115

デッキを飛び出して辺りを見回す。エレベーターは動いていないから、多分階段を上がって行ったんだと思う。きっとキッドはエレベーターなんて手段は使わない気がする。エレベーターを待っている間に捕まってしまう可能性だってあるし、きっと彼は人目につかないルートを取る。
キッドがこの飛行船から飛び立てるような場所を考えて、浮かぶのは最上階のスカイデッキだ。各デッキの窓から飛び降りるには、この辺りはもう街中で障害物が多すぎる…んじゃないかな。素人判断だ、断定は出来ない。
階段を駆け上がって、廊下の先にある「staff only」と書かれたドアに目が止まった。エレベーターを見るもやはり動いてはいない。エレベーターを使わずに上に行くにはどこを通ればいいのか。乗客が普通は入れない場所にしかそういったルートはないと考えるのが普通だ。
意を決してドアを開けて中に入れば、薄暗い鉄の網目の床が続いていた。

「ここは、」

確か、エレベーターに乗った時に見えた飛行船の内部。なんとなく東都水族館の時の観覧車内部を思い出して、ひやりと背筋が冷えた。
キッドはどこに。本当にここを通って行ったのかと不安になりかけたその時だった。

「おやおや、私を追いかけてきてしまったのですか?」

頭上から声がしてはっと顔を上げれば、私がいるところよりも上にある足場にキッドが立っていた。キッドは軽く肩を竦めて、そこから私の目の前へと軽く飛び降りる。
…追いかけてきてしまったのですか、なんて言ってるけど…待っていてくれたのではないかなんて期待をしてしまって、私は小さく首を振った。

「あなたに、どうしてもお礼を言いたくて」
「お礼?」

首を傾げるキッドに、手に持っていたぬいぐるみを見せる。暗がりの中でも、真っ白なうさぎのぬいぐるみはその存在をはっきりとキッドに伝えていた。

「この子のお礼。私、あの頃…わりとしんどい時期で。夜眠れないのが辛くて、暗闇が怖くて、そんな時にあなたと出会ったんです」

突然目の前に現れた若い怪盗。それまで怪盗キッドという存在にあまり興味もなかったけど、あぁ確かにこれは皆が惹き込まれていくのがわかるなと思った。少年のような純粋さと、怪盗という怪しさと、見た目にはそぐわない程の紳士的な仕草。とても曖昧で複雑で、それ故に魅力的な人。
このうさぎのれいくんがいなかったら私はもっと立ち直るまでに時間がかかっていただろうし、透さんにももっと心配や迷惑をかけてしまっていたかもしれない。

「この子にすごく救われたんです。本当にありがとう。これからも大事にします」

この世界に来てからの、私の宝物のひとつ。
れいくんをぎゅっと抱きしめて、私は顔を上げて小さく笑った。
怪盗キッドは確かに犯罪者かもしれない。善人ではないかもしれない。けど、それでも悪人ではないのだ。
私に優しく声をかけてくれた時。今日コナンくんを颯爽と助けてくれたあの姿。少なくとも私にとってはとても頼もしく見えた。

「あなたは怪盗だけど、…ヒーローです」
「っ、」

ヒーローという言葉がピッタリだった。彼は闇に染まる人間ではない。闇夜を照らす、月の光のような人だ。けれどそれと同時に、眩しい太陽のような存在感も持っていた。

キッドが息を飲んで、私の顔をじっと見つめていた。どうしたのだろうと思いながら目を瞬かせて、間近で改めて見る彼の顔に既視感を覚える。
ここは確かに薄暗いけれど、あの月夜の日よりはまだ視界は明るい。だからこそ、あの時に気付けなかったことも今ならわかる。
よく見れば少し癖のある髪。整った目鼻立ち。月の光が似合う彼なのに、太陽の暖かさを感じるのは何故なのか。そこに疑問を感じて、私はゆるりと目を瞬かせる。
この感じ、どこかで。彼の存在に引っ掛かりを覚えながら、私はじっとキッドを見つめた。
知っているのだ。私は彼のことをよく知っている。耳鳴りすら覚えそうな程の既視感に目を細める。

「…そんなお褒めの言葉をいただけるなんて光栄ですよ、お嬢さん」

キッドはゆっくりと息を吐くと、その場に膝をついて私の手を取った。それから私の指先にそっと唇で触れて、膝をついたまま私を見上げる。
既視感が強くなって、私は小さく息を飲んだ。
動きや仕草、声のトーンは全く違うけど、根底は同じもの。月と太陽の両方を合わせ持つ存在がいるなんて考えたこともなかったけど、既視感の正体と目の前の怪盗キッドがぴたりと重なって…私は大きく目を見開いた。

「黒羽くん、」

思わずぽつりと呟けば、私の手を握る彼の指が小さく震えた。
どうして気付かなかったのだろう。気付いてしまえば簡単なもので、目の前の彼がキッドではなく黒羽くんにしか見えなくなる。黒羽くんがキッドの格好をして私の目の前にいる。例えるならそんな感覚で、けれども彼が正真正銘の怪盗キッドだということも理解している。
事実は至ってシンプルだ。けれども私の頭は上手く動いてはくれず、どうして、という疑問ばかりが湧き上がっていた。

「黒羽くんどうして、」
「怪盗キッド、ですよ。お嬢さん」

キッドが立ち上がるのを見つめ、不意に手を離されそうになって思わず咄嗟にぎゅうと握り込んだ。瞬間、キッドは少しぎょっとしたような顔をする。その顔は怪盗キッドと言うよりは私の知る黒羽快斗くんの表情に近くて、やっぱり彼は黒羽くんだと確信を得た。
それと同時に、今まで黒羽くんと怪盗キッドの話をした時の彼の反応にも納得がいく。コナンくんと知り合いだと言った時に苦い顔をしたのも、黒羽くんが怪盗キッドでコナンくんとは敵対する立場だったから。私がキッドが悪人とは思えないと言った時に嬉しそうな顔をしたのも、それは彼自身のことだったから。
怪盗キッドが黒羽くんに似ていると思ったのも間違いじゃなかった。本人なんだから当然だ。黒羽くんがマジックを得意としているのも、キッドがマジックで皆を翻弄するのも、考えれば共通点だって出てくる。
今まで気にならなかったところが疑問に変わり、それと同時に全てが繋がっていく。
キッドは少し迷うように視線を泳がせていたが、その態度こそが自分が黒羽快斗だと認めている証拠。私がキッドの手を握る指に力を込めると、彼はやがて深い溜息を吐いて肩を落とした。

「……ミナさんは中森警部みたいにはいかねぇかぁ」

ぽつりと呟いたその声は、飾っていないいつもの黒羽くんの声だった。
一瞬彼の言葉の意味がわからず目を瞬かせたものの、中森警部と聞いてはっとする。黒羽くんは中森警部の娘さんである青子ちゃんと幼馴染だ。

「…もしかして普段も中森警部と面識は…」
「あるよ。よく青子の家にも行くから、一緒に飯とかも食うし。だから、そんな中森警部も騙されてくれるんだから…ミナさんも騙されてくれるかなって思ったんだ」

肩を竦めながら苦笑する黒羽くんに胸がきゅうと痛んだ。
騙す、なんて。確かに私はキッドの正体が黒羽くんだと気付いたけれど、かといってそうだと知らなかった時期を思い返しても騙されただなんて思いはしない。
だって黒羽くんは、意味もなくこんなことをする人間じゃない。怪盗キッドだってただの愉快犯なんかじゃないとわかるから。黒羽くんが怪盗キッドにならなければならない理由が、絶対にあるはずなのだ。
どんな理由かはわからないけど、それは透さんの姿とも重なる部分がある。黒羽くんは、普段は普通の高校生なのだから。
私はゆっくりと息を吐き出すと、彼の手をそっと離した。黒羽くんはそれが意外だったのか、少し驚いたように目を瞬かせている。

「…やることがあるんでしょう」
「……見逃してくれるの?」
「言ったでしょ?私、キッドは怪盗だけど…ヒーローでもあるから」

そもそも私が彼を捕まえられるだなんて思ってもいないし、捕まえようとも思わない。むしろ、キッドが黒羽くんだとわかって不思議と安心している部分もある。
黒羽くんはじっと私を見つめ、小さな溜息を吐いた。

「…何も聞かないんだ」
「簡単に話せることなら、君は怪盗なんてやってないでしょう」

誰にだって話せないことや秘密はある。それを知らないから、聞かせてくれないから、話してくれないからといって、その人に対する見方を変えたいわけじゃない。だって私だって自分の生い立ちは簡単に話せるものでは無い。
踏み込んでもいいと許されない限り、私はそこには踏み込まない。
黒羽くんは私の言葉にゆっくりと目を瞬かせて、いつものように無邪気に笑った。その顔は何故かとても幼く、どこかほんの少しだけ泣きそうな表情にも見えた。

「……話したくなったら、話してもいい?誰にも言えない俺の秘密、ミナさんと共有してもいいかな」

誰にも言えない黒羽くんの秘密。彼が怪盗を続ける理由。そんな大層なものを簡単に話してもいいのかとは思うけど。秘密って、一人だけで抱えるのがしんどいのは私もわかるから。

「…いいよ。話してくれるなら聞く。もちろん、口外したりはしない」
「…ありがと、ミナさん」

黒羽くんは柔らかく笑うとそのままマントを翻しながら踵を返して、暗がりの奥へと消えていった。きっとどこからかスカイデッキに上がってこの飛行船から立ち去るのだろう。
私も目的は果たした。早くデッキに戻って皆のロープを解かないとと思いながらドアの方を振り向き、それと同時にドアが開いてびくりと身を竦ませた。まさかまだ犯人の仲間がいたのか、と立ち竦んだものの、見慣れたシルエットに体から力を抜く。

「…透さん…?」

ドアから顔を覗かせたのは透さんだった。
彼は私の姿を見て溜息を吐き、こちらに歩み寄ってくる。と、言うか。いや、そもそも拘束されて動けなかったはずでは。

「…全く、こんなところまで入るなんて」
「…え、え?ロープで縛られてたんじゃ…」
「あなたよりも先にコナンくんが戻ってきたんですよ。怪我をしていたので先に手当も済ませてきました。…手当を終えてもあなたが戻ってこないから探しに来たんです」

コナンくんは無事だとキッドも言っていたから大丈夫だとは思っていたけど、透さんの言葉にほっと胸を撫で下ろした。それにしても私も思っていたよりも時間がかかってしまったし、また透さんにも心配をかけてしまった。
透さんは私の腕に抱かれたうさぎのれいくんを見つめて、再び私に視線を合わせる。

「…キッドに、そのぬいぐるみの礼を?」
「あ、…はい。…ちゃんと伝えられたので、私の目的はちゃんと果たせました」

今思えば、私が拉致された話を黒羽くんにしていたから心配してあの夜来てくれたのかもしれないな、なんて思う。…どうやって場所を見つけたのかはわからないけど、怪盗キッドならさほど難しいことでもないのかもしれない。

「では、とりあえずあなたのその漆かぶれと擦り傷の手当をしましょう。ほかの皆さんは処置済みですから、あとはあなただけですよ」

透さんの手が、先程のキッドと同じように私の手首の傷をそっと包む。あたたかくて、優しくて、それだけで痛みも痒みも無くなる気がする。ほっと息を吐けば、透さんはくすりと笑った。

「…それから、もうひとつの目的も果たさないといけませんね」
「もうひとつの目的?」

透さんの言葉に目を瞬かせると、彼は私の手と手を繋いで指を絡める。そのまま優しく握り込まれて、思わず頬が赤くなるのを感じた。

「鈴木相談役のご好意で、ディナーを用意していただけることになりました。こんなことになりましたから、大阪でゆっくり食事をすることは出来ませんが…残りの時間、僕と空の旅でもどうですか」

透さんと飛行船に乗れることが嬉しかった。散々な一日だったけれど、透さんと一緒に過ごせることは私にとっての幸せだ。一日の最後を幸せな思い出で締め括れるのならそれでいい。

空の旅の最後は、やっぱりあなたと。
繋いだ手に力を込めながら、私は多分、今日一番の笑顔だったと思う。



Back Next

戻る