123

「あれ?ハロ、どうしたの?」

朝洗濯物を干して、ベランダから部屋に入った時のことである。窓を閉めるから、一緒にベランダに出ていたハロを中に入れないとと振り向いたのだが…ハロが、くしゅんくしゅんと小さなクシャミを繰り返して頻りに顔を前足で擦っている。…ホコリでも吸い込んじゃったかな。

「あまり擦っちゃだめだよ」

ハロを部屋に入れてベランダの窓を閉め、膝の上にハロを乗せる。顔を覗き込んでみるけど、特に異常はない…ように見える。ただのクシャミならいいんだけど。落ち着いたのか、ハロは私の膝の上で尻尾を振ってつぶらな瞳をきらきらと光らせている。…何かを強請られている気がする。

「だめ、さっき透さんから朝ごはん貰ったばかりでしょ?」
「アンッ」
「じゃあおやつはまだ早いの」
「ウウ、」
「そんな顔してもだめー」

ハロは少し拗ねたような表情になるけど、勝手におやつをあげるわけにはいかない。…というか、透さん相手ならもっと素直というか…こんな時間からおやつを強請ったりしないだろうに、私相手だとこうなのか。…舐められているのか。いやまぁ透さんが家主だしご主人様だから当然といえば当然なのだけど。きっとハロにとっては透さんがご主人様で、私は友達感覚なんだろうな。それでも懐いてくれるのは嬉しいものである。甘えたように身体を擦りつけてくるハロを抱き締めながら、その首の辺りをわしゃわしゃと撫でてやった。

「なに遊んでるんですか?」

きょとんと目を瞬かせながら和室の入口から顔を覗かせた透さんは、今日はグレーのスーツを着ている。探偵のお仕事か…“本職”の方かな。ハロを抱き上げて透さんへと歩み寄る。

「おやつのお強請りをされちゃいました」
「さっき食べたばかりだろ、ハロ」
「アンッ」

透さんの前では拗ねた表情も見せずにいい子にしている。思わず小さく吹き出せば、透さんもくすりと笑ってハロの頭を撫でる。甘えるように透さんの手に頭を擦り付けるハロを微笑ましく見ていたのだが…ふと頭上から降ってきた空咳に顔を上げる。

「ケホ、ッコホ」
「…、透さん風邪ですか?」
「あぁ、いえ。引き始めですね。うつるといけないのであまり近付かないでください」
「昨日は何ともなかったですよね…季節の変わり目だからかなぁ、」

透さんがいくら体に気を使っていようと体を鍛えていようと、人間なのだから体調を崩すこともあるだろう。
ハロを一度床に下ろすと私は透さんの額に手を伸ばして、もう片方の手を自分の額に当て温度を比べた。…うーん…今のところ平熱、かな。風邪は引き始めが肝心というし、これ以上悪化しなければいいんだけど…と思ったところで、透さんがぽかんとしてこちらを見ていることに気付いた。

「…あ、…あの、ミナさん」
「……はっ」

一気に顔が熱くなり、慌てて透さんの額から手を離した。
む、無意識だった。私が調子悪い時はおばあちゃんがこうやって熱を計ってくれていたからつい…!
いくらなんでも成人男性に対してやることじゃない。恥ずかしすぎる。

「へ、平熱です!」

違う。今言うべきことはそうじゃない。というか透さんならきっと自分の体温くらいわかっているような気がする…!私思いっきり無駄なことをしたのでは。
恥ずかしさに耐えきれなくなり、誤魔化すように再びハロを抱き上げる。
透さんはしばしぽかんとしたままだったが、やがて口元を片手で覆い小さく息を吐く。…ほんのりと頬が赤く染まっている、ような。…それを見て私も益々恥ずかしくなって、ハロの頭に顔を埋めた。
そうしていたら、ぽふ、と頭を撫でられる感触。

「…今日は少し早めに帰れると思います。行ってきます」

ちら、と顔を上げれば額に透さんの唇が押し当てられる。
今度はぽかんとするのは私の番だった。透さんはこちらを振り向くことなく家を出ていってしまう。その背に行ってらっしゃいの一言をかけることも出来ず…私はただ、ハロを抱いたままその場に立ち尽くしていた。

「…アンッ」
「………ハロ、」

ぎゅうう、とハロを抱きしめたら驚いて暴れたハロに頬を蹴られる。痛い。窮屈で嫌だろうに、それでも私の腕の中にいてくれるこの子はなんていい子なんだろう。ありがとうハロ、君がいてくれて良かった。

「……透さん、かっこいいねぇ……」
「アンッ」

呻くように呟けばハロの元気の良い返事。
私も支度をして仕事に行かなければならないのに。火照った頬と高鳴る胸は、まだしばらくは落ち着きそうにない。


***


仕事の帰り道、私はスーパーに寄り道をした。家に生姜がなかったのである。こないだ生姜焼きを作った時に透さんが使い切ってしまったらしい。ので、生姜を求めて近くのスーパーへやってきた。
…と言うのも、風邪気味の透さんに何か出来ることはないだろうかと考えた結果、蜂蜜生姜を入れた紅茶くらいなら作ってあげられるのではないか、という結論に至ったのだ。
料理に関しては私なんかが手を出せるはずもないけど、飲み物くらいならきっと大丈夫…なはず。大丈夫。ちゃんと自分で毒味もする。
紅茶と蜂蜜とすりおろした生姜を混ぜるだけだ。ちゃんとネットでレシピを確認してから作るし、きっと大丈夫。
…そもそも、飲んでくれるかどうかわからないけど。…一緒に作ったものは良いみたいだけど、透さんは私だけで作ったものを口にしたことはない。最初に出会って、紅茶を淹れようとしたあの時からなんとなく私も避けてきたことである。
…かと言って、何もしないのは嫌だった。いい。飲んでくれなかったら私が飲めばいいのだ。風邪予防にも丁度いいかもしれないし、何も問題は無い。
よし、と意気込んでアパートの階段を上がり、部屋の前で鍵を取り出していたらドアが開いた。あれ。

「ミナさん、お帰りなさい」
「透さん?本当に早かったんですね。こんなに早いと思ってなかったです」

出てきた透さんはジャージ姿だ。手にはハロのリードを持っている。これから夜の散歩かな。

「ハロと散歩に行ってきます。ミナさんはゆっくりしていてください」
「わかりました。行ってらっしゃい」

朝は言えなかった行ってらっしゃいを告げて、軽やかな足取りでハロと一緒に出かけて行く透さんを見送る。…なんだか楽しそう。きっと河川敷の辺りまで行って、ついでに自分のトレーニングなんかもしてくるんだろうな。…風邪気味なのに大丈夫だろうか。ちょっと心配になる。
今のうちに蜂蜜生姜紅茶を作ろうと思いながら中へと入る。
鞄を置いて、手洗いうがいをしっかりとして、さて、とまずはスマホでレシピを検索。
…生姜の体を温める効果は加熱したり、乾燥させてあるものだと尚良い…って書いてあるけど、私が買ってきた生姜は普通のものだし…熱めのお湯に溶かせば効果は大丈夫かな、なんて心配になる。
色々レシピを見ていると大根を入れると良いなんて記載もある。大根は確かあったはず。

「…よし、」

小さく意気込んで、レシピのページを表示したままキッチン台の上に置き再度手を洗う。
すりおろした大根と生姜を用意して、どちらもラップをしてレンジで温める。その間にティーバッグで紅茶を用意して、出来上がった紅茶に蜂蜜を溶かす。大根と生姜を紅茶に入れて掻き混ぜて、味を確認していたところで玄関のドアががチャリと音を立てた。
あれっ、思っていたよりも早い…!あわあわとしている間に散歩から帰ってきた透さんとハロが入ってくる。

「ただいま」
「お、お帰りなさい…!」
「…どうやら今日はハロの気分が乗らなかったようで…ゲホッ、」

ハロの足を拭きながら、透さんが小さく咳き込む。…やっぱり、調子が悪そうだ。…悪化して欲しくない。

「…ミナさん?…これは、生姜の匂い…?」

私がキッチンに立っていたことに気付いたんだろう。透さんは目を瞬かせながら歩み寄ってくる。
ど、どうしよう。味は確認して程よい甘さだったし大丈夫のはず。えっ、でもなんていうか格好がつかない。悪戯が見つかってしまった子供のような気持ちになりながら、かといってキッチン台の上は誤魔化せるはずもなく、ええいままよ、と湯気の立ち上るマグカップを透さんに差し出した。

「あっ…あの、…喉の調子…悪そうだったので」

透さんはマグカップを見つめながらぱちぱちと目を瞬かせている。…えっ、…何か言って欲しい。

「あ、あの、味見と毒味は出来てるので!あっ違う、毒味ってその人の目の前でやらなきゃいけないんでしたっけ、今から私飲むので、というかあのもし飲めないとかだったら無理はしなくても、」

沈黙が嫌で言葉を並べ立てていたその時だった。
私の手からマグカップをさらい、そのまま透さんは何も言わないで蜂蜜生姜紅茶をこくりと飲んだ。

「えっ」

思っていたよりも熱かったらしく透さんは小さく顔を顰めたが、ふうふうと息を吹き掛けてからゆっくりと飲み下している。
…の、…飲んでくれた。…私が作った蜂蜜生姜紅茶、透さんが飲んでくれた…!一種の感動のようなものを覚えながら私はぽかんと口を半開きにして透さんが紅茶を飲むのを見つめていた。
ゆっくりと時間をかけてマグカップを空にした透さんは、最後の一口を飲み下すと息を吐いて柔らかく笑う。

「…とても美味しかったです。蜂蜜と生姜…それから大根ですね。喉に良いとされているものを入れて作ってくれたんですよね」
「…え、は、…あの、はい…」
「ありがとう、ミナさん」

微笑まれながらお礼を言われて、私は言葉も出ずにぶんぶんと首を横に振った。口を開いたら泣いてしまいそうだったから。本当にここ最近涙脆くて困る。そんな私を知ってか知らずか、透さんはくすりと笑うと私の頭を優しく撫でた。

「すぐ食事の用意をしますね。少し待っていてください」

透さんはジャージのパーカーを脱ぐと、ベランダへと向かう。なんとなくその後をついて行って、彼が家庭菜園から野菜を収穫するのを見つめる。

「トマトですか?」
「ええ、いい具合に育ってるので。…さて、セロリは育ってるかな?」

透さん、本当にセロリが好きなんだなぁ。透さんはすごくワクワクした様子でセロリの鉢を覗き込んで、ぴしりと固まった。

「あれ?」
「…どうしたんですか?」
「…苗が…」

私も一緒にベランダに出て彼の背中から鉢を覗き込むと、苗が荒らされている。…育っていた部分が根こそぎなくなってしまっているようだ。誰がこんなことを、と目を瞬かせていたら、透さんが軽く後ろを振り向いた。

「ハロ?」

部屋の中に視線を向けると、ハロが忍び足で隠れるところだった。まさか。

「まさか…君の仕業か?ハロ!出て来い!」
「ハロ…」

ちら、と物陰から顔を覗かせたハロを見て、透さんは室内に戻るとハロを抱き上げる。そして正面からじっと見つめながら眉を寄せた。

「勝手に食べたな?」
「…ハロもまさかセロリが好きだったなんて…」
「買い置きをしておいて良かったですよ。ハロ、筋を取ってやるから次は勝手に食べちゃダメだぞ?」

透さんはやれやれと苦笑して夕食の準備に取り掛かった。透さんが夕食を作ってくれる横で、私はハロのご飯を用意する。お皿にドッグフードを盛り付けてほんの少しお湯でふやかしてやる。
ハロの前にドッグフードのお皿を置いてしゃがみこむと、今にも食いつかん勢いのハロの前に手のひらを出した。

「ハロおすわり。待て」

じぃ、とハロと目を合わせる。ハロはいい子でじっとしながら私が許可を出すのを待っている。…可愛い。

「まだ…まだまだ」

じぃ。見つめ合いながらもハロの尻尾は忙しなく揺れている。お腹も空いてるよね。私とハロのそんな様子を見た透さんが小さく笑うのが聞こえた。

「よし!食べていいよ」

その声とともにハロがドッグフードに飛びついた。…よっぽどお腹が空いていたんだな。透さんとお散歩して運動してきた後だし無理もない。ハロがドッグフードを食べるのを微笑ましく見つめていたら、テーブルの方から音がした。

「こちらも準備が出来ましたよ。僕達も夕食にしましょう」
「はい」

私と透さんもいただきます。
ハロと三人で食事をしていると、おばあちゃんやおじいちゃんと一緒に食卓を囲んだ日々のことをどことなく思い出して胸があたたかくなるのだ。

夕食中に、透さんがハロの好物だと思われたセロリを一欠片あげたのだけど…実は好物どころか苦手ということが判明した。セロリを口にして吹き出した後、くしゅんくしゅんと小さなクシャミを繰り返すハロを見て私ははたと思い当たった。
今朝のハロのクシャミ。もしかしたらあの時に、セロリの苗を荒らしたのかもしれない。
セロリを無理して食べようとするハロを慌てたように止める透さんは、なかなか珍しい表情をしていて思わず小さく笑ってしまった。


Back Next

戻る