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朝からなんとなくどんよりとした天気だなぁとは思っていた。雲は分厚く重たいし、太陽の光も遮られて洗濯物は乾きそうにない。低気圧もあるのか体もどことなくだる重いし、ちょっと頭が痛かったり。
そんな天気であったにも関わらず、傘を持たずに来てしまったのは私のミスだったと言わざるを得ない。雨が降りそうだとわかっていたのにどうして傘を持ってこなかったのか。答えは単純。忘れたのである。

「外はすごい雨だよ」
「えっ雨降ってきちゃったんですか?!」

嶺書房の常連であるおじいさんが、お店の入口で衣服に着いた水滴をハンカチで拭ってから入ってくる。本が濡れないようにとの配慮がありがたい。

「バケツを引っくり返したみたいだよ。ミナちゃん、傘は?」
「……忘れちゃいました」
「そりゃあ大変だ」

おじいさんは苦笑しながら取り寄せていた本を買って帰って行った。通り雨のような降り方だからしばらくしたら止むだろうって言ってたけど、おじいさんが帰った後も雨が止む気配はない。
最初は気付かなかった雨の音も、店内に一人になって静かになると嫌でも聞えてくるのである。すごい音。おじいさんの言っていた「バケツを引っくり返したみたい」というのは間違いないようだ。
時計を見れば閉店まであと十分。今までの経験上、閉店間際にお客さんが駆け込んできたことはない。少しくらいならいいだろうと思いながら、私はお店の入口からドアを開けて外を見つめた。庇の横の雨樋からは大量の雨水が流れ落ちている。…本当にすごいな。風がほとんどないのが救いかもしれない。こんな激しい雨に風がプラスされたら大変だ。

「…とは言っても…」

さすがにこの雨じゃ、帰れないな。この辺りには傘を買えそうなコンビニもないし、駅前までは少し歩かなければならない。お店の置き傘はこないだ快斗くんが持って帰ったみたいだし、こんな日に限って傘を忘れてしまうなんて失敗したなぁ。
小さく溜息を吐く。…申し訳なさすぎるけど、透さんに連絡して傘を持ってきてもらおうか…。今日は少し遅くなりそうって言ってたけど、ここで待つ分には問題ないし。…濡れて帰って透さんの部屋をびしょびしょにするよりはマシ…な気がする。
はぁ、と溜息を吐いて、ひとまず閉店の準備をしようとドアを閉めかけた時だった。

薄暗い路地の奥に、人影が見える。スラリとした体型で身長は高いけど…シルエットから見て恐らく女性。傘は差しておらず、ゆっくりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる。その得体の知れない不気味さに背筋が冷え、先にシャッターを閉めてしまおうと外に出た。
もう閉店時刻だし構わないだろう。シャッターを半分閉めたら中に入って戸締りをして、透さんに連絡をする。最悪透さんが来られないようだったら、びしょ濡れになって帰るしかない。

「…あら」

すぐ後ろから女性の声がしてびくりと身を竦ませる。…た、タイミング的に多分路地の先にいた女性…だと思うんだけど。怖いから絡んできて欲しくないなぁ、なんて思いながらゆっくりと振り向いて、私は目を丸くした。

「…お、…お姉さん、」
「…そう、こんなところまで歩いてきてしまっていたのね」

いつか会った、外人のお姉さんだ。最初に会った時は駅前で、二回目はこの路地で。三回目の出会いがこんな状況になるとは思っていなかった。お姉さんの着た黒いスーツは雨水を限界まで吸って、吸いきれなくなった雨水が裾から垂れ落ちている。緩やかにカーブを描いていたお姉さんのブロンドの髪もスーツに張り付いて輝きを失ってしまっていた。

「お、お姉さん…!風邪引いちゃいます!こっちに…!」

慌ててお姉さんに駆け寄り、すっかり冷えた手を握ってお店の庇の下へと誘導する。どうしよう、スポーツタオルくらいならお店にあったはず…本当ならスーツを脱いで欲しいところだけど、でもさすがに着替えまでは用意がないし…!
情けなくもわたわたと慌てる私を見て、お姉さんは小さくくすりと笑った。その笑いに目を瞬かせながら顔を上げれば、柔らかに細められたオリーブグレーの瞳と視線が絡む。

「…優しいのね」
「へっ」
「大丈夫よ、迎えを呼ぶから。私に触れたらあなたまで濡れてしまうわ」
「で、でも」

私なんかが多少濡れるよりも、今びしょびしょのお姉さんの方が心配だ。お姉さんは軽く肩を竦めながら未だ暗い空を見上げる。

「あなたは?」
「えっ?」
「もう閉店の時間でしょう。帰らなくていいの?」
「あっ、えっと…傘を忘れてしまって、迎えに来てもらおうかと…思って…。…最悪濡れて帰ろうかとも思ってるんですけど」
「やめた方がいいわ。この雨、しばらく止まないみたいだし。…でも、あなたの迎えは少し遅くなってしまうかもしれないわね」

ぽつりと呟くようにお姉さんは言ったけど、私にはその意味がわからずに首を傾げるしか出来なかった。
…私の迎えが少し遅くなってしまうって、どういうことなんだろう。雨が激しいから?どの道まだ透さんにも連絡出来ていないからしばらくここから動くことは出来ないけど…。
お姉さんは首を傾げる私を見て小さく笑うと、ポケットからスマートフォンを取り出してどこかへと電話をかけ始めた。
…美人さんは電話をかける仕草だけでも美しい。水も滴るいい女、ってこういうことを言うんだろうな。私なんかが水に濡れたところでただのびしょ濡れになった私でしかない。水に濡れてセクシーになるって一体どういう原理なんだろう。

「…ハァイ、バーボン?」

バーボン、の言葉に目を瞬かせる。
お酒の名前だ。…電話の相手に向かって言ったようだったけど、相手の人は…バーボンさん、というのだろうか?
そこまで考えて、キュラソーさんのことが脳裏を過ってびくりと体が震えた。
キュラソーさん。…キュラソーさんは哀ちゃんのことを、シェリーと呼んでいた。ジンという人物のことも口にしていた。世良ちゃんは、スコッチという人に会ったことがあるという。そしてお姉さんが今口にしたのは…バーボン。
ぞわ、と背中が震えた。何故だか酷く、嫌な予感がする。
もしかして。

「…えぇ。それじゃあ」

お姉さんが通話を切ってポケットにしまう。それをぼんやりと見つめていたら、お姉さんの手が私の頬に伸びてきてむにゅ、とつまんだ。

「ひぇ、」
「何ぼんやりとしてるの。…そうね、迎えが来るまで少し時間がかかりそうだから、せっかくだし少しお話しましょうか」
「お話、ですか」

お姉さんはシャッターに寄りかかると、ぼんやりと空を見上げながら腕組をする。私はどうしようかと視線を泳がせたものの、結局お姉さんの隣に並んで立つことにした。
…傍から見たら異様な光景だろうな。誰もが目を引く絶世の美女と、私みたいなちんちくりんが並んでるなんてシュールに違いない。…まぁ、人通りはほとんどないから見られることはないと思うんだけど。

「あなたはここで働いているのよね」
「あ、はい」
「それって、楽しい?」
「えっと、楽しいです。基本的に常連さんばかりですし…オーナーさんもいい人だし、バイト仲間も。本のことは私はあまり詳しくないので、常連さん達が色々教えてくれるんです」
「…そうなの」

ちら、とお姉さんを見るものの、お姉さんの視線は変わらず空に向けられたままだ。私も空に視線を向けて、先程よりは明るくなったように感じる空に目を細める。心做しか雨の激しさも少しだけ落ち着いてきたような気がする。…さっきよりは、だけど。

「私はね」
「…?」
「あなたは、とても不幸だと思うわ」

お姉さんの言葉に視線を向けて、ゆっくりと目を瞬かせた。

「不幸、ですか」
「ええ。とても」
「どうして?」

私が問うと、お姉さんは口を噤んで目を細めた。
不幸。不幸というのは、幸せでないこと。幸せというのは、恵まれた状態にあり満足に楽しく感じること。
私は自分が不幸だと思ったことは無い。そりゃ大変なことはたくさんあったけど、それと不幸かどうかというのはイコールではないと思う。透さんに出会えたことは、私の一生分以上の幸せだったと思えるし、それに比べれば小さなことなんて目にも付かない。
けれどお姉さんは、私のことを不幸だという。その言葉の意味がよくわからない。

「…どうして、あなたなのかしらね」
「え?」

お姉さんは小さく呟き、そのオリーブグレーの瞳を私に向けた。…その視線は、どこか痛ましいものを見るようにほんの少しだけ顰められているように感じる。
…どうしてお姉さんが、そんな顔をするのだろう。

「ろくでもない男に引っ掛かったものだわ、あなた」
「…え?え?」
「危険な男に目をつけられてしまった、ってことよ」

お姉さんは溜息を吐き、私の顔に手を伸ばす。冷えた指先で私の顎を捕え、そのまま軽く上に向かされながら私は息を飲んだ。
ろくでもない男?危ない男?心当たりなんてない。なんのことだかわからず目を瞬かせれば、女性は軽く辺りに視線を走らせてから改めて私の顔を覗き込んだ。

「…あなたの知らないところで全てが終われば良いけど」
「…あの、…それって一体、どういう…?」
「気を付けなさい。疑わしきは罰する…それが彼のやり方よ。あなたなんて一溜りもない」

情報量が多すぎて頭がついてこない。お姉さんは一体何の話をしているんだろう。意味はわからなくても、ただお姉さんが私を心配してくれているらしいということはわかる。頭は混乱するばかりだったけど、お姉さんの瞳は真っ直ぐだった。…きっとお姉さんは事実しか言っていない。その事実が、私には理解できることではないけれど。
半ばぽかんとしていた私を見て、お姉さんはほんの少しだけ微笑むとそのまま手を離した。そうしてそのまま、雨の中へと踏み出していく。

「あ…っ、お、お姉さん!濡れちゃう…!」
「大丈夫よ。言ったでしょう?迎えを呼んだから。…あなたも大人しく、迎えが来るまで中で待っていなさい」

私が止めるのも聞かずに、お姉さんは軽く手を上げると雨の中歩いて行ってしまった。
それをぼんやりと見送って、その背中が見えなくなった頃…私は無意識に詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
お姉さん、やっぱりすごく不思議な人だ。話していた内容のほとんどが私には理解できなかった。何のことを指して言っているのか、不透明な部分が多すぎる。
ほんと、白昼夢…みたいな人だな。結局今回もお姉さんの名前さえ聞けなかった。
小さく息を吐いて、シャッターを潜りお店の中へと入る。レジカウンターの裏に回って鞄の中からハンドタオルを取り出し、少し濡れた肩や腕の雨雫を拭った。

「…迎えが来るまで中で待っていなさい、…か」

まるで透さんのことを知っているような口ぶり。…いや、もしかしたら知ってるのかな。…知り合いとか?…知り合いだとしたらどういう繋がりなんだろう。
悶々と考えてしまっていたことに気づいて慌てて頭をぶるぶると振る。
詮索しない!私が考えたって仕方の無いことだ。早いところ帰る支度をして、透さんに連絡しよう。
閉店作業を終えて帰る支度も済ませ透さんにメールを打てば、すぐに「迎えに行きますので待っていてください」という返事が返ってきた。

数十分後にお店まで傘を持って迎えに来てくれた透さんと一緒に車に乗り込み家へと帰ったんだけど…その時、後部座席のシートがぐっしょりと濡れていたのは、何故だったんだろう。


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