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ミナさんは、強い人だと思う。
数日前に灰原とミナさんのことについて話をした。灰原にミナさんのことをどう思うか、と尋ねたら、灰原は「お人好しのくせに頑固、気はあまり強くないけど自分が正しいと信じたことに真っ直ぐ突き進んでいく人」なんて言っていたっけ。
だからきっと、こうなってしまったのも…ミナさんにとっては信じた先の結果、だったのかもしれない。

──────────

「失礼します」

おっちゃんがドアに向かってそっと声をかけて、蘭と三人でドアを潜る。病室は静かだが、ピ、ピ、という心拍の機械音がする。
病室の奥に進むと、ベッドの傍には安室さんが座っていた。…基本的にあまり眠らずに仕事をしても飄々としてる人だけど、今の安室さんの顔色はあまり良くなく、わかりにくいが目の下に薄らと隈も浮かんでいた。…この人、ほとんど寝てないんじゃねぇだろうな。トリプルフェイスで忙しい生活を送っているはずだが、そんな中でミナさんに付きっきりだとしたら…考えてゾッとする。いくらなんでも体を壊すんじゃないか。
それでもさすがなもので、安室さんは俺達に気付くと顔を上げ疲労を押し込めて、いつものように柔らかく笑う。

「毛利先生、蘭さん、コナンくん。こんにちは」
「安室さん、こんにちは」
「…どうだ、その…ミナさんの容態は」

おっちゃんの問いに、安室さんはほんの少しだけ困ったように笑って首を振る。

「…心拍、血圧、体温、どれも安定しています。担当医師が言うにはいつ目を覚ましてもおかしくないらしいんですが…」
「……ミナさん…、」

ベッドに横たわるのは、ミナさんだ。
酸素マスクをされ、点滴や機械に繋がれて眠るその姿は痛々しい。一見死んでいるようにも見えるけど、緩やかに上下する彼女の胸の動きがそれを否定していてほっとした。

「…園子や世良ちゃんや、ミナさんと…一緒に買い物をして、まさかその日に交通事故に遭うなんて…」
「大丈夫、…きっとすぐに目を覚ましますよ」

交通事故。それは表向きの話だ。
あの日何があったのかは、安室さん本人や協力したオレ、オレから話をした阿笠博士と灰原くらいしか知らない。ミナさんの怪我を交通事故で処理したという点を見ると、裏で公安も動いたんだろうが…その辺はオレも踏み込めない領域だ。

──力を貸して欲しいんだ。…君と、阿笠博士に

安室さんにそう言われて、阿笠博士に作ってくれと頼んだもの。それは、仮死薬だった。
安室さんの当初の計画はこうだ。ミナさんそっくりな組織の女がミナさんに接触する前に、ミナさんを一時公安の保護下に置く。そうして組織の女をまずは黒の組織に引き渡し、ジンの目の前で彼女を始末する…ふりをする。用が済んだ組織の連中はすぐ米花町から引き上げるだろうし、その頃合いを見計らってミナさんはいつもの生活に戻る。組織にいた女の身柄は公安が預かり、その後は然るべき処罰が与えられるか…まぁ、いろいろ予定していたこともあっただろう。
けれど、オレや安室さんが考えていたよりも組織の女の行動の方が早かった。ミナさんと入れ替わり、安室さんの前に佐山ミナとして現れたと言う。彼女が偽物だと気付いた安室さんは、彼女を拘束。ミナさんの身の危険を察知して、間一髪ミナさんがジンとウォッカにやられそうになっていた所に駆け込んだ…。…どうやらその時ベルモットも手を貸していたみたいだが、ベルモットが何を考えているかはオレにもわからない。組織の女も、拘束される時はもちろん最後まで佐山ミナである姿勢を貫いたという。
安室さんに渡した仮死薬はひとつだけ。弾丸の形をしていて、普通に拳銃に込めて撃ち込むことで、約十分間だけその人を仮死状態にすることが出来る。弾丸に血糊までは仕込めないから、そこは安室さんの方で上手くやってくれと話していた。
安室さんは組織の女もミナさんも両方を助けるつもりだったみたいだけど、その予定も狂ってしまった。最後の最後、女が隠し持っていた拳銃でジンを狙い、そのままジンに撃ち殺されたんだそうだ。その流れでミナさんも殺されそうになり…やむなく、安室さんはミナさんに仮死薬の弾丸を撃ち込んだ。

「…安室君も、あんま気を落とすんじゃねぇぞ。ミナさんが目を覚ました時、そんな情けねぇ顔見せるわけにはいかねぇだろ」
「そんな顔してます?…でも、ありがとうございます。仰る通りですね」
「安室さんも、ちゃんと休んでくださいね。…あまり、寝てないんでしょう?」
「蘭さん、ご心配ありがとうございます。僕なら大丈夫ですよ」

どう見ても大丈夫そうには見えねぇな。
あんまり長居するのも悪いから、と病室を出ていくおっちゃんや蘭に続く。安室さんは何も言わずに俺たちを見送るだけだった。
俺が安室さんから聞いているのは、結局組織の女に使うはずだった仮死薬をミナさんに使い、その後交通事故として処理したというところまで。ジンやウォッカに手酷くやられたであろうミナさんの体には、仮死薬を使った際の傷以外にも痣や擦り傷、腕には弾痕もあるようだった。そんな極限の状態で仮死薬を使ったなら確かに目を覚ますのに時間がかかることも予想できる。けれどそれは数時間が精々だ。薬の効果は灰原のお墨付き。失敗なんてことは有り得ない。
だが、ミナさんが入院してもう三日目。いくらなんでも遅すぎる。安室さんはまだ、きっと何かを隠している。
廊下を入口の方に向かって進み、角を曲がったところでオレははたと立ち止まった。

「蘭姉ちゃん、ごめんなさい!ミナさんの病室に、忘れ物しちゃったみたい!」
「え、えぇ…?!コナン君、忘れ物って…」
「取りに行ってくるから、先に行っててー!!」

オレを呼び止める蘭の声を背中に受けながら、そのまま病室へと引き返す。
病室のドアを開けて中に入れば、安室さんはオレが戻ってくることを予想していたかのような表情で笑った。

「…戻ってくるような気がしたよ」
「安室さん。…ミナさんに、何があったの?」
「こないだの説明じゃ、お気に召さなかったかな」
「安室さん。今回の件について、ボクは安室さんの協力者になった。知る権利はあるんじゃない?」

安室さんは、何かに酷く傷付いているようだった。押し込めていてもいつもの覇気がないことくらいはわかる。そしてミナさんは目を覚まさない。何も無いなんて方がおかしな話だ。
オレが安室さんを見つめたまま口を噤むと、安室さんはやがて深い溜息を吐いた。

「毛利先生や蘭さんにはなんて言ってここに戻ったんだい?」
「忘れ物をしたって言った」
「なるほど。その言い訳だと、十分が限界だな」

安室さんはベッドサイドに立て掛けてあったパイプ椅子を広げ、自分の座る椅子の前に広げてくれる。
話をしてくれるんだと理解し、オレは歩み寄ってその椅子に腰を下ろして安室さんを見上げた。

「…結論から話したらいいのかな。ミナさんが目を覚まさないのは、心因的な要因があるんだと僕は思ってる」
「…心因的な要因?」
「ミナさんはね、自殺を選ぼうとしたんだ」

安室さんの言葉に息を呑む。
正直想像がつかないし、ミナさんが自殺を選ぶなんてにわかには信じ難い。そもそも、自殺をしようとした理由がわからない。

「…自殺なんてどうやって」
「組織の女が手放した拳銃。それがミナさんのところまで転がったんだ。僕が気付いた時には、ミナさんはもう銃を構えてそれを僕の方に向けていた」
「…安室さんは、バーボンとして対峙した…んだよね?」
「ああ。一度彼女の恐怖を煽って、拳銃を手放したところで近付いて仮死薬を撃ち込むつもりだった。予定が狂って、彼女が引き金を引く前に仮死薬を撃ち込まななければならなくなったから…おかげで血糊工作には手を焼いたよ」

仮死薬の弾丸では出血するような威力はない。ジンにミナさんの死を信じさせるのは骨が折れたことだろう。…まぁ、二人とも生きているということは、上手くやったということだろうけど。
間一髪だった、と安室さんは言う。

「ミナさんは、組織の女が撃ち殺されるところを目の当たりにしてる。それがどの程度のストレスかなんて計り知れない」
「それが、心因的な要因だって安室さんは考えてるの?」
「あぁ。…拉致されて、ジンやウォッカの尋問を受けて…自分も撃たれた上に、更には人の死を目の当たりにして」

いや、尋問じゃなくてもはや拷問だな、と安室さんは呟いた。
…きっと、安室さんと対峙したことも彼女の負担になったんだろう。ましてや安室透としてではなく、黒の組織の幹部であるバーボンとして対峙したんだから。
…そして安室さんもきっと、心に大きなダメージを受けているんじゃないだろうか。別人とわかっていても、ミナさんと同じ顔をした人間が目の前で殺されたのだ。自分の身に置き換えて考えてみて背中が震えた。

「阿笠博士が作ってくれた薬を疑ってるわけじゃないよ。君達を信頼してるし、僕も君達に委ねるつもりで頼んだんだ、そこは勘違いしないでくれ」
「大丈夫、わかってるよ」

自分のことで精一杯だろうに、安室さんはオレ達のことまで気にかける。…この人も、難儀な人だ。タイプは違うのに、安室さんとミナさんは似ているなんて感じてしまって苦笑した。
安室さんは視線をミナさんに移し、そっと手を伸ばす。彼女の白い頬に触れて、指先でそっと確かめるようになぞる。神聖な儀式のようにも感じられて、オレはじっとその光景を見つめていた。
やがて安室さんは小さく息を吐いて立ち上がる。

「…喉が渇いたから何か買ってくるよ。コナンくんも飲むかい?」
「ううん。そろそろ戻らないと蘭姉ちゃんが心配するから。でも、安室さんが飲み物を買ってくるくらいの時間はミナさんのこと見てるから、行ってきなよ」
「ありがとう。…それじゃ、頼んだよ」

安室さんは軽くオレの頭を撫でてから病室を出ようとして…ふと、ドアに手をかけたまま立ち止まった。
どうしたのかと目を瞬かせたら、彼は肩越しに振り返って小さく笑う。少し困ったようなその笑みに、オレはほんの少しだけ首を傾げた。

「名探偵の君ならわかるかい?どうして、ミナさんは自殺を選ぼうとしたのか」

そういえば、その部分に関しては不透明なままだった。安室さんの中では答えが出ているのかと思ったけど、そういうわけではなかったのか。

「…ミナさんは、何か言ってなかったの?」
「“あなたに私は殺させない”、“あなたに騙されるわけにはいかない”…そう言っていたよ」

あなたに私は殺させない?あなたに騙されるわけにはいかない?…言葉だけ聞くと、かなりきついというか…突き放すような言葉にも取れるけど。例えば、ただ殺されるのは悔しいからとか…バーボンを安室さんの一部として捉えたから、安室透という人物に騙されるわけにいかないとか…?でも、ミナさんがそんなことを安室さんに言うだろうか。…自殺を選ぼうとしたというところとも、なんだか繋がりにくい。さすがに安直な考えすぎると思って少し反省する。
安室さんは考え込むオレを見て小さく息を吐くと、緩く首を横に振った。

「…ごめん、忘れてくれ」
「安室さん」

部屋を出ようとする安室さんを呼び止める。
足を止める安室さんは振り向かなかった。

「…考えることを、やめちゃダメだ。ミナさんの言葉にはきっと意味がある。自殺を選ぼうとした理由があるはずだよ」
「………」
「ミナさんは、どこまでも安室さんに寄り添おうとするはずだ。自分が正しいと信じたことに真っ直ぐ突き進む人でしょ。信じた先の結果だったのかもしれない」

彼女が目を覚まさない限り、何を思って行動したのかの真相はわからないままだ。けれど、どうしてもオレにはミナさんが意味もなくとか…安室さんに不信感を抱いてとか、ヤケになったとか、そういう理由だとは思えない。
安室さんは立ち止まったまま、振り向かずにしばらく考え込んでいるようだった。さっきの問いかけは安室さんなりの弱音だ。この人でも弱気になることがあるんだな、なんてちょっと珍しく思う。

「ボクも考えてみるよ。ミナさんが何を思っていたのか」

だから安室さんも、考えることをやめないで。
思考が、人を支えることってあるんだ。考えて、考えて、考え抜いて、それが人を救うことだってあるんだ。
安室さんはオレの言葉に小さく息を吐くと、軽く振り向いて柔らかく目を細めた。

「…ありがとう、コナンくん」

安室さんが部屋を出ていくのを見送り、小さく息を吐いた。
…ミナさんが安室さんのことを大切に思っていたのは間違いない。そこはきっと覆らない。まずはそこを根本にして考えていかないと。
…まぁ、ミナさんが目を覚ましたら聞けばいいだけなんだけど。苦笑してベッドの方を振り返る。

「……、」

息を呑む。
ミナさんが目を開けて、焦点の定まらないぼんやりとした瞳を天井に向けていた。


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