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安室さんが駆け寄ってくる。その服装はグレーのスーツで、一番最初に安室さんと出会った時のことを思い出した。けれどあの時とは違ってどこか破れていたり汚れていたりといったことはない。スーツを着こなす安室さんはいつもよりもどこか大人びて見える。成人男性に対して大人びてる、なんていうのは少し変かもしれないが。

「遅くなってすみません。ありがとうコナン君、助かったよ」
「ううん。元はと言えば僕がミナさんと会ったその時に安室さんに確認しなかったのが悪かったんだ。見つかって良かった」
「もうこんな時間だ。送っていくから、二人とも車に乗ってくれ」

安室さんを目の前にして呆然としている私を他所に、安室さんとコナンくんの間で話が進む。どうしたら良いかわからず車に向かう安室さんの背中を見つめていたら、コナンくんにくい、と手を引かれた。小さくて温かい、子供の手だ。

「行こう、ミナさん。ね?」

小首を傾げて小さく笑うコナンくん。その声はとても優しく、昼間に会った時は本当に彼を警戒させてしまっていたんだと実感する。

「…ごめんね、コナンくん」
「え?ど、どうして謝るの?」
「昼間会った時…私、すごく怪しい奴だったよね。もっとしっかりしなきゃいけなかったのに…なんていうか、多分怖がらせてしまったんじゃないかって。…他の子達にも、伝えて貰えるかな。ごめんね、って」

人を警戒するというのは、気を張るという事だ。
子供であるコナンくん達に、そんな思いをさせてしまったのを申し訳なく思う。混乱から上手く立ち回れなかった自分が情けない。
小さな手を少しだけ握り返して視線を落とすと、コナンくんは少し慌てたように首を振った。

「きっ、気にしてないよ!僕もあいつらもさ!あいつらは…ミナさんのこと心配してると思うから、ミナさんが元気になってくれたらそれで大丈夫だよ!」

優しいなぁ。ほんの少しだけ笑って頷くと、コナンくんはほっとしたように笑った。

「ミナさん、コナン君、行くよ」

少し離れた所から安室さんに呼ばれ、コナンくんと共にそちらに向かった。


安室さんの車の後部座席にコナンくんと一緒に乗り込み、着いた先は毛利探偵事務所と書かれたビルだった。コナンくんと名字が違うので不思議に思っていたのが顔に出ていたのか、コナンくんが「今は小五郎のおじさんの家に預けられているんだ」と教えてくれた。安室さんに毛利小五郎を知っているか聞かれたことがあったのを思い出す。親戚かなにかなんだろうなと思い、「そうなんだ」と返した。

「上まで送るよ」
「ううん、大丈夫だよ。帰る時間は連絡してあるから。送ってくれてありがと、安室さん」

スケボーを抱えたコナンくんが車から降りて、ふと思い出したようにこちらを見た。

「またね、ミナさん」
「…うん、またね。コナンくん」

ニッと笑って手を振るコナンくんに手を振り返し、ビルに入っていく彼を見送る。
視線を少しずらすと、ビルの一階に入っている喫茶店に気付いた。窓ガラスにはポアロの文字。もしかして。

「…安室さんが働いてる喫茶店って…」
「ええ、ここですよ。今度是非寄って行ってください。ハムサンドとコーヒーを振る舞いますから」

柔らかい安室さんの声に目を細める。
なんだろう、この気持ち。安心に近いけど何か違うような、胸が温かくなるようなほんの少しだけ痛いような複雑な感じ。それが不思議と心地よかった。

「ミナさん、助手席へどうぞ」
「え?」
「この車、前の方が乗り心地も良いですし。後ろ、狭いでしょう?」

そう言われて、おずおずと一度車を降りる。安室さんが助手席の位置を直してくれたので、そのまま助手席へと乗り込んだ。ドアを閉めてシートベルトをすると、それを確認した安室さんがアクセルを踏んで緩やかに車は走り出す。
ちら、と運転する安室さんを見つめる。
免許も持っていて車もよく使うと言っていたけど、実際に運転している姿を見る日が来るとは思っていなかったな。しかもまさかスポーツカーだったなんて。車は詳しくないけど、これかなり高い車なんじゃないだろうか。
服は、どこで着替えたんだろう。こっちに戻ってきて一度自宅にでも戻ったのだろうか。

「……そんなにじっと見つめられると照れますね」
「す、すみません」

安室さんがくすりと笑う。絶対照れてなんかいないと思う。即座に視線を逸らして自分の膝に向ける。
腕も、足も、あちこち擦り剥いて痣もできている。あまり痛みがなかったから軽い捻挫だと思っていたが、片足の足首が青くなって腫れていた。今になって思い出したように痛みが酷くなってきて、小さく溜息を吐く。

「…あの、今どこに向かっているんですか?」
「僕の家です。いろいろ話したいことも聞きたいこともあるでしょうが、まずはあなたの怪我の手当てが先だ。…全く、それだけ怪我をしておいて放置しているなんて、僕よりも酷いですよ。足首、痛むでしょう」
「…少し。さっきまではそんなに痛くなかったんですけど…なんだか痛くなってきました」
「…まぁ、無理もないですが。もうすぐ着きますから」

そうか。今は安室さんの家に向かっているのか。適当に駅前のビジネスホテルにでも行ってくれれば良いと思っていただけに少し申し訳なくなる。
安室さんが私の世界に来た時と逆だな。
心地よいエンジン音に身を委ねながら、この世界に来てから初めて、私は気を抜けたのかもしれない。


***


「狭いですが上がってください」

安室さんは「MAISON MOKUBA」というアパートに住んでいた。促されるまま玄関から中に上がってすぐのダイニングキッチンで佇む。正面には和室。寝室なのだろう、ベッドと飾られたギターが見える。

「着替えとタオルは用意しておきますから、先にシャワーを浴びてきてください。捻挫した足首は温めない方が良いので、なるべく早めに出てきてくださいね。僕が使っているもので申し訳ありませんが、ボディーソープやシャンプーは好きに使ってください」
「わ、かりました」

テキパキと説明をした安室さんに、浴室の方に背中を押されて思わず頷く。有無を言わさないこの感じ、逆らえる気がしない。何か口を挟もうものなら遮られるのではないだろうか。
私は申し訳ないと思いながらも、安室さんの言う通りに脱衣所へと入った。元々着ていた服を入れた紙袋や鞄は足元へ。ワンピースを脱ぐ時に、擦り傷に触れてチリチリと痛んだ。
捻挫した足首を出来るだけ温めないように気をつけながら、シャワーで埃と汗を洗い流して泡立てたボディーソープで体を洗う。シャンプーも使わせてもらって体を清めると、少しだけ気分もさっぱりしたように思う。
浴室を出ると、洗濯機の上にTシャツとジャージのズボンが置いてあった。広げてみると私の体型よりもかなり大きい。言うまでもなく安室さんのものだろう。気恥ずかしさを覚えながらも、それを振り切るように頭を振ってからありがたく着させてもらうことにした。
Tシャツは太もものあたりまできてしまうし、ジャージはウエストも緩く裾は引きずってしまう。腰紐をぎゅうと引っ張ってなんとかウェストで留めると、裾をぐるぐると折ってみる。
…とりあえず見られる格好にはなっただろうか。わかっていたけど安室さん身長もあるしやっぱり大きいんだな。
体を拭いたバスタオルを肩にかけ荷物を持って脱衣所を出ると、美味しそうな匂いして目を瞬かせる。途端に、ぐぅ、とお腹が鳴った。

「おかえりなさい。お腹空いてるかなと思って作ったんですけど、作っておいてよかった」
「……ただいまです」

私の腹の音はしっかり聞かれていたらしい。振り向いた安室さんがくすくすと笑った。
安室さんは料理をしていた手を止めると、付けていたエプロンを外して和室の方へと足を進める。

「傷の手当てをしましょう。こちらへ」
「…失礼します…」
「そこに座ってください。少し触りますがよろしいですか?」
「は、はい。何から何まですみません」

いいのかなと思いながら、おずおずと和室に足を踏み入れると、救急箱を手にした安室さんにベッドに座るよう促される。安室さんのベッドは高過ぎず低過ぎずといった高さで、腰掛けるとちょうど良い。

「一番はこの足首の捻挫ですね。あとは…足と腕の擦り傷と、肩の打ち身ですか。内出血が酷いですね」

ざっと私の傷を改めた安室さんは、私が安室さんの手当てをした時とは全く違う慣れた手つきで手当てをしてくれた。あの時の私はかなりもたもたしていたと思う。安室さんの処置は素早く、的確といった様子で感心してしまう。
大きな擦り傷には絆創膏を、肩の打ち身には湿布を。そして足首の捻挫は、氷嚢を押し当てた状態で固定してもらった。少し歩きにくいけど、捻挫は冷やすことが大事だそうだ。

「あなたがまさかこちらの世界に来てしまっていたとは思いませんでした」

手当てを終えて、救急箱を片付けながら安室さんが言った。

「…私も…まさかこんなことになるとは思ってなくて…お手を煩わせてしまってすみません」
「何で謝るんです?あなたは僕の恩人です。恩人を助けるのは当然のことでしょう」

さぁ、話は後にして夕食にしましょう。安室さんがそう言いながら手を差し伸べてくれる。その手を取って引っ張られるままに立ち上がり、ダイニングキッチンへと戻る。
ダイニングキッチンにあるテーブル前の椅子に腰を下ろしていれば、安室さんが夕食を運んできてくれた。
お味噌汁と焼き魚、つやつやの白米。ほかほかの夕食に、私のお腹が再びぐぅと音を立てる。

「僕も夕食まだなんです。一緒に食べましょう」

とても美味しそうだ。安室さんと一緒に手を合わせて、お味噌汁を口に運ぶ。美味しい。ここ一週間で食べ慣れた安室さんの味に、じわりと視界が歪む。
ぐす、と鼻を啜った私に気付いた安室さんがぎょっとしたように目を丸くした。

「ミナさん?どうしました?」
「う、すみません…すごく、すごく美味しいです、あの、なんか、ほっとしちゃって」

お味噌汁のお椀を置いて、ぽろぽろと零れ始めてしまった涙を拭う。
この世界に来てしまったとわかった時も、路線図を見つめて私の帰る場所が本当にないのだとわかった時も、コナンくんと安室さんが迎えに来てくれた時ですら涙なんて出なかったのに。
情けなくも小さくしゃくり上げながら泣く私を見た安室さんは、箸を置いて小さく息を吐いた。

「…僕、実は今から三日前にこちらに帰ってきていたんです」
「…えっ?」

三日前。私がこの世界に飛ばされたのは今日の話だ。わけがわからずに目を瞬かせる私と目を合わせた安室さんが、小さく苦笑を浮かべた。

「あなたの元交際相手と対峙して、そこであった爆発。あれに巻き込まれた僕は、あなたの世界に飛んだ直前に戻っていたんです。それが三日前の話です」
「…え?えっ?えっと、つまり…どういう…」
「つまり、僕の世界での爆発直後の現場に戻っていたんです。時間的には爆発からは十分ほど経っていましたが」
「…私の世界で過ごした一週間の時差が、なかったって…そういう…?」
「はい。至近距離での爆発だったにも関わらず、僕にはほとんど怪我もありませんでした」

だから安室さんはスーツを着ているのか。
自宅に一度戻って着替えたんじゃなく、三日前に戻ってきていたなら納得だった。怪我もなく、無事に帰って来れていたとわかって胸を撫で下ろす。ずっと気がかりだった。

「戻ってきたとわかって、最初は僕の夢だったのではないかと疑いました。ですが僕はあなたの世界で買った服を着て、ポケットにもあなたとの連絡用の携帯が入っていた。異世界へのトリップは、間違いなく自分の身に起こったことだったと理解したんです。それと同時に、あなたも僕と一緒にこの世界に飛ばされてしまっているのではと思いました」

元彼の突然の爆発に巻き込まれたのは、安室さんと私の二人だった。私がこちらの世界に飛ばされている可能性も十分にあると安室さんは考えていたらしい。

「…ですが、あなたを探しても見つからなかった。この三日間あらゆる手を尽くしました。それでも、あなたは見つからなかったんです。一週間探して見つからなければ、あの世界に残ったままだと思うことにしようと考えていました。それが…今日、見つかった」

ふわりと安室さんが微笑む。優しい笑みにどきりと胸が跳ねた。

「あなたを巻き込んだのは僕です。こちらの世界に来てしまったあなたに対して申し訳ないと思います。…でも、あなたに会えて良かった。安心しました。僕が知らないところで怪我でもしていたら、万一のことがあったらと、ずっと気になっていたんです。…本当に、無事で良かった」

すっかり涙は引っ込んで、安室さんの言葉に頬が熱くなる。
え、なんでこんな。どきどきと胸が跳ねて、頬が熱くなって。こんな気持ちになるのは初めてで、安室さんを見ていられなくなって視線を逸らす。
なんだろう。恥ずかしいような、むず痒いような、でもぽかぽかと心が温かくてほんの少しだけ切ないような。
その気持ちを誤魔化すように、私はお味噌汁のお椀を手に取り口に運んだ。

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