117

あの後どうしてもすぐに帰る気になれず、私は駅前まで移動して少し休んでから帰ることにした。酷い耳鳴りの後だからか、今は駅前の雑踏や雑音が心地良い。駅前にある噴水のへりに腰を下ろし、ぼんやりと目の前を行き交う人の波を見つめた。
…そういえばこの世界に初めて来てしまった時も、ここでこうしてぼんやりとしていたのを思い出す。考えるとあの頃から時間も大分経った。長い人生の中ではほんの一瞬かもしれないけど、体感では決して短くはない時間をここで過ごしている気がする。それほどまでに、様々な濃い出来事がたくさんあった。小さく息を吐いて、胸元をそっと押さえる。
心臓がまだばくばくと激しく動いていた。
あの黒ずくめの男性の視線を思い出すだけで背中が震える。凍りつくような、平気で何人も殺してきたかのような鋭い瞳。…なんて、失礼も極まりないけれど。
綺麗な人だったけど、それ故にとても恐ろしい人だった。もう会うことは無いと思うけど、出来ることならばもう二度と会いたくない。だってものすごく怖い。彼がどんな人かなんてわからないが、危険であることだけは間違いがないような気がした。
膝の上に置いていた手に視線を落とす。手のひらを見ると、小さく震えていた。ぎゅ、と握り込んで深く息を吐き出す。

「ミナさん」

声をかけられてハッと顔を上げれば、そこには買い物袋を持ちきょとんとした顔でこちらを見つめる沖矢さんがいた。
沖矢さんと会うのも少し久しぶりだ。沖矢さんと一緒に飲んで、私が酔い潰れたあの日ぶりではないだろうか。沖矢さんの持つ買い物袋からは立派な長ネギが飛び出している。

「……沖矢さん、」
「お久しぶりです。…どうしました?こんなところで。…顔色も悪いようですが」

あぁ、なんかこれデジャヴだなぁ。この世界に来た日のことを思い出していたその続きのようだった。あの日も、ここで出会って声をかけてくれたのは沖矢さんだったのだ。縁があるのかなぁ、なんて思っていたら、沖矢さんは何も答えない私に少し眉を寄せて歩み寄ってくる。
それから少し屈むと、左手を伸ばして私の額に触れた。あ、ひんやりしてる。

「…熱は無いようですが。どこか具合でも?」
「あ…いえ、大丈夫です。ちょっと休んでいただけで…」
「………」

…鋭い人だからきっと何も無かった、とは思っていないんだろうなぁ。けど私自身、まだあの男性の視線がどこかからこちらを見ているのではないかなんて幻覚すら覚えてしまいそうな状態だ。ここでは上手く話せる気がしない。
どの道もう少し休んだら帰るつもりだ。駅の時計を何とはなしに見つめると気付けば昼近くになってしまっていて、そこそこ長い時間ここにいたんだと思い知る。

「ミナさん、この後のご予定は?」
「えっ?」

沖矢さんに問われて、ぱっと顔を上げる。沖矢さんは顎に手を当てながらにっこりと笑ってこちらを見つめていた。

「…特に…ないですけど」
「でしたら、今からうちにいらっしゃいませんか。昨日カレーを作り過ぎてしまいまして、これからそれを消費しなければならないんです。良かったら手伝っていただけないかと思いまして」

…手伝うって、カレーを食べるのを、ってことだろう。
ぱちぱちと目を瞬かせていたら、沖矢さんの笑みが深まる。
一人になりたくない、というのは正直あった。早く帰ってハロに会いたい気持ちもあったけど、それ以上に先程の出来事を誰かに聞いて欲しいという気持ちでもあった。かと言って今からポアロに行って透さんに話をするのも、昼時には迷惑になってしまう。周りに人もいるだろうし、そんな場所で私が上手く話せる気はしない。
その点、沖矢さん相手であれば工藤邸という落ち着いた場所で話が出来る。沖矢さんなら話しやすいし…聞いてくれるだろうし。願ったり叶ったり、ではあるのかもしれない。

「…お言葉に甘えても、良いですか?」
「ええ、もちろん。近くに車を停めているんです。良ければ帰りもお送りしますよ。家までとは言わず、駅まででも」

心遣いが胸に沁みる。
自分の精神状態から考えてもきっと今は一人になるべきではない。そう考えて、私は沖矢さんの後について歩き出した。


***


「どうぞ」
「美味しそう…いただきます…!」

工藤邸に着くと、沖矢さんはすぐにお昼ご飯の準備をしてくれた。とは言っても本当に昨夜作ったカレーを温めるだけだったようで、さほどのんびりするまでもなくテーブルにお皿が並べられたのだけど。
昨夜作ったカレー。一晩寝かせたカレーはとっても美味しいのだ。スプーンを手に取って手を合わせる。
つやつやのお米とルーを絡めて口に運ぶと、コクのある旨味が広がって思わず笑みを浮かべた。

「とっても美味しいです!」
「お口に合って良かった」

透さんの作るカレーよりも大味ではあるものの、これはこれで全くの別物というか。しっかり煮込まれているんだろう、牛肉も柔らかくて味が染み込んでいる。食レポなんて私には出来ないから上手く言えないけど、つまりは美味しい。男性の料理って感じ。
沖矢さんと向かい合って食事をして、私も幾分か落ち着くことが出来た。普段の自分を思い出せた感じ、というのだろうか。地に足がついた感覚にほっとしながらカレーに舌鼓を打つ。
そんな私を見て、沖矢さんはスプーンを握った手を下ろすと軽く首を傾げた。

「…それで、先程は本当に何も無かったのですか?…顔色は随分良くなったようですが」
「…あー、…えっと、ご心配おかけしてすみません。…ちょっとだけ怖い思いをしたというか」
「怖い思い、ですか」

そうとしか言いようがないな、と思いながら私はスプーンで掬ったじゃがいもをもぐもぐと咀嚼する。程よく溶けたじゃがいもと絡んだルーがたまらなく美味しい。
あ、私意外と冷静になれてきてるなと思いながら、先程の黒いポルシェや持ち主である男性のことを思い出す。
…ものすごい恐怖だったけど、今思い返してみると非日常的で白昼夢でも見ていたような気がする。

「珍しい車があったんです。なかなか街中で見かけない外車で」
「外車」
「はい。…真っ黒なポルシェでした。私車は詳しくないんですけど、多分結構古いデザインというか…かなりクラシカルな感じでした」
「………黒いポルシェ、」

沖矢さんの声のトーンが少し下がったような気がする。
沖矢さんはいつもは細めている目を、片目だけ薄らと開けて私を見つめていた。…よく見えないものの、ほのかに緑がかった瞳が覗いている。

「それで、その。…あまり見かけないデザインだし、珍しかったものですから…。よく見たくて、ちょっとだけ車に近付いたんです。あ、も、もちろん持ち主の方が乗ってるようだったので、すぐ立ち去るつもりでした」

近付いたと言っても、そんなにじろじろと見るような距離にいた訳では無い。…でも、確かに自分の車をまじまじと見られるのは不愉快になるのかもしれないな。その辺は私も反省しないとと思って肩を落とした。

「それで?」

思いがけず沖矢さんに話の続きを促されて目を瞬かせる。
えぇと、それから。

「…持ち主の男性が車から出てきたんです。黒い帽子に黒いコートを来た背の高い人で…長い銀髪が印象的でした」

長い銀髪が美しくて…人を射殺せそうな鋭い目を持つ、危険なにおいを纏わせた男性。

「…電話をしていて…構わん、殺せ…って言っていたんです」

誰を。何を殺すのか。考えてもわからないし、気にならない訳では無いが正直あまり考えたいとは思わない。
ちら、と沖矢さんを見ると、沖矢さんは両目を薄く開けて少し考え込むような表情を浮かべていた。…何を考えているのかは私にはわからないけど。

「それで、その後…怒られちゃって」
「怒られた?その男性にですか?」
「はい。…あ、怒られたというか…車を見てたのを見られて、なんだてめぇって言われちゃいました。…その時にすごく怖い顔で睨まれてしまって」

それで怖い思いをして体調が悪くなったんですけど。なんて、何だか話せば話すほど間の抜けた話にしかならなくて頭を抱える。あれ、おかしいな。私の感じたあの強い恐怖は間違いなく胸にざらりと残っているのに、その恐怖を伝えたくても微塵も伝わっている気がしない。ただ私の間抜けさが露呈しただけなのでは。

「………すみません、なんか情けない話になってしまって…そんなわけなので全然、大したことないんです…すみません…」

本当は大したことあるのだけど。ものすごく怖かったし本当に殺されるかと思ったし、そのお陰で体調が悪くなってしまったのだけど。でもこれ以上何かを言っても墓穴を掘るだけのような。これ以上情けない女だと思われたくないからもうそろそろ黙ろうと思い、私はカレーを一口掬って口へと運ぶ。

「その後、その男性は?」

あれ、と思って顔を上げる。
…今ので、今後は気をつけてくださいね、なんて言われるのを想像していたのだけど、沖矢さんは予想に反して真剣な顔で問うてきた。
…なんとなくいつもの沖矢さんと雰囲気が違う気がする。

「…しばらくして、すぐに車に乗って行っちゃいました。…あの、情けない話なんですけど、本当に怖かったんです…上手く伝わらないんですけど」
「伝わってますよ。大丈夫です」

肩を落としかけた私に、沖矢さんの優しい声がかかる。
顔を上げて沖矢さんを見れば、彼は小さく笑いながらいつものように目を細めている。すっかり先程までの少し違う雰囲気はなくなっている。

「その男性と、それ以上の接触はなかったんですね?」
「えっ?あ、はい。…めちゃくちゃ睨まれて怖かったですけど、なんか生きた心地しなかったんですけど…私も車を見てただけですって伝えたので。…上手く伝わったかはわかりませんが」

何せ子供もびっくりなたどたどしい日本語しかあの時はしゃべれなかった。でもあれで何も言わずに行ってくれたところを見ると…多分伝わったんだと思う。伝わったんだと思いたい。そしてどうかもう今後会うことがありませんようにと思いたい。
沖矢さんは私の話を聞き終わると、そうですか、と小さく答えてから考え込むように左手を顎に添える。…コナンくんとか透さんも考える時は顎に手を当てているのを見るけど、沖矢さんもこの考えるポーズが似合う人だな。大学院生と言っていたから探偵ってわけじゃないんだろうけど、実は探偵ですなんて言われたら信じてしまうかも。

「…ひとまずは、何事もなくて良かった。今後は気をつけてくださいね?珍しい車を見ると、近くで見たいという気持ちもよくわかりますけどね」
「う、胸に刻んでおきます…」

むしろ頼まれても人様の車をジロジロ見るのはやめようと思う。不躾だと思われても仕方が無いな。
あの男性も、ただ虫の居所が悪かっただけかもしれない。殺せって物騒な言葉も、殺害という意味ではない……かもしれないし。元々目付きが鋭い人ってだけかもしれないし。

「…しかし、何故米花町に…」
「え?」

沖矢さんの呟きに目を瞬かせる。すると沖矢さんは少しはってして、すぐに笑みを浮かべて首を横に振った。

「失礼、考え事を。独り言ですのでどうぞお気になさらず」
「はぁ…」

沖矢さんは止まっていた食事を再開することにしたらしい。私もカレーのお皿に視線を落として、まだ熱いうちにいただくことにした。
沖矢さんに話したことで、私の気分は随分と楽になった。話してみたら大したことでもなかったような気にもなってきたし、もう気にしないことにしようと思う。
家に帰って、予定通りハロとお昼寝をするのだ。そんなことを考えながら、私はカレーを口に運んだ。


Back Next

戻る