデッキを飛び出した。

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