126

「…体が重い」
「アンッ」

ゆるゆると眠って目が覚めたのはお昼もすっかり過ぎた頃だった。喉の乾きを覚えたため、そのついでに少しでも透さんが作ってくれたお粥を食べようと思い起きたのだけど…これがびっくり、驚く程に食べられないのである。
体が食べることを拒否してるような感じ。恐らく塩で味付けされているだろうが、熱で味覚もおかしくなってしまったらしく味がわからない。透さんに一口でも二口でもと言われた通り、少しでも食べようと努力はしたのだが結局三口が限界だった。スポーツドリンクの味さえ変な味に感じるのだから、…もしかしたらこれは自分で思う以上に重症かもしれない。

「…気持ち悪い」

朝よりも意識は幾分かはっきりしているものの、頭痛に加えて腹部から胸元に渦巻く吐き気。熱は計るだけ無駄な気がしたので計らなかった。
なんとか薬は飲んだが、この気持ち悪さでは寝られるような気もしなかった。どうしよう。吐き戻すほど酷くはないけど、むかむかとしてぐるぐるする。こういうときって氷を食べるといいんだっけ…それは妊婦さんだっけ、三半規管で気持ち悪くなった時だっけ。頭が上手く働かない。
でも、冷たいもの、と思ってふとゆっくりと目を瞬かせた。

「………アイスキャンディ、食べたいかもしれない」

ぽつり、と呟いて冷蔵庫へと歩み寄る。冷凍庫を開けてみたけど当然ながらアイスキャンディなんてものは入っていない。ないとわかれば余計に食べたい欲求が湧いてきてしまう。なんだろ、ソーダ味のアイスキャンディとか。甘いけどさっぱりしていて冷たくて、今の私にはぴったりな気がした。
透さんの作ってくれたお粥をしっかり食べもせずにそんなものを欲しがってしまうのが申し訳ないとも思ったけど、この気持ち悪さが治まればお粥も食べられるような気がするのである。

「…買いに行こう」

どうしてもどうにもならなくなったら、風見さんに連絡すると透さんと約束した。どうしてもどうにもならなくなったら、である。今の私はとりあえずは動けるし、近くのスーパーに行くくらいなら何とかなるだろう。スーパーまで徒歩十五分くらいだし、風見さんの手を煩わせるまでもない。

「…ハロ、ハロ」
「アンッ」
「私、近くのスーパーまで出かけてくるから、お留守番してて」
「ウウ」
「…あれ、怒られている…」

ハロは私のズボンの裾を咥えると、そのままぐいぐいと引っ張っている。…行くなって言われてるのはなんとなくわかるけど、ハロ…君は本当に頭がいいなあ。しゃがみこんでハロの頭をよしよしと撫でる。ハロは、「そんな手に騙されないぞ!」と言わんばかりに小さく唸っている。それでも噛み付いたりは絶対にしないんだから、やっぱりこの子はとってもいい子だ。

「…近くの、スーパーに行くだけ。…一時間くらいで、帰ってくるから」
「ウウウ」
「怒らないでよ」

熱心に私の世話を見てくれようとしている様子に苦笑する。まだ私を引き留めようとするハロの頭を撫でて宥めると、私は立ち上がってクローゼットからパーカーを取り出して着た。…着替える気力はさすがにない。マスクをして財布と鍵だけポケットに入れる。

「それじゃ、ハロ…いい子にしててね」

くぅん、と鳴くハロを残して、私は家を出た。


***


外を出歩く時、何故か知り合いに遭遇する確率が高い気がしてならない。例えば沖矢さんとか、コナンくんもそうだし、快斗くんに会うこともある。蘭ちゃんなんかもポアロの近くでは会うことが多いし。
まぁだから、こんな日に限って知り合いに会ってしまうのも仕方がないというか…そういう可能性を考えてなかったのは発熱のせいだと思いたい。

「ミナさん?」

スーパーに入ろうとしたところで声をかけられてのろのろと振り返れば、そこには少し驚いた様子の沖矢さんが立っていた。…いやなんでこの人がここに。こんな時間に。大学院生ってこんな昼間にスーパーに買い物に来るものなのだろうか。

「…こんにちは、沖矢さん」
「どうしてここに?」
「…へ?」

沖矢さんの言葉の意味がわからずに首を傾げたら、沖矢さんは少し私に歩み寄って眉を寄せた。

「…ミナさん、先程駅前にいらっしゃいませんでしたか?」
「………はい…?」
「…というか、ミナさん具合が悪そうですが、どうしました?」
「…風邪を引いてしまったらしくて…今日はずっと寝込んでいたんですけど」

…駅前?沖矢さん何を言ってるんだろう。
今日は私は朝からこの発熱のおかげでダウンしていたし、起きたのは昼過ぎで外に出たのは今このスーパーに来たのが最初だ。駅前なんて行くはずもなく、もちろん行ったわけもない。

「気持ち悪かったので…食べられそうなアイスキャンディを買いに来たんです」
「……そう…ですか。…しかし、あなたがそんな状態なら安室さんが放っておかないのでは?」
「透さんは、今日はどうしても抜けられないお仕事があるとかで…でも、なるべく早く帰るって言っていたから、大丈夫です」

そうだ。透さんは早く帰ってきてくれると言っていたし、アイスキャンディを買ったら急いで帰らないと。そういえばスマートフォンも家に置いてきてしまったし。
ふぅ、と息を吐いたらぐらりと視界がぶれた。咄嗟に沖矢さんが手を伸ばして支えてくれる。

「…高熱ですよ、ミナさん」
「……朝の時点では38度は超えてなかったですもん…」
「買うものはアイスキャンディだけですか?」
「……はい」

私がこくりと頷くと、沖矢さんは小さく息を吐いてから私を支えながらUターンした。…あれ、私が用があるのはスーパーなのに何故かスーパーの駐車場へと連れていかれる。
わけもわからず沖矢さんに連れられるままよたよたと歩けば、赤い車へと歩み寄っていく。そうしてその後部座席のドアを開けた沖矢さんに、乗るように促された。

「…えぇ…?」
「僕が買ってきますから、あなたはここで横になっていた方がいい。ミナさん、自分で思っているよりも重症ですよ。外なんて出歩けるような状態ではないと思いますが」
「……もしかして私今、怒られてます?」
「失礼、そう聞こえたのなら謝ります。…とにかく、体を休めてください。送りますから」
「……家の場所は…」

言えない。沖矢さんの厚意はありがたいけど、透さんの家をこの人に知られる訳にはいかはいのだ。透さんはこの人を警戒している。火種は少ない方がいい。
ぼんやりとした頭でもそれだけのことが考えられることに安堵した。
沖矢さんは私が言わんとしたことをすぐ察したように小さく笑う。

「安心してください。…本当は家まで送り届けたいところですが、事情があるのも理解しています。近くまで送りますよ。それでいいですか?」
「…ご迷惑おかけして、すみません…」
「いいえ。…本当に、あなたは今は出歩かない方が良さそうだ」

沖矢さんのその言葉の意味はよく分からなかったけど、私を心配してくれていることはひしひしと伝わってきた。…結局誰かに迷惑をかけて心配させてしまうくらいなら、もしかしたら風見さんにお願いした方が良かったかもしれないな、なんて思う。もうここまで来てしまったのだから今更だけど。
沖矢さんは大人しく後部座席に横になった私を見ると、ドアを閉めてロックをかけてスーパーの方に向かっていった。
…出歩かない方が良さそうだ、と言っていたけど…純粋に体調が悪いから、というだけの意味には聞こえなかった。それに、駅前にいなかったかと聞かれたのもよくわからない。駅前で私に似た人でも見かけたのかな。
回らない頭ではあれこれ考えるのもしんどくて、私はゆっくりと息を吐くとそのまま目を閉じた。


──────────


「おや、ミナさん」
「…えっ、」

駅前で彼女を見かけ、いつものように声をかけた。いつもならすぐに振り向いて笑顔で挨拶をしてくるものだが、一拍反応が遅れたことが引っ掛からなかったわけではない。
駅前にいた彼女は俺の方を振り向きながら少し驚いた表情をしていたが、最初はその驚きの意味もわからなかった。

「平日のこんな時間にあなたが駅前にいるのも珍しいですね。今日はお仕事はお休みですか?」
「…え、ええ。そうなんです。少し買い物に…」
「良ければお茶でもどうですか?ポアロの味には負けるでしょうが、美味しい茶葉を出してくれる喫茶店があるんですよ」
「…すみません、人を待たせていますので…」

軽く頭を下げてそそくさとその場を離れる彼女の背中を見送りながら、俺は僅かな引っ掛かりに眉を寄せた。
明らかにいつもの彼女ではない。けれど、他人の空似にしてはあまりに似過ぎていた。それに、もし人違いなのであればそう言えば良いだけの話だ。親しげに声をかけられて言い出せなかったという可能性も否定は出来ないが、それにしては声や仕草は佐山ミナそのものであった。
…本当に人を待たせていて急いでいたのか…そう納得してしまうくらいには、引っ掛かりは本当に僅かなものでしかなかった。
スーパーの入口で彼女を見かけた時、おかしい、と瞬時に思った。先程駅前で会った時と着ているものが違う。ルームウェアのようなラフな格好にマスクをしている。どこかフラフラしているようにも見えるし、おかしいと思いながらも彼女の名前を呼んだのは、事実がどうだか判断がつかなかったからだ。そして名前を呼び振り向いた彼女を見て、彼女と話し、間違いなく目の前にいるのが本当の“佐山ミナ”だと確信した。
風邪を引いているらしく、よろめいた彼女の体を支えた時に高い体温を感じて目を細める。足元も覚束無い程なら外に出るべきではないと怒鳴りたくなったが、沖矢昴ならばそういったことはしない。溜息で感情を流しながら、俺は佐山ミナを乗せた車にしっかりとロックをかけてスーパーへと足を向けた。

今車に乗っている彼女が本物の佐山ミナだとしたら…駅前で見かけた彼女は、佐山ミナではなかったということになる。
佐山ミナには双子がいたのか。そんな話は聞いたことがないが…単に俺が知らなかっただけということもある。…ただやはり気になるのは、駅前で会った佐山ミナではないあの女性が、何故佐山ミナのふりをしたのか、という点だ。何か、佐山ミナのふりをしなければいけない理由でもあったというのだろうか。だとしたら、どんな?

「…嫌な感じだな」

真っ先に考えられるのはベルモットの変装、だが。バーボンである安室くんと繋がっていることを考えれば、ベルモットが佐山ミナのことを知っていたとしてもおかしくはない。けれどベルモットの身長は佐山ミナよりも高く、さすがに身長までは誤魔化しきれないだろうことから、ベルモットの変装ではないことがわかる。
声、仕草、身長…もちろん顔も、佐山ミナそのものだった彼女は…一体何者だったのだろう。
騒ぎ立てるほどのことではないかもしれないが、念の為あのボウヤには知らせておくかと思いながら、俺はアイスキャンディを手に取った。


Back Next

戻る