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私、どうしてこんなところで寝てるんだろう。見覚えのない天井を見て、まず最初にそう思った。
動きたいのに動けない。体に力を入れようにも、まるで力の入れ方さえ忘れてしまったかのようで動かせず、唯一動くのは瞼と眼球だけだ。天井からゆるりと視線を動かすけど、見える範囲はそう多くない。でも私の腕に繋がれているらしき点滴を見て、もしかして病室にいるのかな、と思った。
どうして、ここにいるんだろう。私、どうしたんだっけ。
ゆっくりと瞬きをすれば、ようやく体の神経が働き出したのか聴覚が音を拾い始める。
機械の音と…それから、誰かが話す声。…男の人と、子供…だろうか。何を話しているのかまでは上手く聞き取れない。首を動かすことも出来ないので、誰かがいるであろう方向を向くことも出来ない。私はただぼんやりと、天井を見つめていた。
なんだか、長い夢を見ていたような気がする。優しくて甘くて、そしてとても…悲しい夢。夢の内容までは思い出せないけど、何故だか胸がつきりと痛んだ。
…あぁ、そうだ。仕事に行かないと。頼まれてた仕事が何件かまだ残ってるし、確か資料の提出期限も迫っていたはず。私じゃわからない部分もあるから、急いで確認して…やらないと。ひとつ仕事が終わったら、またすぐに次の仕事を頼まれる。大変だけど、皆喜んでくれるし、期待もしてくれてるから…頼りにされてるから。
…あぁ、もしかして私、倒れちゃったりなんかしたのかな。ここ最近あんまり寝る時間取れてなかったし、早出や残業も重なってたから…でも、そんなので倒れちゃってたとしたら情けないな。
私はもっと、もっと。期待されるだけじゃなくて、認めてもらえるくらいに…もっともっと、頑張らないといけないのに。
どうして、体が動かないんだろう。
頑張らなくちゃ、私を見てもらえないのに。

「ミナさん!!」

視界に、突然男の子の顔が飛び込んできた。
眼鏡の男の子。…多分、小学校低学年…くらいかな。ものすごく必死な形相でベッドにしがみついて、私の顔を見て声をかけている。

「ミナさん、わかる?!聞こえる?!」

誰だろう、この子。どうして私の名前を知っているんだろう。ねぇ、君は誰なの?どうしてそんな必死な顔で、私に声をかけてくれるの?いろいろと聞きたいのに、声は出ないし体も動かない。それをもどかしいと感じるような気力も、今の私には無いようだった。
男の子はベッドサイドから伸びるリモコンのようなものに手を伸ばし、ぐっとボタンを押し込んだ。…それ、もしかしてナースコールってやつかな。

「ミナさん、ボクの声が聞こえるなら、瞬きを二回して!」

男の子の声に再び視線を向ける。聴覚は問題ないし、男の子の声はきちんと聞こえている。私は男の子に言われた通り、ゆっくりと瞬きを二回した。それを見た男の子はこくりと頷く。

「待ってて、今安室さん呼んでくるから!」

あむろさん。
初めて聞く名前だけど、誰だろう。…担当医の先生のお名前、とかかな。
男の子はベッドから離れてしまった。足音が遠ざかってドアが閉まる音がしたから、多分そのあむろさんとやらを呼びに行ったのだろう。
…寝不足で倒れたなら…あんな慌てる必要なんてないだろうし。なんであの子はあんなに血相を変えていたんだろう。そういえば私、酸素マスクしてる。…こんなの、テレビドラマくらいでしか見たことがなかったな。
少し時間が経ったせいか、少し指先に力を入れてみたら緩く握り込むことが出来た。点滴は打ってもらったみたいだし、早いところ家に帰らないと。ゆっくりと腕を持ち上げてみれば、まるで重石でも付けられているかのように怠く、それでもなんとか酸素マスクを掴み口元から外す。たったこれだけのことなのに私の息は軽く上がってしまっていて、自分の体なのに訳が分からなくて眉を寄せる。
なんで、こんな。何かが変だと思いはしたけど、この訳の分からない状況から脱するのが先だ。ゆっくりと体を起こせば腕に鋭い痛みが走って思わず呻く。…怪我してるのかな、私。ずきずきと痛むけど、今は我慢できないほどじゃない。小さく息を吐いて、さて、と腕に付いていた点滴に目を止めて私は眉尻を下げた。点滴の外し方なんてわからない。このまま引っこ抜いてしまって良いんだろうか。…良いわけないだろうなぁ。でもこれがあると私はここから出ることが出来ない。…抜いてみようかな。無理矢理抜いても、きっと少し血が出るだけだろう。腕から伸びるチューブを掴み、一思いに引き抜こうとして…ぱし、と音がして、横から伸びてきた褐色の手に腕を掴まれた。
突然のことに思わず息を呑む。

「……何を、しているんです」

ゆっくりと顔を上げれば、そこにはさらりとゆれるミルクティー色の髪、褐色の肌を持つ男性が立っていた。…すごい、綺麗なブルーグレーの瞳。見惚れてしまうほどの超イケメンさんだ。見知らぬ人物の登場に怯む。その男性は、何だかとても怒っているような顔をしていた。
私の腕を掴む手の力は強く、ほんの少しだけ痛む。

「何をしているのかと聞いているんです」

きつく問いかけられて、びくりと肩が震えた。
…誰なんだろう、この人。突然現れた見知らぬ人に、どうしてこんな怒られなくてはいけないのか。視線を動かせば、彼の後ろにいたのはさっきの男の子だ。男の子は、私と男性のやり取りを気まずそうに見守っている。
…もしかして、この人が…あむろさん、なのだろうか。あの男の子はあむろさんを呼んでくると言ってこの部屋から出ていったし…。

「…あ、の……」

声を出してみれば、それは掠れてしまって酷いものだった。しゃべることもまともに出来ないなんて、本当にどうしてしまったんだろう。
おずおずと男性を見上げて、ブルーグレーの瞳を見つめる。
…なんだろう。怒っているのに、何かを押し込めたような…辛いのを我慢するような、そんな表情に見える。どうしてこの人がそんな顔をしているのか。
私には、よくわからない。
よくわからないのに、この人のそんな表情を見ていると…何故だか胸が強く痛んだ。

「…あなたが、…あむろさん、ですか」

酷い声で、それでもそう尋ねれば。彼は、大きく目を見開いて手の力を緩めた。
なんでそんな顔を、と思いながら男の子の方に視線を向けると、彼もまた目を見開いたまま驚いた表情をしている。
…私、今何か変なことを言っただろうか。名前を聞いただけ、だよね?

「ミナさん、」

男性が何かを言いかけた時、病室のドアが開いてお医者さんと看護師さんが入ってくる。バイタルチェックをするから一度男性は外に出てください、なんて言われていて、看護師さんに促されるまま男の子と男性は部屋から出ていった。
…そういえばあの男性も、私の名前を知っていたな。男の子も男性も、どうして私のことを知っていたんだろう。


***


バイタルチェックの際に、お医者さんや看護師さんにいろいろと聞かれたんだけど私にはよくわからないことばかりだった。自分の名前は言えるか、とか、年齢は、とか、その辺はなんとなく予想もしていたけど、これの使い方は?なんてボールペンを差し出されたり、文字の読み方を聞かれたり。しまいには、さっきの男性や男の子のことがわかるかい、とか。わかるはずもない、初対面だ。私が彼らのことはわからないと言うと、お医者さんと看護師さんは顔を見合わせて黙り込んでしまったりして。
なんと、私は交通事故に遭ったんだそうだ。全く記憶にない。更には記憶障害だと診断されて、私の混乱は最高潮である。
幸いにも骨も折れておらず体には異常が無いらしいので、すぐにでも退院して帰りたいことを伝えたらさすがにそれは無理だと言われてしまった。腕に大怪我もしてるんだよ、様子見も兼ねて数日は入院だと思っていてね、なんて言われて眉を寄せる。
そもそもどうして私は、ここにいるんだ。意識も記憶もハッキリしてきて、昨日のことも思い出せる。私は家に持ち帰った仕事をしていたはず。そのまま寝落ちたんだと思っていたら病院にいるなんて、想像さえしていなかった。
鎮痛剤を投与され、点滴も取り替えられて、結局私はまだベッドの上だ。せめて会社に連絡を、と言ったけど聞き入れてもらえなかった。
そもそも、記憶障害ってなんだ。ちゃんと私には記憶もあるし、何を忘れているかなんてわからない。別に不自由することを忘れている訳では無いようだし、それならきっと大した記憶ではないんだろう。
私、こんなところで何してるんだろう。ベッドに横になったまま窓の外に視線を向けてぼんやりと思う。…怪我が治って、退院して…その時、会社に私の居場所はあるんだろうか。確かに早出も残業もきつかったし、休日出勤もしんどいと思うこともあったけど…皆から頼りにされて期待されるのは嬉しかったし、多少の疲れは頑張ってる証拠だ。仕事は自分の居場所の確認みたいなものだった。
家族もいない。彼氏には振られて、仕事にかまけていたら友人とも疎遠になった。そんな私が帰れる場所なんて、あるのかな。

こんこん、とノックの音がした。首を動かしてドアの方に視線を向ける。

「…どうぞ、」

声をかけると、ドアが開いてさっきの男性が入ってきた。さっき酷く怖い顔だったのを思い出して身を竦ませるものの、今の彼からは先程の鋭さはない。病室に入ったところで私の方を見つめ、それから柔らかく微笑む。

「傍に行っても?」
「……どうぞ、」

私を怖がらせないように、と配慮してくれているんだろうか。先程急に腕を掴まれたのは怖かったし、一言一言聞いてくれるのは私としてもありがたいけど…。
…それにしても、改めて見ても驚くほどの美形。褐色の肌も色素の薄い髪も美しいと感じたし、目鼻立ちは整っていてこれは凄まじくモテるだろうな、なんて考える。
男性はベッドサイドの椅子に腰を下ろすと、改めて私を見つめた。

「初めまして。僕は、安室透と言います」

突然の自己紹介に思考が止まる。
…そうか。やっぱりこの人があむろさん、だったんだ。
ぽかん、と口を開けて安室さんを見ていたら、安室さんはくすりと笑って小首を傾げた。

「あなたのお名前は?」
「…え、あ…すみません、えぇと…、…私は、佐山ミナ、です」
「佐山ミナさん。もし良ければ、あなたのことをミナさんと呼ばせてもらえませんか」
「……それは…別に、構いませんが…」
「ありがとう」

安室さんはにこりと笑う。
困惑した私に気付いたのか、彼はゆったりと足と手を組んで小さく肩を竦めた。…そんな仕草も恐ろしい程に様になってしまう。何者なんだろう、この人。モデルさんとか芸能人でもおかしくないけど、そういう雰囲気でもない。

「まず、ご自身が交通事故に遭ったことは?」
「…先生から聞きましたけど…交通事故なんて、記憶にないんです。…昨日は家に持ち帰った仕事をやりながら、多分寝落ちしたはずなんですけど」
「なるほど」

答えると、安室さんはひとつ頷く。

「では、ご自身が記憶障害という説明は?」
「受けました。でも、そんな感じしないですし…忘れた記憶がどんなものかはわからないですけど、きっと忘れるくらいだから大したものではなかったんじゃないかなって」

記憶障害と言っても日常生活には支障もないし、おばあちゃんのこともおじいちゃんのことも覚えている。そもそも私の中で無くしたくない記憶なんて、祖父母のことくらいじゃないかな。元彼も、友達も、もう疎遠になってしまったし、きっと向こうだって私のことを忘れている。
けれど私がそう言うと、安室さんはすっと目を細めた。

「……それは…忘れた記憶を取り戻さなくても良いと?」
「え、…それはその、…はい」

彼の声が低くなったような気がして、少しだけ体が震えた。
でも、だって。…忘れてしまったものは、仕方がないじゃないか。記憶障害だと言われても、記憶を無くしていると言われても、今の私には「はぁそうなのか」くらいの感想しかない。別に困っている訳でもない。
なら、無理して記憶を取り戻す必要なんてないんじゃないか。思い出しても思い出さなくても、きっと何も変わらない。代わり映えのしない毎日を過ごしていたんだから。

「冗談じゃない」

安室さんが小さく呟いたのが聞こえて目を瞬かせる。
どういう意味だ、と少し眉を寄せれば、安室さんはゆるりと微笑んで言った。

「先程僕はあなたに初めましてと言いましたが」
「…、…?」
「初対面ではありません。僕はあなたのことをよく知っています」
「……え?」

初対面ではない?でも、こんなずば抜けたイケメンさんなんて一度見たら絶対に忘れないと思うんだけど。初対面じゃないと言われてもいまいちピンと来ない。

「…初対面じゃないって…ごめんなさい、よくわからないんですけど。…お友達だったとか?」
「いいえ。…いや、友人だった期間もありましたが」
「…どういう意味ですか?」

友人だった期間もあったって、それはつまり今は友人ではないということか。
ますます意味がわからずに首を傾げたら、安室さんは小さく息を吐いてその瞳を僅かに細め、真っ直ぐに私を射抜いた。
真剣な光を湛える瞳に、一瞬呼吸を忘れる。
安室さんはじっと私を見つめ…はっきりと言い放った。

「あなたとお付き合いをさせていただいている、安室透です。…以後お見知り置きを」



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