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あの黒いポルシェと黒ずくめの男の人に恐怖を覚えてから早数日。
私は度々街中で見かけるその車に怯え、時折あの男性と遭遇してはあの射殺さんばかりの瞳で見つめられて、おちおち平凡な生活を送ることも出来ずにいる。
外に出るのが怖い。どこから見つめられているかわからないのが恐ろしい。透さんにこのことを話すことも出来ず、私の生活は脅かされている。
…なんてことは一切なく、漆かぶれも日に日に落ち着いて私は平凡な日常に戻りつつある。天国のおじいちゃん、おばあちゃん、ご心配おかけしてすみません。元いた世界よりも少し…いや、大分物騒なこの世界で、この通りミナは逞しく生きていると思います。なんて、青い空を見上げながら心の中で独りごちる。
透さんという素敵な、私には勿体なさすぎるイケメンの恋人さんを紹介できないのが心残り。昔、私がまだ小学生か中学生くらいの頃だったと思うけど、おじいちゃんが「ミナの彼氏になる男はまず俺を納得させられる男でなくてはならん」なんて言っていたのを思い出す。おじいちゃんも透さんなら文句どころか願ったり、だろうな。むしろ私が釣り合わない側なので透さんに申し訳ない方である。そんなことを考えながら、私は洗濯物を干して洗濯バサミで留めた。

「ハロ、天気も良いしお散歩行こうか」
「アンッ」

気候もいいしと思いながら室内に戻り、ハロに声をかければ「散歩」という言葉に反応して喜んだように尻尾を振る。
いつもなら河川敷の方に散歩に行くけど、今日はのんびり駅の方まで歩いてみようか。ポアロを覗いてみるのもいいかもしれない。
時計を見るとまだお昼前だ。朝透さんと一緒に起きて朝食を食べ、ポアロに行く透さんを見送ってから洗濯物に取り掛かった。シンクの洗い物をしたらハロと散歩に行って、ついでに修理の終わったスマホを受け取ってきてしまおうかな。代替機の扱いにも慣れてきた頃だけど、やっぱり透さんから貰ったあの端末が使いやすいし大切だ。早く手元に戻したいと思ってたし、タイミングもいいと思う。
今日は嶺書房さんの定休日。私のお休みの日なのである。


***


「ありがとうございました!」

携帯ショップを出て、抱えていたハロを地面に下ろした。ハロには外で待っていてもらわないといけないかな、でも最近犬の盗難も多いから心配だなとお店の前で立ち往生していたら、店員さんが抱えてなら大丈夫ですよと言ってくれたのである。有難くハロを抱えて入店し、無事に代替機を返して修理の終わったスマホを受け取ることが出来た。
IoTテロの暴発の際に入った傷もヒビも綺麗に直っている。データはバックアップを取って初期化という形になってしまったけど、物が戻ってきたなら私はそれで良いのだ。
私が小さく笑いながらスマホを見つめていたら、ハロに不思議そうな顔で見上げられてしまった。

「ごめんごめん。…それじゃ、透さんがお仕事してるところを見て帰ろうか」
「アンッ」

ハロと一緒にのんびりと歩き出す。ハロはぴったりと私の横について、私の速度に合わせて歩いている。…とてもよく躾られている。透さんの躾の成果だろうか。
ポアロへの道を歩きながら、ぼんやりと車道の方に視線を向ける。先日見た黒いポルシェは見当たらない。確かこの辺りに停まっていたはずだけど、あれから何日も経過している。あんな目立つ車が停まっていたら当然わかるだろうし、そうそう見かけるような車種でもない。
結局あの日の出来事は、沖矢さんに話したことで私の中では解決してしまい透さんには話していない。あの時感じた恐怖は紛れもなく本物だったけど、沖矢さんに説明したら妙に軽くなってしまったというか…まぁいいかな、なんて気になってしまったのである。
もうあの車にも男性にも会いたくないけど、今までこの街で生活してきてあの車を見かけたのはあの日だけだ。そうそう会うこともないだろうと自分の中で解決した。

「アンッ」

ぼんやりとしていたら、いつの間にか足が止まっていたらしい。握っていたリードをくい、とハロに引っ張られてハッとする。
ハロはこちらを見上げ、首を傾げながら尻尾を振っていた。どうしたの?と言わんばかりのつぶらな瞳にきゅんと胸が疼く。…うちの子たまらなく可愛い。

「ごめん。…さ、行こう」

ポアロはもうすぐ見えてくる。携帯ショップでやたら時間を取られてしまったからもうお昼のピークは過ぎているだろうし、透さんの手も少しは空いているといいな。

「あ、」
「あれ、」

再びハロと歩き出しながらポアロの前に差し掛かると、丁度毛利探偵事務所の階段を降りてきたコナンくんと鉢合わせた。

「こんにちは、コナンくん」
「ミナさんこんにちは。漆かぶれ、あれから大丈夫?」

コナンくんとはあの飛行船での一件以来だ。数日ぶりだが相変わらず元気そうである。
コナンくんに歩み寄ってしゃがむと、私は漆にかぶれた部分を見せた。赤みも大分引いて発疹の粒も小さくなった。まだ薬を塗っていないと痒いけど、逆に薬を塗ればほとんど気にならない程度には治まっている。

「こんな感じ。薬も処方してもらって塗ってるから、治りも早いみたい。蘭ちゃんは大丈夫?」
「そっか、良かった。蘭姉ちゃんもミナさんと同じ感じだよ、大分治ってきてる」
「蘭ちゃんまだ若いからね、痕残ったら大変だもん。綺麗に治るといいなぁ」
「何言ってるの、ミナさんもだよ」

少しムッとしたような顔でコナンくんに言われて苦笑した。もちろん綺麗に治って欲しいとは思ってるけど、でも私と蘭ちゃんじゃ重さが違うというか…上手く言えないけど。でもまぁ私や蘭ちゃんを始め、あの事件で重度のかぶれになった人はいないみたいだしさほど心配することもないのかもしれない。

「そういえばミナさん、犬飼ってたの?」

ハロがコナンくんに近寄り、彼の匂いをくんくんと嗅いでいる。そういえば、ハロのことを誰かに話したり見せたりするのは風見さんを除いて初めてのことだな。

「つい最近飼い始めたの。ハロって言うんだよ」
「アンッ」
「へぇ。よろしくな、ハロ」

コナンくんがハロの頭を撫でると、ハロは気持ち良さそうに目を細めて尻尾を振っている。コナンくんはしばらくハロの頭や顔を撫でてやって笑っていたが、ふと目を細めると私の服の袖を軽く引っ張った。

「ミナさん、ちょっと聞きたいんだけど」
「うん?」

なんだろうと首を傾げると、コナンくんは辺りを軽く見回してから私の耳元に顔を寄せた。それから、小さな声でそっと囁く。

「…黒いポルシェの、黒ずくめの男性。会ったってホント?」
「えっ?」

おかしいな。その話は沖矢さんにしかしていないのに、と目を瞬かせて、恐らくその沖矢さんからコナンくんに話が伝わったんだろうなと小さく息を吐いた。まぁ別に隠している事でもないからいいんだけど。

「会ったよ。ものすごく怖い人だった」
「その人、一人だけだった?」
「ん?うん。車には他に誰も乗っていなかったと思うけど…」
「そう………」

コナンくんはそう呟くと、何やら顎に手を当てて考え込んでしまった。…こないだの沖矢さんと同じだな、と思いながら首を傾げる。

「…あの人、コナンくんの知り合いとか?」
「えっ?!いや、違うよ…!その、以前ボクも黒いポルシェに近付いて怒られたことがあったから…!」
「そうなんだ。あまり見ない車だし同じ人かもね」

あの日のことをこんなに軽く話せるなんて私の傷は浅かったようだ。あの人にまた会ってあの目で睨まれたらこの傷も開くかもしれないけど。…むしろこの考え自体があの人への恐怖から逃れるための現実逃避なのかもしれないけど。
コナンくんは頭を掻きながらあははと笑っていたが、すぐにふと真剣な表情を浮かべると私を真っ直ぐに見つめた。
蒼い瞳。どこまでも真っ直ぐに、正義を湛えている強い光。この子はどうして、こんな悟った表情をするのだろう。まだ六、七年しか生きていないはずのほんの子供であるコナンくんのこの表情は、とても異質で、それでいて眩しく美しいもののように思えて仕方がない。
…こんな歳から、カリスマってあるんだなぁ、なんて思って苦笑する。

「…あのね、ミナさん」
「うん」
「もう黒いポルシェを見かけても…絶対に近付かないで」
「…うん、わかった」

コナンくんが言うのなら、それはきっと正しいことだ。
今後あの黒いポルシェを見かけても、あの黒ずくめの男性を見かけても、絶対に関わらない。近付かない。それがきっと、私の平凡を続ける為に必要なこと。
コナンくんは、素直に頷いた私に少し驚いたような顔をしていたが、すぐにほんの少しだけ困ったように笑った。

「…調子狂うなぁ」
「どういうこと?」
「何か聞かれるかもって身構えてても、ミナさんは全部受け入れるからさ」
「受け入れてるわけじゃないよ。それが正しいことだと思うだけ」

ね、とへらりと笑えば、コナンくんもにっと笑ってくれた。
自分が見て、感じて、信じたいと思うものを信じていきたいと思う。他人から何かを言われて左右されるんじゃなく、自分の意思をしっかり持って、正しいものを見ていきたい。

「アンッ」

ハロの声に顔を上げれば、透さんがポアロから出てくるところだった。
ドアのところにかけてあったランチメニューのボードを下げに来たところらしい。ハロの鳴き声に視線を向けた透さんは、私とハロ、それからコナンくんを見てぱちぱちと目を瞬かせた。

「おや。こんにちは、ミナさん。コナンくんも」
「こんにちは、安室さん」
「透さんこんにちは。ハロとお散歩に来たので寄っちゃいました」

くん、とリードが引っ張られる。ハロは透さんのところに行きたいみたいだ。そりゃ、飼い主だもんね。大好きな飼い主さんを目の前にしたら駆け寄りたくなるのは当然だ。立ち上がって透さんに歩み寄ると、ハロは彼の足元にじゃれついて尻尾を細かく振っている。ふふ、嬉しそう。
透さんはしゃがみこむと、ハロを両手でわしゃわしゃと撫でている。見てて癒されるなぁ。

「丁度ランチタイムが終わって店内も落ち着いたところなんです。良かったら中へどうぞ」
「えっ、犬連れてても大丈夫なんですか?」
「ハロくんみたいないい子なら問題ありませんよ。カフェオレでも飲んで一息つきませんか?」

確かに外から店内を見ても、中には一人二人くらいしかお客さんもいないようだ。家から駅まで歩いて携帯ショップに寄り、そこから更にポアロまで歩いてきたから確かに少し休憩したいような気はする。せっかくだし、寄っていこうか。

「それじゃあ、お邪魔しようかな…コナンくんも一緒にどう?オレンジジュースとかケーキご馳走するよ」
「え?うーん、どうしよう」

こういう時、すぐに食いついてこないところも本当子供らしくないよなぁ。元太くんや光彦くん、歩美ちゃんだったら即答で行くと答えると思うけど。…コナンくんと哀ちゃんはやっぱり特殊だ。

「せっかくだけど今日はやめておくよ。これから行くところもあるし」
「そっか。じゃあまたの機会だね」
「うん!じゃあ安室さん、ミナさん、ハロ、ばいばい!」
「気を付けてね、コナンくん」

コナンくんはそう言うと、手を振ってからポアロとは逆の方向に走っていった。元気だなぁと思いながら小さなその背中を見送って、私はハロを抱き上げる。

「それじゃ、アイスカフェオレと半熟ケーキ、お願いします」
「かしこまりました。店内へどうぞ」

透さんに促されてポアロの店内へと足を踏み入れる。
チリリンと鳴る爽やかなドアベルの音が、優しく私の背中を押した。


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