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今度は、なんだ。
女性の声だ。それと、足音。…一人分の足音じゃない。二人…三人いる?反響していてよくわからない。ただ、その足音はジンとウォッカの背後から聞こえてくるようだった。尚更、この二人が影になっていて何も見えずわからない。
二人は足音の方を振り向く。それと同時に、

「…ベルモット」
「ベルモット、そいつは…」
「えぇ、そうよ。同じ顔…その子を殺す前に、この子のことも調べたらどうかしら」

ベルモット…またお酒の名前だ。お酒の名前には意味があったんだな、なんて思いながら、聞き覚えがある女性の声に目を細める。女性の名前が…ベルモット。しっとりとした、少しハスキーでセクシーな声。どこで聞いたんだったか、痛みで上手く思い出せない。思い出せそうな時になって固まりかけたものが霧散する。どくどくと撃たれた腕が痛み、熱に気がおかしくなりそうだった。
どさ、という音がして、誰かが倒れ込んだだろうことがわかる。…同じ顔。女性の声はそう言っていた。ゆるりと視線を動かせば、床に蹲りながら唇を噛み締める女性の姿があった。手足は私と同じく縛られていない自由な状態だけど…体を殴られたのか、どこかを庇っているような動きをしている。
そして、女性が着ているものには見覚えがあった。だって、それは…蘭ちゃん達とショッピングをしている時に、私が来ていた服だ。私が着ていた服のはずだ。
それから自分の体に視線を向けて、自分が真っ黒いワンピースを着ていることに気が付いた。…気を失ってから…服を、入れ替えたのか。私の服は彼女が着て、彼女が着ていた黒のワンピースは私が着て。
トイレで私が気を失って、そこから服を入れ替えたとしたらその後のことはなんとなく想像がつく。
そっか。
あの女性は…私として、佐山ミナとして…成り代わろうとしたのか。蘭ちゃん達とも合流して素知らぬ顔で帰ったのかな、私の振りをして。
…何でそんなことをするんだろ。変なの。
考えるのも億劫になって、投げやりなことを思いながらゆっくりと瞬きをする。

「そもそも彼女の始末は、僕がやることになっていたはずですよね」

聞こえた声に、ぼんやりと霞みがかっていた意識が一気にはっきりとする。
…あぁ、おかしいな。痛みで私、頭までおかしくなってしまったのかも。こんなところで聞こえるはずのない声だ。いつも聞きたいと思っている声。それと同時に、今この場にはそぐわない声。…感情なんてない、冷たい声だった。
私の知っている声とは違う。優しくて暖かくて、私の大好きなあの人の、

「バーボン、お前がなかなか動かねぇから悪いんだぜ。幹部の座を狙った奴がこの女の居場所を俺のとこに伝えてきたんだ」
「その幹部の座を狙っていた奴、とやらは?」
「俺相手に交渉を持ちかけてきたから排除した」
「…怖い怖い」

バーボン、って。そのお酒の名前も、人の名前として聞いたことがあった。それは…あぁ、そうだ。雨の日にあの不思議な女の人が電話で言っていたのだ。ハァイ、バーボン。あの日の声が浮かんで、それと共にベルモットと呼ばれていた女性の声と一致する。
無意識のうちに吐息が震えていた。どういうことだ。何が起こっているのか。わからないのに、わかりたくないのに、目の前で答えが少しずつ姿を現す気がする。
やめてほしい。私は知らないままでいいのに。
かつ、かつ、と足音がする。視線の先の…私と同じ顔をした彼女が小さく呻きながら顔を上げる。私の位置からは女性の前に一人の男性が立ったことしかわからない。顔は見えなかった。けれど彼女は男性を見上げて…くしゃり、と顔を歪めたのだ。

「……どうして、ですか。…どうして…あなたが、私を……」

震える声は、今にも掻き消えてしまいそうなほど弱々しかった。私はそれをただ滲んだ視界でぼんやりと見つめていた。

「さぁ。どうしてでしょうね」
「…私は…殺されるんですか、」
「えぇ、それが僕の役目ですから」
「…死にたくない、…死にたくないです……!」

泣きながら命乞いをするその人は、私の姿でもあるんだろうななんて思う。顔が同じで声が同じで区別もつかないなら、私と彼女の違いってなんだろう。
どちらが、どちらでも。…変わらないんじゃないか、なんて。

「ジン。後は僕に任せてくれますよね」
「ふん…好きにしろ」

ジンとウォッカが、私の前から動いて視界がひらけた。それと同時に、また足音。そうして私の視界に入ったその人に…あぁ、どうして、と思う。
どうしてと思うのに、驚きは感じなかった。だってなんとなく、予想していた。…彼じゃないかと。

「…とお、る、さん」

声は掠れて出なかった。ほとんど吐息のそれは、果たして彼に届いただろうか。
冷めた目で私を見下ろす彼はいつもの彼とは全く比べ物にならないような別人の表情をしていたけど、それでも私はきっと透さんを間違えたりしない。この人は、私と一緒に生活している…安室透さんだ。
そして、透さんが…バーボン、だったのか。
彼は私を見つめて一瞬眉を寄せるも、すぐに視線を剥がして拳銃を構える。
シルバーで小振りの拳銃。その銃口は私に向けられ…それからゆっくりと、もう一人の彼女へと向けられた。
彼は、始末と言った。彼は私達を殺すのだろうか。彼が、そんなことをするのだろうか。

「バーボン、もういい。面倒だ、両方殺れ」
「…疑わしきは罰する…あなたの理念は理解していますが、そう急くこともないでしょう」

ジンが鼻で笑った。それを見たもう一人の私が、バーボンの足元に縋り付く。

「あの、あのっ!私何もわからないんです…突然連れてこられて、どうしてこんな目に遭っているのか…お願いします、助けてください…!」

そう。それは、私の思いだった。
どうしてこんなことになっているんだろう。私は一体、何をしてしまったんだろう。こうならずに済むために、私は何をすれば良かったのか。何がいけなかったのか。

「喚くな。どうせ二人とも死ぬ。…バーボン、早くしろ」
「…やれやれ、せっかちな人だ」

バーボンがゆるりと肩を竦めたタイミングで、視界の端でもう一人の私が動いた。
素早く懐に腕を入れ、それを抜きざまにジンへと向ける。その手にあるのは…鈍く光る黒い拳銃。その銃口は真っ直ぐにジンに向けられ、瞬間。
ぱぁん、という銃声が響き渡る。

「────────、」

ぐらり。
ゆっくりと体を揺らして倒れ込むのは…ジンではなかった。
彼女が…私と同じ顔の女性が、額から血を流しながら床に倒れ込んでいく。不思議とスローモーションのように見えるそれを、私は。
──私は、瞬きもせずに。呼吸を止めて見つめていた。

視界に広がる赤。流れ出す命の色に頭が真っ白になる。
彼女は死んだのか。床に広がっていく血溜まりに心臓が大きく跳ねるのを感じる。

「ちょっと、ジン!!」
「お前が殺らねぇなら俺が殺る。いいな、バーボン」
「彼女は僕の獲物ですよ。手を出さないでください」

ベルモットと、バーボンと、ジン。三人のやり取りを聞きながら、彼女が倒れた拍子に私のそばに滑ってきたそれをじっと見つめる。
…彼女が握っていた、拳銃。震える手を伸ばして、その拳銃を掴む。ずっしりとした重さは今までの人生で握ったことのない重さ。本物の銃って、こんな感じなんだ。
痛む体に鞭打って、私はゆっくりと体を起こす。そんな私に気付いたバーボンが振り向き、大きく目を見開いた。

「何を、」

拳銃を握って、その銃口をバーボンへと向ける。
痛みと恐怖に手は大きく震えて、まともに狙いを定めることも出来ない。血に濡れた手は滑るし、正直取り落とさないようにするので必死だった。
拳銃の使い方なんてもちろんわからない。確か拳銃って、セーフティがついていて…それを何とかしないと引き金を引いても撃てないんだったか。所詮映画程度の知識しかない。
涙は止まることを知らず、後から後から溢れてくる。ぼろぼろと涙を零しながら、せめてもと震える吐息を噛み締める。

「それで、どうするつもりです」

ゆっくりと銃口を私に向けるバーボンの声は、酷く静かだった。例えるなら、凪いだ水面のような。
静かに私を見据えるバーボンと視線を絡めて、この状況が初めてでないことに気付く。
こないだ見た夢。熱を出して最悪の目覚めだった時に見た悪夢で、私は目の前の誰かに拳銃を向けていた。怖くて悲しくて、冷たい夢だった。
あの夢で私が銃口を向けていたのは、バーボン。…透さんだったんだ。まさか正夢だったなんて、と笑い出したくなる。

「拳銃もまともに握れない。セーフティの解除すらわかっていないようですね。それで?あなたは、それで僕を撃つと?」

撃てるはずなんてないと、彼ならわかっているはずだ。
私に透さんを撃つことなんて出来ない。私に拳銃のことなんてわからない。例え撃てたとしても、震える私の手ではきっと狙いも定まらずに外してしまうだろう。
バーボンは変わらず私を見据えたまま、拳銃の横についていた小さなレバーを動かした。きっとあれが、セーフティ。冷たい視線を受けながら、ゆっくりと息を吐き出す。

あぁ、こんな透さんは見たことがない。怖いのに…いつもとは違う空気を怖いと思うのに、それでも私はやっぱりこの人が好きなのだ。
そう言えば…もしかしたら沖矢さんは、全てを知っていたのかな。いつか沖矢さんが私にした質問は、妙に的を得ているような気がする。
安室透という人物が虚像だったら、どうするか。例えばそれは、悪かもしれない。正義かもしれない。或いは両方かもしれない。
私はなんて答えただろう。悪も正義も理由があるんだと思う…確かそう答えたはずだ。
そう。…透さんは、意味が無いことはしない人。彼が悪だと言うのなら、きっとそれにも理由がある。それでも私は、この人を嫌いになることなんて出来はしない。

「…あなたを、…撃つなんて…でき、ません」
「そうでしょうね」
「でも、」

バーボンの持つ拳銃と私の手の中にある拳銃。詳しい人が見れば全く別物なんだろうけど、素人の私には区別なんて色くらいしか付けられない。ならばこの拳銃のセーフティは、きっとここだ。拳銃の横の小さなレバーを下へと引き下ろす。瞬間、バーボンの目が細められる。
この拳銃は、透さんを殺すためにあるんじゃない。この場を切り抜けるためにあるわけでもない。
私は拳銃の銃口を、自分の頭へと突きつける。いくら震えた手でも、この距離ならさすがに外すことは無い。

「何の真似です」
「あなたに、…私は、殺させない」

透さんの手を汚させるわけにはいかない。透さんに私の命を背負わせてしまうくらいなら、私の命の使い方は私が決める。
夢の中の私は、彼になら何をされてもいい、と思っていた。でもそれは、彼のことを何も考えていない私の勝手な考えだ。バーボンが彼の本当の顔ではないことくらい、私にだってわかる。私を騙そうとしたって無駄なことだ。

「ごめんなさい、私…あなたに、騙されるわけには、いかないんです」

いくら悪を演じようと、透さんは透さんだ。私の為に私を騙そうとするのなら、私はそれに流される訳にはいかない。それで傷つくのは私じゃない、透さんだ。彼の思い通りになんて、なってやらない。だって私は、彼のことが好きで…私だって、彼のことを守りたいから。
守られるだけの私では嫌だとずっと思ってきた。ならばこれが、私なりの、彼の守り方だ。

どうか傷付かないで。

「さよなら、ですね」

呟いて、引き金に指をかける。
最後に見るのが彼の焦った表情っていうのは、なかなか見れないものを見れたと喜ぶべきなのかな。
銃声と同時に体に衝撃が走る。
私の意識が急速に閉ざされていく。暗く冷たい闇の底へと放り投げられるような感覚に、ゆるりと目を閉じる。

私は、彼を守ることが出来たんだろうか。


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