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酷く、怖い夢を見た。

状況はわからない。けれど、曖昧な暗闇の中で私は誰かに銃を突きつけられていた。怖くて悲しくて苦しくて、けれど震える私の手にも…拳銃が握られていた。その拳銃を、目の前の誰かに向けていた。使い方なんてもちろんわからない。確か拳銃って、セーフティがついていて…それを何とかしないと引き金を引いても撃てないんだったか。所詮映画程度の知識しかない。
これは夢だとわかるのに、握った銃の重さも冷たさもまるで本物で…涙や汗が伝う感触も、感じる恐怖も、ただただリアルだった。
泣いていた。私は、ぼろぼろと涙を流していた。ひくりひくりとしゃくり上げて、呼吸も乱れてどうしようもない。手がガタガタと震えて、握った拳銃を取り落としそうになる。そんな私を見ても、目の前の誰かは動かなかった。ただ冷たい瞳を、私に真っ直ぐ向けているのがわかった。
どうしてこんなことに。
どうして私は。どうして、あなたと。
どうして。どうして。
疑問ばかりが浮かんで、とうとう拳銃を取り落とす。使い方がわからない拳銃なんて持っていても何の役にも立ちはしない。そもそも私が拳銃を使えたところで、撃てるはずがない。
だって私は、ただの一般人だ。拳銃なんて扱ったことはおろか触ったことさえない。それに人を撃つなんて恐ろしいこと、出来るはずもなかった。
拳銃を人に向けて撃ったらどうなる?銃口から弾丸が発射され、その弾丸は人の肉を貫くだろう。そうして血が出る。撃たれた人は痛みに呻き、叫ぶかもしれない。そうして、死んでしまうかもしれない。
私に人を殺せるか。答えは否だ。人を殺すなんて、出来る出来ない以前に考えられない。人の命を奪うことなんて私には、出来ない。
じゃあ、なんでこれは私の手の中にあるんだろう。わからない。

「わからない、」

わからない。私はどうしてここにいるんだろう。だだっ広い空間なのに息苦しいほどの閉塞感。目の前の誰かの、顔さえ霞んで見えはしない。
恐怖がじわじわと体に染み込んで、それはやがて絶望に変わる。…そう、私の知り合いには絶望を奇跡に変えるすごい人達がいる。誰もが諦める中、光を見出して突き進んでいくすごい人達がいる。そんな彼らの背中に、彼らに、私は憧れていた。彼らのようになれなくても、彼らの描いた軌跡を辿りたいと思った。
でもそれは、私みたいなちっぽけな人間には…到底無理な話だ。もう彼らの光すら見えはしない。暗闇に閉ざされて届きはしない。
絶望の先には何がある?恐怖が絶望に変わった後、何に変わると思う?
絶望は、諦めに変わるのだ。

「私の代わりに死ね」

背後から、誰かの声がする。よく知った声だった。よく知る声だけど、どこで聞いたのかはわからなかった。彼女は声高らかに笑っていた。
その笑い声を受けて、私の目の前で銃を突きつけていた誰かがゆらりと一歩を踏み出す。一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
俯いていた私の視線の先に、誰かの足が映り込む。その人はその場に膝をつくと、私の顎を強く掴んだ。そのまま上を向かされ、私はぼんやりとその人の顔を見た。こんな近くに居るのに、誰かの顔はやはり霞んでいて見えなかった。それなのに、何故だか強く胸が痛くなる。涙が後から後から溢れて止まらない。
ああ、どうして。
どうして。
額に冷たい銃口が突き付けられる。

「さよなら、ですね」

それは冷たくも、甘い響きだった。
悲しいけれど、苦しいけれど…それでも。

「あなたになら、」

何をされてもいいかなぁ、なんて。


***


言わずともわかるだろう。夢見は最悪だった。

「37度8分…風邪ですね」

ピピ、と音を鳴らした体温計を取り上げて、透さんは苦笑しながらベッドに腰掛けて私の額に冷却シートを貼ってくれる。ひんやりとしたそれが気持ちよくて、私は涙で濡れた目を細めた。
朝方目を覚ました私は、止まらない涙にただ混乱するばかりだった。だばだばと流れる涙は止めたくても止まらないし、えぐえぐとしゃくり上げていたら隣で寝ていた透さんを起こしてしまうし、透さんはわけも分からず泣き続ける私を見てぎょっとするし。
けれどさすが透さんというか…ぎょっとしたのは本当に最初だけで、瞬時に冷静になると私の体に異常がないかを確認してくれた。原因はすぐにわかった。
それが、この発熱。悪夢から目が覚めたら発熱していたなんて、なんかもう情けなさと恥ずかしさで埋まりたい。言葉通り私は今布団に埋まっているわけだけど。

「僕の風邪がうつったのかもしれません。昨日は雨で急に冷え込みましたし、体調を崩したんですね」
「…ごめいわくおかけして、すみません…」
「迷惑なんかじゃないですよ。体が休みたがっている証拠ですし、元はと言えば僕の風邪が原因かもしれませんしね」

むしろすみません、なんて言われて力なく首を振る。透さんは何も悪くない。
少し喉風邪で調子の悪そうだった透さんはと言えばすっかり元気になっていた。ミナさんの蜂蜜生姜紅茶のおかげですよ、なんて笑顔で言われたけど多分透さん自身の治癒力だと思う。
風邪なんて引くの、いつぶりだろう。前の世界で生活していた時は多少体調が悪くても気にしないようにして出勤していたし、正直38度を超えていても気合いで乗り切っていたから…この程度の熱でこんな寝込んでしまうなんてなんだか不思議だ。
体力が落ちたのか…あの頃がぶっ飛んでいたのか。…あの頃がぶっ飛んでいたんだろうな。以前がおかしくて今が普通なんだろうけど、上手く動かない体がもどかしい。

「本当は看病したいんですけど、すみません…どうしても外せない仕事があって」

眉を下げて本当に申し訳なさそうにする透さんに、私の方が申し訳なくなってしまう。
透さんは私服だ。スーツでもないしポアロとは言わなかったから、もしかしたら探偵のお仕事なのかななんて思う。外せないお仕事ってなんだろう。無理しないでいてくれるといいな。
ちなみに嶺さんには起きてすぐに連絡した。ものすごく心配された。店には自分が出るからしっかり休んでと言ってくれる嶺さんの優しさたるや。頭が上がらない。

「ミナさん、一人でも大丈夫ですか?」
「ぜんぜんだいじょうぶです」
「ハロ、ミナさんのことを頼んだぞ」
「アンッ」

大丈夫だと思われてない。
透さんに私のことを託されたハロは元気よく返事をして、ベッドに飛び乗ってくる。そうしてまるで私を守るかのように枕元に座った。…頼もしい、頼もしすぎるよハロ。
ハロと目が合うと、ハロは私の頬をぺろりと舐める。

「お粥は作ってありますから、食べたくなくても温めてちゃんと食べてください」
「…おなかすいてないです」
「一口でも二口でも、です。空腹のままじゃ薬も飲めないでしょう。薬は絶対に飲んでくださいね」
「…うう…はい…」
「それから、ちゃんと水分は摂るんですよ。スポーツドリンクがありますから。…ただし一気には飲まないこと。ゆっくり口の中で温めてから飲んでくださいね」
「…はぁい…」

まともな返事すら返せやしない。まるで子供のそれである。
そんな私に透さんは苦笑して、まんま子供をあやすように私の頭を優しく撫でた。その感触が心地よくてゆっくりと息を吐く。
子供扱いされているような気がするのに…透さんならなんだって嬉しいんだから悔しいなぁ。…ずっと撫でていて欲しいなぁなんて甘えた気持ちが浮かんで、慌ててぐっと堪える。

「出来る限り早く帰ってきますから。もしどうしてもどうにもならなくなったら、この番号に電話してください」

透さんが私に電話番号の書かれたメモを見せてくる。…メモを見せるということは多分私のスマホにも登録されていない番号ってことだと思うけど、これは一体。

「…あの、これってどなたのばんごう…ですか?」
「風見に繋がります」
「かっ」

風見さん。まさかの。
えっ、でも風見さんって警察関係者…!えぇと確か警部さん?警部補さん?だったはず。飛行船の時もハロの世話をお任せしてしまったし、そんな簡単に呼びつけて良い人なのだろうか。…いや、良くないと思うんだけど。
私の困惑に気付いたのだろう。透さんは苦笑すると、そのメモを和室のローテーブルの上に置いた。

「本当なら僕に連絡をして欲しいところですが…今日は電話に出られないと思うので」
「…はぁ…なるほど…」
「いいですか?何かあったら必ず風見に連絡するんですよ」
「…わかりました」

風見さんみたいな忙しい人を呼びつけるなんて出来そうにないけども。

「もし何かあってもミナさんから自主的に連絡しないようなら、風見に様子を見に来させますが」
「れんらくします」
「よろしい」

反射的にそう返した。
いや…だって必要ないかもしれないのに来て頂くなんて申し訳なさすぎる。それだったら私が本当にダメそうな時に連絡して来てもらう方がまだマシだ。
風見さん、ご迷惑おかけしてごめんなさい…。内心謝っておく。風見さんの手を煩わせなくても良いように、出来る限り自分の力で治さなければ。その為にはご飯を食べて、薬を飲んで、しっかり寝ないといけないな。

「それじゃ、僕は行きますけどゆっくり休んでくださいね」
「…はい、…あの」

ベッドから立ち上がる透さんに無意識に手を伸ばしてしまう。
彼のシャツの裾を緩く掴んだところで我に返った。…引き止めてどうするんだ、私。ますます子供みたいで、ぼんやりとした頭でも羞恥を感じて頬が熱くなる。既に熱で朦朧としてるんだから勘弁して欲しい。
するりと手を離そうとして、透さんにそれを阻まれた。透さんの手が私の手を握り締める。胸がどきりと跳ねて、小さく息を呑む。

「…なるべく急いで戻りますから。ハロといい子で待っていてくださいね」
「………こどもあつかいしてませんか」
「とんでもない」

透さんが背中を屈め、私の頬に唇を寄せる。柔らかく落とされるキスに胸が音を立てた。

「恋人扱いですよ。当然でしょう?」

…そんな優しい瞳で、柔らかい表情で、平然とこういうことをする。…本当に、たまらない。
これはこれで上手く丸め込まれてしまった気がしないでもないけど、そもそも私が透さんに敵うはずもないのだ。

「…いってらっしゃい、」
「行ってきます」

緩く絡めた指先にほんの少しだけ力を込めてから離す。透さんは小さく笑うと私の頭を優しく撫でて、そのまま家を出ていった。
透さんがいなくなった途端、家の中が急に静かになる気がする。静かな空間に寂しさを感じていたら、ハロが私の腕に体を擦りつけてきた。自分がいるよ、そう言うかのように。
いつも透さんと一緒にいる空間にもし一人だったら、正直ちょっとしんどかったかもしれない。体調が悪い時は心細くなるし、今はハロの存在が何よりも心強い。

「…ありがと、ハロ」

私のすぐ横で丸くなるハロの体を撫でながら息を吐く。
…早く元気にならなくちゃ。もう少し眠ってからお粥を食べようと思いながら目を閉じる。

悪夢は、私の脳裏にはっきりとこびり付いていた。起きて全て忘れられていたら良かった。
握り締めた拳銃の重さ。突き付けられた拳銃の冷たさ。目の前にいた誰かの視線。背後から聞こえた女性の笑い声。その全てを鮮明に覚えている。

さよなら、ですね

あの悪夢は、一体なんだったんだろう。
全て熱のせいにしてしまおうと思いながら、私はハロの温もりに身を寄せるのだった。


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