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米花町。私の世界には存在しない町の名前で、その町は安室さんが過ごしていた町だという。犯罪が多いのだと安室さんが嘆いていたのも記憶に新しい。町自体は穏やかだが、治安は良くないとのこと。
そんなところに、私は来てしまった。来る予定なんてなかった。来れるとも思っていなかった。
今まで自分が来ていた冬服とコートの入った紙袋を見つめて、一つ深い溜息を吐く。

子供たちに教えてもらった通り歩くと無事に駅に辿り着くことが出来た。駅舎には「米花」の文字。実際に米花の文字を目にすると、急に現実味が出る。
駅の近くにあった服屋でシンプルなワンピースを購入した。理由は簡単。インナーとボトムスを買うよりも安かったからだ。購入の際にボロボロの身形を怪訝な顔で見られてしまったが背に腹は変えられない。
今後の見通しが立たない今、特に金銭に関しては慎重にならなければいけないだろう。駅前の噴水のへりに腰を下ろし、さてこれからどうすればいいかとぼんやりとしていたところである。
服は着替えられたが怪我の手当までは出来ていない。そこまでの気力がないと言うのが正しい。多分打ち身と、軽い捻挫。それから擦り傷。ほっといても死にはしないだろう。

私がここまでぼんやりとしてしまう理由はちゃんとある。
先程米花駅の切符売り場で路線図を見た。せめて少しでも知っている場所に出られればと思ったのだが、なんということだろう。知っている駅名がなかったのである。
米花駅の通っている路線名は東都環状線。どことなく山手線に似ているな、なんて思ったが、そこにあるのは全く知らない駅名ばかり。南東京駅の「東京」という文字にほっとしたくらいだ。
あぁ、本当にここは私がいた場所とは違うんだと思うと、目の前だって真っ暗に感じる。地理を調べて自分が住んでいたマンションの辺りに行くことは可能かもしれないけど、そこには私の家はないし、そもそもマンションがあるかさえ怪しい。根本から全てが違うのだから。
これから、どうしよう。
安室さんがここに戻ってこれているかを確認したいが、コナンくんは教えてくれる風ではなかったし。コナンくんの判断は正しい。どこからどう見ても怪しい私が悪いのだ。
多分ここに私の戸籍はない。キャッシュカードやクレジットカードが使えないどころか、ここで仕事を探すことも、家を借りることも出来ない。病気や怪我で病院にかかったら全額実費負担になる。
頼れる知り合いもいない。

「……はぁ、……」

もう溜息しか出ない。日が落ちて、辺りが薄暗くなってきた。
そう言えば今何月なんだろう。冬じゃないことだけは確かである。安室さんがマンション前に倒れていた時、雪を見て驚いていたのはきっと季節のズレがあったからなんだろうな。
考えなきゃ。これからどうすべきなのか。どうすればいいのか。帰る方法を探すにしても、その前にやらなきゃいけないことがいくつもあるんだ。
頭ではわかっていても体は動かない。動きたくない。

「失礼」

ふと頭上から声が降ってきて、ゆるりと顔を上げる。眼鏡をかけた男性が、買い物袋を持って立っていた。
薄暗くてわかりにくいが、男性はすらりとした長身でかなり顔が整っている。誰だろう。イケメンがスーパーの買い物袋を持っている図というのはなかなかにシュールである。

「…かれこれ一時間程ずっとこちらにいらっしゃいますが、お待ち合わせですか?」

なんだ、これ。ナンパだろうか。私なんかよりももっと可愛い人はたくさんいるんだから、そっちに声をかければ良いのに。ゆっくりと目を瞬かせて小さく首を傾げる。

「……どなたですか?」
「私は沖矢昴といいます。あなたは?」
「……佐山、ミナ…です」
「ミナさん。お待ち合わせ…ではないですよね。あなたはスマートフォンに触ることなく、ここでずっとぼんやりとしている。待ち合わせ等であるなら、連絡手段であるスマートフォンは手に持っておくはずだ。…差し出がましいようですが、一体こちらで何を?」

物腰は穏やかだが、その声には有無を言わせないような強さがあった。なんで私、こんなところで知らない人に絡まれているんだろう。
沖矢昴さん。パッと見、私と同じくらいか少しだけ年上、だろうか。

「……すぐに移動しますので…」

もう少しぼんやりする時間が欲しい。今は何もしたくないし、気力も何もないのだ。駅まで歩いて服を買って、路線図を見た瞬間に私の気力は尽きてしまった。
不安で仕方ないし、とにかく今は一人になりたかった。誰かと話す余裕なんてない。
私が少ない荷物を持って立ち上がろうとすると、沖矢さんは軽く手で制した。思わず反射的に動きを止めてしまう。

「すみません、警戒させるつもりは無いんです。…少しあなたのことが気になったものですから」
「……はぁ、」

ろくな返事さえ出来やしない。
結局この人はなんなんだろう。

「…ごめんなさい、一人になりたいんです。…失礼します」

軽く頭を下げて、今度こそ荷物を手に私は立ち上がる。沖矢さんの視線を避けるように俯いて、背中を向ける。そのまま、私は逃げるように駆け出した。


────────


じっと虚空を見つめている表情が気になった。
時折溜息を吐いているようだったが、視線は一点を見つめたままぼんやりとして、瞬きをするのもゆっくりで。
人の死にはそれなりに関わってきた。人が死に際に見せる危うい表情は何度も見た。彼女の表情はそれに近く、そのままフラフラと道路に突っ込んでもおかしくないと思った。
だから声をかけたのだが…どうやら警戒されてしまったらしい。今追うのは良くないだろうと彼女の背中を見送る。
怪我もかなりしていたようだが大丈夫だろうか。

「昴さん!!」

声に振り返る。スケートボードを抱えて駆け寄ってくる少年と目が合った。よく知る顔馴染みの彼に小さく笑みを向ける。

「今晩は、コナンくん。どうしたんだい?」
「昴さん、この辺りでこれくらいの髪の長さの、怪我してる女の人見なかった?」

思わず先程彼女が駆けて行った雑踏の方に視線を向ける。

「それは、シンプルなワンピースを着た?」
「えっワンピース?いや、僕が会った時は冬服を着ていたんだけど…あちこち怪我だらけで服も汚れていたから、着替えてるかもしれない」

なるほど。彼女が持っていた紙袋の中の汚れた衣類はそういうことか。何があったかまで詳しいことはわからないものの、訳ありだということは理解出来た。

「名前は、佐山ミナさん?」
「ッ、知ってるの?!」
「えぇ、つい先程までこちらで少し話を。彼女を探しているのかな」
「安室さんが探してる人なんだ。安室さんは今どうしても動くことが出来ないから、至急彼女を保護して欲しいって。…ミナさんに安室さんの連絡先を聞かれて、咄嗟に知らないって答えたんだけど…その後安室さんに確認したらすごく真剣な声で探して保護して欲しいって。詳しいことは話せないけどすごく大事な人だって。数時間したら動けるようになるからそうしたら自分でも探すって言ってたから…時間的に、そろそろだとは思うんだけど」
「ホォー…」

あの安室君と訳ありとは。ますます彼女に興味が湧いた。
安室君との関係を考えるのは後でいい。今は彼女を探す方が先決だろう。

「彼女ならあっちの方に走っていったよ。…一人になりたいと言っていたから、行くとしたら静かな場所だと思うが」
「ありがとう!行ってみるよ!」

ボウヤはスケートボードを置いてそれに飛び乗ると、勢いよく彼女が消えていった方向へと行ってしまった。
本来なら手伝うべきなのだろうが、先程警戒されてしまったことを考えると手を出すべきではないだろう。あのボウヤがいれば問題ないはずだ。

佐山ミナ。
近いうちにまた会えるだろう。暴いていくのはそれからでも遅くはない。


────────


どれくらい走って、どこをどう進んだか覚えていない。そもそも私はこの世界の地理には明るくない。見たことも無い住宅地と見たことも無い商店街。けれど、どこか私の世界の日本と重なる部分もあってそんなところが不気味だった。
気味が悪くて、そういうものがまとわりついてくるのが嫌で、走って、走って、走って。気付けば私は、この世界で最初にいた場所である米花公園へと戻ってきてしまっていた。
辺りは静まり返っていて暗く、街灯がほんのりと公園内を照らしている。
疲れた足を引き摺るようにしてのろのろと公園に入ると、冷たいベンチに腰を下ろす。深い溜息を吐いて、ばくばくと激しく鼓動を刻む心臓の辺りをそっと押さえた。
静かで、一人になれる場所。こんな時間にこんな場所にいる私の事なんて、誰も気にしないだろう。
ボロボロになった服の入った紙袋を膝の上に乗せて、そのままぎゅうと抱きしめる。
背中を丸めて膝に額を押し付けた。お腹の奥の方が震えて、呼吸が浅くなる。

「…どうしよう……」

ぽつりと呟くと、本当に途方もないことだと突き付けられるようだった。
一つずつ考えようと思い、ぎゅっと目を閉じる。
自分のこれからの事は正直どうしたらいいかなんてわからないし、今は考えられる気がしない。まず私がしたいと思うのは、安室さんの無事を確認することだ。
こちらの世界に戻って来られているのか、怪我はないのか。それとも、自分だけがこの世界に来てしまったのか。どの道安室さんと連絡を取らなくてはいけない。
喫茶店で働いていると言っていた。確か、店の名前はポアロだったか。そこに行ってみる必要がありそうだ。
その為には、せめてこの辺りの地理だけでもしっかりと把握しなければならない。
まずは駅前の書店に行って、地図を購入する。場所を確認して、ポアロに行ってみる。そこで安室さんに会えれば良いが、会えなければ会えるまで何度か訪問する。会えない日が続いてしまったら、こちらには戻ってこれていないと判断すべきか。

「…しっかりしなきゃ」

ゆっくりやりたいことから一つ一つ考えたら、自分の行動が定まってきた。ごちゃごちゃしていた頭の中も少しずつだがまとまりつつある。
どうか無事でいてほしい。怪我をしていないといいんだけど。

「ミナさん!!」

突然呼ばれて、びくりと身を竦ませた。誰だろうと顔を上げると、公園の入口から走ってくるメガネの男の子。…コナンくんだ。

「…コナン、くん。…どうしてここに…」
「安室さんに言われて探してたんだ」
「っ、安室さん?」

どうしてそこで安室さんが出てくるのか。目を見開いた言葉を失うと、コナンくんは一度視線を落としてから言った。

「ごめん、ミナさん。僕、ミナさんが本当に安室さんの知り合いかどうか判断つかなくて。…あの後安室さんに連絡取って、ミナさんが言ってたことが全部本当だったって聞いた」
「安室さんと、連絡が取れたの?」
「…実は連絡先も知ってたんだ。本当にごめんなさい」
「そうじゃ、なくて」

安室さんと連絡が取れたということは。

「…安室さん、無事なの…?」
「えっ?」

無事に、こちらに戻ってきていたということだろうか。
コナンくんはなんの話だと言わんばかりに眉を寄せて首を傾げている。けれど、事情を説明したところでわかってもらえないのは目に見えていたし、そもそも簡単に信じられる話ではないのだから誰彼構わず話すわけにもいかない。

「…無事なら、いいんだ。…良かったぁ、」

安堵から体の力が抜ける。
よかった。本当によかった。あの爆発は私の元彼が引き起こしたものだ。あの爆発で大変な怪我をしてしまっていたらとか、最悪のことがあったらと考えると怖くてたまらなかった。
少なくともコナンくんと連絡が取れるような状況なら、そこまでの心配もいらないだろう。

「…えっと、ミナさん。安室さんから、ミナさんを保護するように頼まれてるんだ」
「…保護?」
「うん、今連絡するからちょっと待って…」

コナンくんがそう言いながらスマホを取り出そうとした時、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。
コナンくんと共に顔を上げて音の方を見ると、道を照らすヘッドライトが近付いてくる。
重低音のエンジン。普通の乗用車じゃない。スポーツカーだろうか。
こんな閑静な住宅街をスポーツカーが走るなんて、と思いながらぼんやりと見つめていると、その車は公園の前に停まった。なんだろうと思えば、コナンくんが小さく笑ってこちらを見上げてくる。

「連絡するまでもなかったみたい」
「ミナさん!」

車のドアが閉まる音とほぼ同時に、投げられた声に息を呑む。ずっと聞きたかった声に、私は思わずベンチから立ち上がった。
駆け寄ってくる足音。街灯に照らされた金糸の髪。

「…あむろ、さん、」

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