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私は、基本的にあまり夢は見ない方だ。起きて夢を覚えていることはあまりないし、良い夢も悪夢もそもそも起きてからの記憶として残ることが少ない。それはつまり深く眠っているということなんだろうけど、夢の中で夢だと気付けば好きなことが出来るとか、空を飛んだり思いのままになる、なんて話を聞くと、夢を見られる人はいいなぁなんて思ったりもする。
けれど、夢の中で夢だと気付けたとしてもどうすることも出来ないということだってあるのだと私は知った。夢だと気付いても悪夢は悪夢。目を覚まさないとと思っても夢の出口は見つからない。私の夢は、そう簡単にはいかないらしい。
それは、じわじわと侵食してきていたんだと思う。
私がこの世界で積み上げてきた一つ一つを、私が気付かないように一つ一つくすねては自分の中に溶かし込んで、やがて私の存在さえ取り込むつもりなのかもしれない。

「ありがとう、あなたがいてくれて良かった」

嘲るような声のように聞こえた。
無邪気で心からの感謝を告げているであろうことはわかるのに、その声に滲んでいたのは私を馬鹿にする響き。
私の背後から伸びてきた両手が、優しく私の視界を遮る。

「後のことは私に任せて」

笑みを含んだ声が私に囁く。
…あぁ、よく知る声だ。この声を私はよく知っているのに、何故だかあまりこうして聞くことは無い新鮮な感じがする。
くすくす、私の耳元で軽く笑う。

「あなたの代わりに私が生きてあげるから」

他人の人生とは、生きられるものなのだろうか。
人生はその人だけのものだ。その人の代わりに背負うことは出来ても、そっくりその人生を生きることなど出来はしない。
けれどこの人は、私の代わりに生きるのだという。
おかしいな。変なの。
視界を遮られたまま、私は吐息だけで小さく笑った。何故笑ったのかは、自分でもよくわからなかった。

「だから安心して、あなたは私の代わりに死ね」

例えば私が死んだら。
透さんの隣には、この人が並ぶことになるんだろうか。
柔らかなミルクティー色の髪が閉ざされた視界の奥で靡いた気がした。
そうか。私のこの手は、透さんに届かなくなってしまうのか。
それは、嫌だな。
とても悲しくて、嫌なことだ。


***


不意に夜中に目が覚めた。
透さんに風邪がうつったらいけないからと掛け布団だけ頂いてダイニングキッチンで寝ようと思ったけどそんな私の意見はすげなく却下され、いつもと同じように寝ようとする透さんを必死に押し留め、せめてもと私がマスクを着用することで就寝に至ったのは数時間前のことだ。
ちらりと見れば、私を抱きかかえる形で寝息を立てている透さんが目に入った。そのまま視線を動かしていくと枕元で丸くなるハロの姿もある。…今日はこっちで寝ているんだな。
…熱で汗もたくさんかいてるし、蒸しタオルで体は拭いたけど絶対臭い…気がするから、あんまり透さんに近付いて欲しくないんだけど。寝る前は少し距離があったはずなのに結局いつもと同じ距離である。
汗臭いって思われたらどうしようなんて考え始めたら目は冴えてしまって、少し距離をとろうと身動ぎしたらぱちりと透さんの目が開いてびくりと体を震わせた。

「ひぇ、」
「…嫌な夢でも見ました?」

透さんの手が伸びて私の首筋に触れる。大分熱は下がったみたいだけど、まだ体のだるさは残っている。熱も完全に下がり切ったわけではなさそうだ。
嫌な夢は、そうだな。見た。体調が悪いから眠りは浅く、不調ゆえの悪夢を見るのも致し方ないと思う。出来れば起きた時には綺麗さっぱり忘れていたいものだけど。

「冷却シート、替えておきましょうか。少し熱も落ち着いたみたいですね」
「…すみません、ご迷惑を…」
「迷惑なんかじゃない、って何度言っても、あなたはきっと気にしてしまうんでしょうね」

透さんは苦笑すると体を起こし、ローテーブルの上に置いてあった冷却シートを手に取った。
…起こさないように、と思ったけど結局透さんを起こしてしまったな。鋭い人だから下手したら私が目を覚ました気配で起きてしまう可能性もある。出来ればゆっくり寝て欲しいと思うけど、この状況では仕方ないのかもしれない。
気付けばハロも起き出して、私の頬をぺろぺろと舐めている。擽ったい。

「あ、あの…」
「なんですか?あ、水飲みます?」
「いえ、その。…今は、あんまり近付いてほしくないんです…けど…」

尻すぼみになりながらも告げると、透さんは冷却シートのビニールを剥がしながら首を傾げた。

「どうして?」
「…探偵さんならそれくらい推理してくださいよぉ…」

絶対わかって言ってる。
透さんは私の声に小さく笑いながら私の額の冷却シートを剥がし、新しいものに貼り替えてくれた。ひんやりとした気持ち良さに小さく息を吐きながら目を細める。

「汗臭くなんてないから安心してください」
「…嘘だぁ」
「嘘じゃないですよ、本当」

透さんは一度和室を出て、お水の入ったコップを手に戻ってきた。汗もかいて喉は渇きを訴えているから正直とてもありがたい。ゆっくり体を起こそうとすれば透さんが支えてくれる。…本当に出来た人だなぁ。

「どうぞ」
「…ありがとうございます」

お礼を言いながらコップを受け取って口に運んだ。一気に飲むのは駄目。口の中で温度を慣らしてからゆっくりと飲む。口内のベタついた感触や渇きがなくなり、私は水を飲み干して息を吐いた。
透さんはさらりとそのコップを取り上げ、キッチンに運んでからまた戻ってきて何事も無かったように私の隣に横になる。その際に両腕で抱き締められて、いやだからあんまり近付きたくないんだけどな…!

「さ、寝ましょう」
「透さん、」
「おやすみなさい、ミナさん」

透さんがここまで私と接触するというのもなんとなく珍しい、ような気がした。…毎日抱き合って眠っておいて何をって感じではあるけど、それでも透さんは私が少しでも嫌がる素振りを見せればその点考慮してくれる人だ。こんな風に少し強引なのはなんとなく、いつもと違うななんて思う。…そういう気分なのかな。
透さんの手が背中を優しく撫でてくれて、いつしか私にも眠気がやってくる。

「…おやすみなさい」

小さく呟いてうとうととしていた瞼を閉じた。
あんまり近付きたくないのは本心だ。それでも、透さんが傍にいるという安心感が絶大であることに変わりはない。
せめて臭いと思われませんように、なんてことを考えながらいつしか私は寝入っていた。
今度は、夢は見なかった。



透さんの看病のお陰か、翌日私の熱はすっかり下がっていた。体調の不調はまだ引き摺っていて味覚は鈍いし怠さも残っていたが、熱自体は平熱そのものだ。
体調が戻ったのに休む理由はない。そもそも昨日は急に休んでしまって嶺さんには迷惑をかけてしまったのだ。今日はそれを挽回するつもりで働かないと、と意気込んでいた。
シャワーも浴びて、透さんの手作り栄養満点の朝食を食べ、いざ出発という時になって私の前には透さんとハロが複雑そうな表情で佇んでいる。

「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です!」
「ハロ、どう思う」
「ウゥ」
「えぇ…なんでぇ…?」

仕事に行くという私に、透さんもハロも疑わしい表情を浮かべている。…心配してくれているのはわかるけど大丈夫だ、自分の体調は自分が一番よくわかっているのだから。…なんて、昨日自分を過信して外出して悪化した私が言えることではないから黙っているけれど。

「…熱は下がりましたが、病み上がりであることに変わりはありませんよ。くれぐれも無理はしないように」
「はい。他のお客さんにうつさないようにしっかりマスクをします」
「…他の方の心配も結構ですが、まずはご自身の心配をしてくださいね」

自分の心配は確かに必要だけど、病み上がりの私が他の人に風邪をうつしてしまうことの方が正直心配だ。ばっちりマスクを着ける私を見て、透さんはやれやれと肩を竦めた。
今日は透さんはポアロはお休みで私よりも少し後で家を出るという。帰りは私よりも遅くなるそうだから、夕食は用意していってくださるとのことだ。毎度の事ながら頭が上がらない。

「それじゃ、行ってきます」
「あ、少し待って」

さて、と靴を履いて鞄を持ち直したら透さんに止められた。
どうしたのだろうと思いながら振り返ると、思っていたよりも近くに来ていた透さんに顔を覗き込まれてぎょっとした。

「えっ、あ、の、」
「ん、」

透さんの手が伸び、さら、と私の前髪を軽く避ける。そのまま小さな音を立てながら額にキスされて、せっかく下がった熱が一気に上がったような気がした。
ぱくぱくと口を開閉させるも、マスクをしているからきっと透さんにはわからないだろう。彼はクスクスと笑うと私の頭を優しく撫でた。

「ふふ、行ってらっしゃい」

そんな甘い声で。

「っ…行ってきます!!」

耐えきれなくなって大声で返すと私はそのまま家を飛び出した。
病み上がりだから無理をするななんて言っておいて、無理をさせてるのは透さんじゃないのか。いつも通り家を出たらこんな走ることもなかったのに、恥ずかしさから私の足は止まらない。半ば転がるように階段を駆け下りて、バス停までの道を全力で駆けた。


***


「ミナちゃん、昨日はどうしたんだい?」

それは、常連のお客さんの何気ない一言だった。
ほとんど毎日来て下さるおばあちゃんだ。私の話し相手にもなってくれるし、もちろん本も買ってくれる。嶺さんともかなり長い付き合いらしく、嶺書房の常連さんの中でも古いお客さんだそうだ。

「昨日は風邪で寝込んでしまっていて…フラフラだったのでお休み頂いたんです。おばあちゃんも風邪には気を付けてくださいね」
「うん、それは嶺さんからも聞いたよ。けど、ミナちゃん昨日駅前にいなかったかい?」

え、
私は目を瞬かせた。どく、と胸が嫌な音を立てる。

「…駅前…?」
「うん。声をかけようとしたんだけど、人混みに紛れてすぐ見えなくなってしまって…。…でも、そうよねぇ。ミナちゃん風邪で寝込んでいたんだもんね。人違いだったのかねぇ。私の見間違いかね」

はて、と首を傾げるおばあちゃんを見ながら、私は昨日の沖矢さんの言葉を思い出していた。
ミナさん、先程駅前にいらっしゃいませんでしたか。…沖矢さんは昨日スーパーで会った時、真っ先に私にそう言ったのだ。挨拶もなしに、まずそこを確認したのだ。
昨日は私も頭がぼんやりしていて沖矢さんの言葉の意味もよく理解出来ていなかったけど、おばあちゃんの言葉で背中が震えた。
沖矢さんと、おばあちゃん。接点のない二人が、駅前で私を見たと口を揃えて言っている。そんなことが、あるのだろうか?
私は昨日寝込んでいて、スーパーまで外出はしたものの駅の方には一切近付いていない。ならば、二人が目撃した私というのは…一体誰なんだろう。ただのそっくりさん?世界には自分にそっくりな人が三人はいると言うから、その可能性もゼロとは言えないけど…米花町という狭い範囲で、そうそう有り得ることなのだろうか。

「それじゃあミナちゃん、お大事にね」
「…あ、ありがとうございました」

購入した本の入った袋を大事そうに抱えながら、おばあちゃんはお店を出ていった。それに曖昧な声を返しながら、私はじっとりとまとわりつくような嫌な予感に眉を寄せる。
ドッペルゲンガー。考えて、首を振る。
ただ背格好が似ていただけかもしれない。人混みで見かけたのなら、おばあちゃんの言った通り見間違いの可能性は高い。

「…気にすること、ない…よね」

そもそも気にしたってわかることではないし、考えても答えが出る話でもない。大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。
私の代わりに死ね。
夢の中で聞いた声が、私の耳元で囁いたような気がした。


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