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飛行船での豪華なディナーを終え、その後警察の人から簡単な事情聴取を受けた。そして今は大阪の病院で漆かぶれの処置をしてもらったところだ。
コナンくん達や阿笠博士、少年探偵団の子達はもともと大阪で一泊する予定らしく、飛行船でお別れした。予定よりも少し時間は遅くなってしまったものの、帰りの新幹線のチケットも無事に取れた為、私は透さんと共にこれから東京に帰る。

「すっかり遅くなってしまいましたね」
「目まぐるしい一日でした」

昼過ぎに飛行船に乗ってから、あまりに濃すぎる一日だった。いろんなことがありすぎた。一日に詰め込みすぎである。何はともあれ、全員生きて戻れてほっとしている。

飛行船でのハイジャックテロの真相はこうだ。
赤いシャムネコというのは、海外で傭兵経験のある人達の集まりで、テロ組織を騙ったのも全ては奈良での仏像窃盗の目的をカムフラージュさせる為。仏像窃盗を目論んだ藤岡さんに雇われた人達だったそうだ。
奈良の仏像窃盗は、コナンくんと服部くんの働きにより無事に阻止。藤岡さん含め今回の件に関わる犯人全員が逮捕され、嘘のバイオテロに怯え西に逃げた人達も無事に戻って来つつあるという。
あらゆるところで今回のテロの影響を受け被害も出ているようだが、これだけの大事件で死傷者が出なかったのは不幸中の幸いだ。
空であれだけ怖い思いをしたせいか、地面を歩けることに大きな安心感を覚えていた。

「ふぁ、」

新大阪駅から新幹線に乗り込んで、透さんと一緒に二人がけの椅子に座ったところで思わずあくびが零れた。こんなことがあって体が疲れていないわけがない。ハイジャックテロが起こってからはずっと緊張しっぱなしだったし、ここに来てようやく心から落ち着けたような気がする。
そんな私を認めた透さんは、小さく笑いながら自然に私の肩を抱き寄せる。…自然にこういうことをしてしまうから本当にイケメンって怖い。そんなイケメンさんと、…つ、付き合っているという事実が何よりも怖い。なんて贅沢な悩みだと内心頭を抱えた。

「着いたら起こします。寝てて良いですよ」
「…でも、透さんだって疲れてるじゃないですか…」
「僕のことはいいんです。大丈夫ですよ、これくらいじゃ大した疲労にはなりませんから」

疲労度合いの大小は問題ではないのだ。私ばかり甘やかしてもらって、透さんばかりに負担をかけたくはない。明日仕事なのは透さんだって同じはず。少しの時間でも、透さんにだってゆっくり休んで欲しい。

「…でも」
「じゃあ、こうしましょう。一時間経ったら起こしますから、そうしたら交代してください」
「…本当に起こしてくれます?」
「もちろん」

体が疲労でどんよりと重くて眠気が強いのも間違いない事実だ。寝ても良いと言ってもらえるのは正直有難いし、透さんの肩を貸してもらえるなんて嬉しいことこの上ない。
む、と私が悩んでいるのを見た透さんは、もう一押しだと思ったんだろう。そのまま私の頭を軽く抱えて自分の肩へと寄りかからせると、ぽんぽんと子供をあやすように軽く叩いた。

「おやすみなさい」

優しい声でそう言われてしまえば、私にはもう何かを言い返すことなんて出来はしない。ちらりと透さんを見上げたものの、優しい視線と交われば恥ずかしくなって慌てて目を逸らした。

「……おやすみなさい。…ちゃんと、起こしてくださいね…」

小さく呟いて目を閉じる。透さんは何も言わなかったけど、くすりと笑う気配がした。
優しく頭を撫でられて、私はあっという間にまどろみの中に落ちていった。


結果、東京駅に着く十分前に起こされた。二時間半近くぐっすり眠ってしまった私の頭は東京に着く頃には随分とすっきりしてしまっていた。
一時間で起こすと言ったのにどうして起こしてくれなかったのかと怒ったけど、「眠っているあなたが可愛かったもので、つい」なんて飄々と言われてしまって言い返すことも出来ない。
次こういうことがあったら、絶対に透さんに先に眠ってもらうのだと心に決めた。油断も隙もあったものではない。


***


「あれ、」

翌日のことである。
嶺書房さんで働くにあたって、基本的に私が朝と夕方の解錠施錠を行なっているのだが、お店の前まで来て私は目を瞬かせた。
シャッターが開いている。何なら店内の電気もついている。お店の鍵を持っているのは、私とオーナーである嶺さんだけだ。嶺さんが来ているのか、と思いながらとりあえずドアを開けて店内へと入る。

「おはようございまーす…」

そろ、と中へと進みながら声をかけると、レジカウンターの奥から嶺さんがひょこりと顔を覗かせた。
嶺さんは私を見て、少し驚いたように目を瞬かせている。

「おや」
「嶺さん…?えっと、おはようございます?」
「おはよう、ミナちゃん。それはそうとどうしてここに?」

きょとん、としながら嶺さんにそんなことを言われてますます訳が分からない。どうしてって、出勤しに来ただけなのだけども。
私が困ったように首を傾げていたら、嶺さんも同じ方向に首を傾げた。

「あのバイオテロハイジャックの飛行船に乗っていたんだろう?」
「えっ、どうしてそれを」
「黒羽くんから連絡があったよ。あの事件に巻き込まれて大変だから、ミナさんは今日は休ませてやってくれ、って」

もしかして黒羽くんから何も聞いていないのかい?
嶺さんが心底不思議そうにそんなことを言うものだから、私もぽかんと口を半開きにしてしまった。
黒羽くんから、嶺さんに連絡がいっていたのか。

「その腕、漆かぶれだって?痒くて大変だろう」
「えっ、あ、はい…ちょっと痒くて寝苦しいくらいですけど」
「私も昔山で漆にかぶれたことがあるからね。その痒みはよくわかるよ。しんどいよねぇ」

軽く笑いながら言う嶺さんに、私も小さく笑みを浮かべる。
漆かぶれはお医者様が処置してくれたおかげで、処方された薬を塗っておけば痒みもある程度は抑えられる。…見た目はさすがにあまり良くないけど、漆かぶれによくある水疱もないしお医者様の見立てでは一週間ほどで治るのではないかとのこと。
嶺さんは軽く肩を竦めると、時計を見上げてからにっこりと笑った。

「とにかく、昨日そんな大変な目に遭ったんだ。今日はゆっくり休んで」
「…いいんですか?」
「いいとも。私も久し振りに店頭に立ちたいと思っていたところなんだよ。常連さんとも会いたいし」

任せてくれと言うように軽く胸を叩く嶺さんを見て、それじゃあ、と私はお言葉に甘えることにした。
今日もバリバリポアロに働きに行った透さんの前では絶対に言えないけど、やっぱり体は疲れているしどことなくだるくてぼんやりとした眠気が残っている。
まだ昼前だけど、少し買い物だけして帰って…家事を終えたらハロとお昼寝なんていうのも良いかもしれないな。

嶺さんにお礼を告げながらお店を出ると、私はスマホを取り出した。早くスマホの修理が終わらないかなと思いながら、私はメール画面を開いて黒羽くんの連絡先を読み込む。まずは嶺さんに連絡をしてくれたお礼。それから何を書こうかなと思い「昨日はお疲れ様」と書いて送信した。
…黒羽くんにキッドに対してのお疲れ様という言葉はまずかったかな、とも思うけど、なんとなくそれ以外の言葉が見つからなかったのだ。
秘密は厳守する。黒羽くんの秘密に関しても、細心の注意を払わなければいけないなと思いながら、私は駅前の方へと歩き出した。



ついペットショップでハロのおもちゃを買ってしまった。デンタルロープ、というそうだ。こういうものを買ってしまうと余計に早く帰ってハロに会いたくなってしまうな、なんて苦笑する。
昨日も帰ってきた時には大喜びでものすごく興奮していたし、やっぱり一人でいるのは寂しいものなのかな。私も透さんも日中は仕事で居ないことが多いし、一緒にいられる時間は出来る限り一緒にいたいと思う。帰ったら絶対にハロと一緒にお昼寝しようと決めながら、ふと顔を上げて私は目を瞬かせた。

「わ、外車だ…」

艶のある真っ黒な車。いかにも高級そうなその外観に思わず引き寄せられる。ほんのり丸みのあるフォルムのボディは品が良くて、昔の洋画なんかに出てきそう。あんまりジロジロ見るのは失礼かなと思いながら、ちょっとだけ、と私はその車に歩み寄った。中に人もいるみたいだから少しだけ見せてもらったらすぐに立ち去ろう。
そうして車の後ろ側を見て思わず声を上げた。

「っポルシェ…!」

ポルシェのロゴに目を剥いた。車に疎い私でも知ってる有名メーカーじゃないか。高級ってイメージがあるけどどうなんだろう。見た感じ古いようなデザインだけど、車体自体はとても綺麗だし大切にお手入れしているんだろうなぁ。
透さんの車もとってもかっこいいスポーツカー。マツダのRX-7、だっけ。車には興味もあまりなかったのだけど、透さんの車は好きだ。透さんの車が好きになってから、なんとなくかっこいい車には目がいってしまう。
でもポルシェなんてお目にかかれるとは思わなかった。どんなお金持ちの人が乗ってる車なんだろうと思いながら顔を上げれば、丁度車の持ち主が車から降りるところだった。
男の人のようだ。黒い帽子に、黒いコート。そしてさらりと靡く、銀色の長い髪。帽子で顔はあまりよく見えないが、鼻筋はすっと通っていて高く、骨格の形から外国の方かなという印象を受けた。何やら電話をしているらしい。スマートホンを耳に当てて話し込んでいる。
すごい、髪さらさら。煙草くわえてる。
銀髪だからと言って年配の方というわけではないらしく、背筋も伸びておりただ立っているだけでも様になる。若くて三十代…もっと上だとしても五十代前半くらいがいいところだろうか。
ぽけ、っとしながらじっと見つめてしまっていたら、不意にその男性がこちらに視線を向けた。瞬間、ぞくりと背筋が凍る。

「っ、」

ぎろり、という表現がぴったりだと思う。男性の蛇のような鋭い瞳が、あからさまな殺意を持って私に向けられていた。睨まれるなんて簡単な言葉では言い表せない。肌を突き刺すような殺意。

「───構わん。殺せ」

何を話しているかなんてわからなかったのに、何故だかその一言だけははっきりと聞こえた。聞こえてしまった。
男性は私から目を逸らさないままスマートホンをポケットにしまう。

「あ、」

出そうとも思わなかった震えた声が零れ、足は根を張ってしまったかのように前にも後ろにも動かない。蛇に睨まれた蛙とはよく言ったもので、今の私そのものだ。
私が言われた言葉ではない。そう思うのに、今すぐにでも殺されてしまうかのような緊張感と恐怖だった。
何もしていないのに冷や汗が背中を流れて気持ちが悪い。呼吸のテンポすら乱れてからからに渇いた喉が張り付くのを感じながら、私は男性から目を離すことが出来なかった。

「なんだ、てめぇ」

低い声だった。
外国人にも見えるのに、日本語をしゃべるのか。いつか会った綺麗なお姉さんも、外国人だったけどとても綺麗な日本語を話していた。脳が現実逃避を始めている。

「……す、…すみませ、ん。あの、っ……くるま、……見てただけ、で」

もっとまともな言葉が話せないのかと内心叫び声を上げた。子供だってもっとまともな説明が出来る。
知らない男性を前にして、私は完全にパニックに陥っていた。ぎゅうと胸を閉塞感が襲い、周りの雑音が遠ざかる。聞こえるのは自分の呼吸音と、心臓の音。それから、痛くなるほどの耳鳴り。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
ちゃんと説明しないと。謝って、ここから立ち去らないと。視界がぐらぐらと揺らいで、私はよろりと一歩後ずさった。

数秒にも、十分にも、一時間にも感じるような緊張感。どれくらいの時間が経ったのか麻痺してわからなくなった頃、男性は唐突に私から視線を剥がして車に乗り込み、そのまま行ってしまった。
遠ざかる黒いポルシェを見送って、それが見えなくなった途端に周りの音がざっと耳に戻ってくる。どっと汗が吹き出して足からは力が抜ける。その場にぺたんと座り込みながら、ただ佇んでいただけなのに激しく乱れた呼吸を整えた。

あれは。
あの人は。
多分、きっと、見てはいけない人だった。
今私が生きているのも不思議なくらいだ。殺されるかと思った。目力だけで人が殺せるなら、私はあの人に一秒ずつ殺されていた。

「あの、大丈夫ですか?」
「…あ、…す、すみません…大丈夫、です。少しめまいが」

道端に座り込んでいたら、通りすがりの人に声をかけられた。慌てて声を返しながら強ばった顔に力を入れて笑みを形作る。

構わん、殺せ。

あの人はそういったのだ。
その言葉の意味は一体なんだったんだろう。物騒すぎる言葉だった。殺せって、何を?誰を?
とても恐ろしい人だった。たった一言しか話していないというのに。
ようやく落ち着いてきた胸を押さえて、私は大きく息を吐いた。



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