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「力を貸して欲しいんだ。…君と、阿笠博士に」

数日前、安室さんから閉店後のポアロに呼び出された。オレと安室さん以外誰もいない店内で、安室さんは重々しい声でそう切り出したのである。
薄暗い店内でカウンター席に座ったオレと、カウンターを挟んだ向こう側にいる安室さん。彼の顔はどこか思い詰めたような、それでいて強い光を瞳に湛えていた。
オレの知る安室透…降谷零という男は、基本的に何でも出来て実力があるからこその余裕があって、そうそう追い詰められることもないような…端的に言うと、強い人、だった。先日の無人探査機落下の事件の時は相当に追い詰められた状況だったけど、そんな中でも安室さんは瞬時に解決策を考え続ける冷静さと精神力がある。一手封じられたらまた違う一手を。それが封じられれば、また別の一手を。そうやって、次へ次へと思考を働かせてはやがて決め手を見つけていく、そんな人だ。
だからそんな安室さんが、重々しい声で改まってオレに協力を求めるというのは、正直予想していなかった。

「…何かあったの?」

出されたオレンジジュースには手を付けずに、オレは少しだけ眉を寄せた。
聞きながら愚問だなと思う。何も無ければ、安室さんがこんなことを言うはずもないのだ。

「君も知ってるんだろ?ミナさんにそっくりの人物のこと」
「…知ってるよ。何回か会って話もしてる」
「その人物に、ミナさんのことを話したりは」
「するわけないよ。ただでさえミナさんと見分けがつかないのに、ミナさんの情報を与えてしまったら…それこそ、本当にドッペルゲンガーの出来上がりだ」
「…そうだね、君の言う通りだ」

安室さんは小さく息を吐いて視線を落とすと、ひとつ頷いた。それから、口を噤んでじっと視線をカウンターの上に向けている。…カウンターを見てるわけじゃない。彼の脳内は今もいろいろと考えているはずだ。
安室さんは、力を貸して欲しいと言った。オレだけじゃなく阿笠博士まで、だ。それの意味するところはひとつしかない。

「博士に、何を作ってもらいたいの」

そう問えば、安室さんは息を吐きながら苦笑した。

「全く末恐ろしいね、君は」
「博士の名前を出すなんて、それしかないでしょ。…何が必要なの?ミナさんのそっくりさんの話を出したってことは、もちろんそれに関係してるんだよね。彼女は何者なの?彼女の狙いは?」
「ストップ、コナン君。…僕だって、そう一気には話せないよ」

説明もなしにただ協力を求められているというわけではないらしい。…安室さんの様子から察するに、簡単に話せる内容でもない、ようだけど。
何があったのか、今どういう状況なのか。きちんと話を聞かせてもらえないと、オレだって納得はできない。

「じゃあ、ひとつずつ聞くよ。…何があったの」
「…そうだね、まずはそこから話すべきだ」

安室さんは顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。
それから、今回の事の次第を話し始める。

「結論から言うよ。ミナさんにそっくりの女性は組織の人間だ」
「……、」
「末端だからコードネームはない。ただ実力は確かで、次期幹部候補と期待されていたみたいだよ。幹部との面識はなかったようだから、僕も知らなかった」
「…じゃあ、あの人がミナさんに酷似してるのは整形?」
「いや、それは元から。…世界には自分と同じ顔の人が三人はいると言うしね。僕も色々調べて見たけど、本当にたまたま偶然のことみたいだよ」

…確かに、オレと怪盗キッドもよく似ているようだし…全く無いとは言い切れないけど。ミナさんにそっくりのあの人が、組織の人間。灰原が言った通りだった。灰原は、「多分幹部じゃない」と言ったのだ。その言葉の通り、彼女は組織の末端だった。
…だったら、数日前にミナさんがジンを目撃したのもそれに関連している?

「彼女は先日組織の任務に失敗してる。そのまま大人しくしていれば良かったものを、ジンの周りを嗅ぎ回っていたらしくてね。彼の車から盗聴器が見つかったんだ」
「盗聴器…、」
「ジンは彼女の顔を知らなかったけど、自身の車に近付く女と接触してる。その直後ジンは車から盗聴器を見つけた。彼女の顔を知ったジンは、彼女を始末すると決めたんだ」

安室さんのその言葉に、嫌な予感がした。ジンの車に接触したという点では、ミナさんも当てはまる。
そもそも、組織の人間である彼女がミナさんに成り代わろうとしているのは恐らく間違いない。それは何の為?彼女がミナさんに成り代わったら、本物のミナさんはどうなる?言うまでもない、身代わりになってジンに殺される。
でも、じゃあ。彼女は一体どこで、自分と全く同じ顔であるミナさんのことを知ったんだ?

「…安室さん、これは、ボクの推測でしかないけど。ジンが接触したのは…その組織の女性じゃなくて…ミナさん本人なんじゃ、ないかな」

盗聴器を仕掛けた後、彼女がまだ傍にいたとしたら。車に近付くミナさんに気付いて身を隠し、ジンとミナさんの接触を見ていたとしたら。
自分と同じ顔の女がジンと接触して、その後に盗聴器がバレて自分が始末されることになったてしても…最高の身代わりの存在を目の当たりにしていたら。
安室さんはオレの言葉を聞きながら、それでも慌てたりすることはなかった。…と言うよりも、全て知っているかのような表情だ。
…それもそうか。この人は組織の情報屋として動いているんだ。そのくらいの情報、いくらでも仕入れられるのかもしれない。

「始末しろとジンに言われてね。役目が僕に回ってきたんだ」

思わず息を飲んだ。一気に血の気が引いたのがわかる。
安室さんが、始末をする。…当然その組織の女性をだろうけど、でもそれは。
…例え別人だとわかっていても。大切な女性の顔をした人を殺す、ということだ。想像してぞっとした。それはあまりに残酷なことだ。

「…ジンは、その組織の女性とミナさん…同じ顔が二人いるって、知ってるの?」
「いや、知らないはずだよ。…疑わしきは罰する、それがジンのやり方だ。ミナさんの存在がバレたら、二人とも始末しろと彼なら言うだろう」

疑わしきは罰する。…怪しい動きをしたら、容赦なくジンに殺されるんだろうな。
オレが視線を落とすと、安室さんは「だから、」と言葉を繋げる。その声に顔を上げて、強い安室さんの瞳を見つめた。

「力を貸して欲しいんだ。僕は彼女を殺すつもりは無い。何とか助ける方法を考えてる」

安室さんとしては、ジンがミナさんの存在に気付く前に片を付けたいんだろう。上手く始末したことにして、このまま忘れられるように。
組織の女性はきっと公安の監視下に置かれて保護されることになる。末端だと言うし幹部であるバーボンよりも知っていることはないだろうけど、何か組織の壊滅への手がかりも見つかるかもしれない。何より、殺されるとわかってる人を見殺しにするなんてことは絶対に出来ない。
ならばオレの答えはただひとつだった。

「本題に移るよ。…博士に作ってもらいたいものって、なに?」


***


頭の奥がじんわりと痺れていた。この感覚は以前にも経験したことがあるなぁなんて思いながら身動ぎ、軋んで痛む体に呻き声が漏れる。呻き声と言っても、乾き切って張り付いた喉からは掠れた吐息のような音しか出ない。
…この感覚は、いつだったっけ。えぇと、確か…あぁ、そうだ。以前誘拐された時と、同じ。あの時も何かの薬品を嗅がされて…。…そこまで考えて、自分が自分と同じ顔の女性に薬品を嗅がされたのを思い出す。そうだ、私、蘭ちゃん達とお買い物に行ったんだった。帰り際にスマホがないことに気付いて、トイレに置き忘れたんじゃないかって世良ちゃんに言われて、探しに行った。スマホを見つけてそのまま帰ろうとした時に、その人に会ったんだ。
私と同じ顔。同じ声。服装だけが違っていて、彼女は黒い服を着ていた。彼女は一体何だったのか、考えようとするけど頭は上手く回らない。
…手は…動く。足も、動く。瞼はまだ開けられない。けど、腕も足も何かで縛られてはいないようだった。埃っぽい床に寝ていることはわかるが、ここは一体どこなんだろう。
もう少し時間が経てば、目も開けられて動けるようになるだろうか。

「よぉ、目が覚めたか」

低い男性の声がした。男性の声は反響していて、どこか広い場所にいるんだということだけわかる。
…今のは、私に言ったんだろうか。刺すような緊張感がじわりじわりと体の奥の方から湧き上がる。
返事をしないと、と思いながら瞼にぐっと力を込める。重たい瞼を押し上げれば、黒い革靴が視界に入った。一人じゃない、二人いる。細身の足と、少し太いがっしりとした足。どちらも男性のものだろう。

「意識が戻ってんならとっとと答えろ。お前、アニキの周りを何で嗅ぎ回ってやがった?」

さっきとは違う声。何を問われているのかよくわからず、痛む体を動かして仰向けになった。ゆるりと視線を上げれば…真っ黒な服に身を包んだ男性が、二人。片方の男性には見覚えがあって、思わず小さく息を飲んだ。
長い銀髪。黒い帽子から覗く刺すような鋭い瞳。…黒いポルシェの持ち主の、男の人。初めて会った時の恐怖を思い出して無意識に体が震えた。怖い。

「おい。聞こえてんだろ、答えろ」
「……あ、」

掠れてざらざらした酷い声だ。息を吸ったら埃を吸い込んでしまって咳き込んだ。それと同時に、強く腹部を踏み潰されて体が強張る。痛みと苦しさに吐き気すら覚えながら、私は男性を見上げた。
…サングラスの男性だった。顔はよく見えない。

「もう一度聞く。アニキの周りをなんで嗅ぎ回ってやがった?」
「……あに、き、」

問われても、考えても、やっぱり私にはその言葉の意味すらよくわからない。アニキって誰のことだ。嗅ぎ回ってたって?何か言わなければと思うのに、何を言ったらいいのかもわからない。
ぼう、っとしていた。多分まだ私は意識がはっきりとしていなくて、判断能力も低下していたんだと思う。
ガチャ、という音がして、次の瞬間パシュンという音とともに腕に燃えるような痛みが走った。

「──────ッ!!!」

喉の奥から引き攣れるような声が上がった。
不明瞭だった視界もぼんやりとしていた頭も、激痛に目を覚ます。強すぎる痛みに視界はちかちかと明滅した。一体何が、と思いかけて、銀髪の男性の手に握られた鈍く光る黒いものに気付く。

「少しは目が覚めたか」

痛い。痛い。痛い。
どうして、何で。混乱する頭を必死に動かして、私は理解する。
拳銃を握ったこの男性。やっぱりとても危険な人だった。普通の人ではなかったんだ。沖矢さんやコナンくん、哀ちゃんが心配してくれていたのは、この人のことを知っていたから?こんなに危険な人だと、彼らは知っていたんだろうか。

「ッ、あ、あぁあ…っ」

拳銃の先は変わらず私に向けられている。
きっと私は、殺される。

「ウォッカ、自白剤を用意しろ」
「了解」

自白剤、という言葉にびくりと体が竦んだが、それよりも私はサングラスの男性がウォッカと呼ばれたことに目を見開いた。
お酒の名前。キュラソーさんから始まり、シェリー、ジン、スコッチ…バーボン。それは全てお酒の名前で、人の名前だった。そしてこのサングラスの人が…ウォッカ。
東都水族館で、キュラソーさんが「ジンが来ている」と哀ちゃんに言った時、彼女はさっと顔色を変えた。まるで怯えるようなそんな顔をして。それはつまり…ジン、という人物が、恐怖を与えるような存在だということ。

「……、…じ、ん」

小さく呟くと、銀髪の男性が私に視線を向けて目を細めた。それからにやりと口元を笑みの形に歪める。

「答える気になったか?」

…あぁ。この人が…この銀髪の男性が。ジン。
哀ちゃんが怖がっていた…危険な人。

「アニキ、自白剤の用意が出来やした」
「やれ」

私の腹部から足をどかして、サングラスの男性が私の傍にしゃがみ込む。その手には注射器が握られていて、呼吸さえ忘れるほどの恐怖に私は逃れようと体を動かす。

「や、っ…やだ、」
「大人しくしな。お前が悪いんだぜ、任務に失敗した挙句アニキの周りを嗅ぎ回ったんだからな。素直に吐けば、せめて苦しまずに逝かせてやるが?」

素直にも何も、私は何も知らない。答えられることなんてない。何もわからない、わかることなんてない。
どうして、なんで、と声に出さずに叫ぶ。苦しい。痛い。怖い。いろんな思いや感情がぐちゃぐちゃで、私は気付けばボロボロと涙を零していた。
嫌だ。死にたくない。助けて欲しい。わからない。

「ジン待って!」

注射針が私の腕に触れた時、空気を割く女性の声がした。


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