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コナンくんと蘭さんが帰った後、午後になってから安室さんはやってきた。昨日、明日また来ると言ったのは嘘ではなかったらしい。
私としては昨日あんなに気まずい思いをしたのだし、安室さんと一緒にいると苦しくなるから正直会いたくはなかったのだけど。そんな私を知ってか知らずか、安室さんは昨日の気まずさなど感じさせず、病室に入るなり柔らかく微笑んだ。

「こんにちは」
「…こんにちは、」

挨拶をされて、それにぎこちなく返す。私のぎこちない挨拶など安室さんは気にした様子も見せず、こちらに歩み寄るとベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
昨日と同じ位置。昨日と同じ距離。無意識のうちに緊張で体が強張るのがわかる。
…やだな。気を抜きたいと思うのに、この人を前にすると怯えのようなものを感じてしまう気がする。

「体の具合はどうですか」
「…腕の怪我はたまに痛みますけど、それ以外は別に…」

当然会話も弾まない。
安室さんに見つめられると居心地が悪くて、胸が軋むように痛くなる。ちくちく、ちくちく、内側からつつかれているような不快感。目を合わせていられなくて、私は視線を手元へと落とした。
…安室さんだって気まずくないはずがないのに、どうしてわざわざここへ来るんだろう。

「先程、あなたの担当医からお話を伺ってきました。腕の怪我次第にはなりますが、長くても一週間ほどで退院出来るそうです。早ければ三日ほどだと」
「…そうですか、」

私自身がお医者様から退院時期を聞くよりも、安室さんが先に聞いているというのは何故なんだろうと首を傾げる。…私には身内がいないし、安室さんは私の恋人だと言っていたし…もしかして身元引受人とかなのかな。知らない人が自分の身元引受人なんて違和感しかないけど、記憶が無いのだから仕方がないと諦める他ない。
それにしても、退院まで一週間。一週間も入院しなければならないと嘆くべきなのか、一週間で退院出来ることを喜ぶべきなのか。…どっちにしろ一週間は長すぎる。三日で退院出来るといいなとぼんやりと思う。

「…あの、私そろそろ会社に連絡をしたいんですけど、私のスマホがどこにあるのか知りませんか?」

今後のことも決めなくてはならないし、今現在会社で私の扱いがどうなっているかもわからない。スマホや会社の携帯にたくさんの通知が溜まっているのではないかと考えるとぞっとした。捌かなければ仕事は溜まっていく一方だ。せめて状況だけでも知れればと思うものの、私の所持品については誰も何も言ってくれない。教えてくれるのは交通事故に遭ったということと、無くした記憶に関する話だけ。そして、私が頼りに出来るのは…今のところ、この安室透さんしかいない。
問えば、安室さんは小さく息を吐きながら目を細めた。

「あなたには話さなければならないことがいくつもあります。ただいきなり話してはあなたも混乱するでしょう。もう少し落ち着いてから、と僕は考えています」
「…それは、私のスマホの行方に対する答えなんですか?」
「そうですね。あなたに話すべきことを話してからでないとそちらの説明も出来ないというのが答えです」

もうよくわからない。
私、自分のスマホの行方を聞いただけだ。紛失したのか、それともどこかに保管されているのか、壊れたのか、そのどれかで答えが貰えると思ったのにそれすら出来ないらしい。
私が無くした記憶って、なんだ。スマホの行方ひとつ説明出来ないほどの記憶だったのか。
記憶なんていらないと思うのに、付き纏ってくるこの不快感。無くしたなら捨てたのと同じだ。戻ってこなくていい、戻ってこないで欲しい。なのに、後ろにぴったりとくっついているような気がする。
息苦しくてたまらない。

「……いいです、話してください」
「…僕はおすすめしません。せめてもう少し日を置いてから、」
「いつまで経っても話が進まないじゃないですか。落ち着いてからって、いつですか?私は……簡単には、落ち着けそうにないです。だったらいつ話したって同じです。…そう言い方をするってことは…私の記憶に関する話、なんですよね」

別に構いやしない。聞いたって他人事でしかない。
私を心配しているであろう安室さんの言葉も、私の心にささくれを作るだけだ。…どうしてこんなに心が乱されるのかわからない。イライラして、安室さんに八つ当たりしている自覚はある。けど、感情のコントロールが上手く出来なかった。

「ミナさん」
「いいから…話してくださいよ!どうせ何もわからないんだから!!」

叫ぶような声が出て泣きたくなる。
私、どうしちゃったんだろう。わからないことばかりで、冷たいと感じていた世界は何故か温かくて、それが違和感で気持ち悪くて不愉快で。まるで子供みたい。全てが気に食わなくて癇癪を起こしてるみたいじゃないか。
昨日、自分の言葉が安室さんを傷付けたであろうこともわかっている。さっきだって、蘭さんを傷付けてしまった自覚がある。人に優しくしたいのに、優しさが何だかわからない。自分のことがまるで何もわからなくて、もどかしくて、じりじりと胸の内側が焦げるよう。
笑みを貼り付けて、自分の感情を押し込むのなんて…得意だったじゃないか。今は上手く笑うことさえ出来ない。
どうして、どうしてと頭痛がする。ぎゅう、とベッドシーツを握りしめて、強く唇を噛み締めた。
どんな話をされたってどうせ他人事だ。自分のことだなんてきっと考えられない。だったらいつ聞いたって同じじゃないか。
震えた吐息を零す私をじっと見て、安室さんは緩く首を横に振った。

「…ミナさん、やはり今は話すわけにはいきません。あなたが大丈夫だと思っていても、あなたの脳や体は疲れているんです。今日は少し話をしに来ただけですから、僕もお暇します」

さぁ横になって、と安室さんの手が私の方に伸びてきて、私は息を飲んで咄嗟にその手を叩き落とした。
ぱしん、と軽い音がする。
そんなに強く叩いたわけじゃないのに、安室さんの手を叩き落とした手のひらが焼け付くような痛みを訴えた。安室さんも驚いた表情で動きを止めていて、私は強く手を胸元で握り締める。

「…触らないで、ください…」

安室さんに触れられたら何かがおかしくなってしまいそう。この人に触れられるのが怖い。目を見るのが怖くて、声を聞くのが怖い。

「優しくしないでください」

胸が震えた。
誰も傷付けたくない。だから、私にはもう構わないで欲しい。
私なら大丈夫、おじいちゃんやおばあちゃんがいなくなってからはずっと一人で生きてきた。一人でだって生きていける。人間関係なんて上辺だけでなんとかなる。だって今までも、なんとかなってきたんだから。

「ミナさん」
「来ないで、」
「ミナさん」
「やだ…っ!」

強く目を閉じて、耳塞いで蹲る。
こんなのは、私は知らない。優しくされたくない。考えたくないのに、わからないことばかりで考えることを強いられる。嫌なのに。
何も見ないで、聞かないで、閉じこもりたい。
蘭さんの、向き合うことから逃げないでという言葉が脳裏を過った。
逃げないで、なんて。私は立ち向かえるほど強くないし、見たくないものからは目を背けたい。私自身、自分が誰なのか曖昧にさえ感じているのに…どう立ち向かえと言うのか。
大切な記憶だって? どんなものかもわからないものを、大切だなんて思えるわけがないじゃないか。
私は一人でいい。独りにさせてほしい。どうかもう私に構わないで。触らないで。
優しくしないで。

「ミナさん」

強く耳を塞いでいるのに、その声は優しく耳に届いた。
優しく名を呼ばれ、魔法のようにぴたりと動けなくなる。
安室さんは身を固くする私を抱き寄せたようだった。そうして、そっと私の背中を叩く。まるで落ち着かせるように、優しく。
とん、とん、とん。

「大丈夫ですよ」

大丈夫って、何が。
何も解決してない。わからないことに雁字搦めになって、身動きも出来ないのに、何がどう大丈夫なのか。
そう思うのに、不思議と体からは力が抜ける。恐る恐る耳から手を離して顔を上げると、安室さんが柔らかく目を細めて微笑んでいた。
そして、更に身体を密着させるように私を抱き締め、繰り返し私の背中を優しく撫でる。

「大丈夫、大丈夫」

染み入るようなその声に、視界が滲んで体から力が抜ける。
気付いたら私は声もなく泣き出していて、涙腺はまるで壊れてしまったかのように涙は止まることを知らなかった。零れた涙が安室さんの肩口を濡らしていく。私、どうして泣いてるんだろう。悲しいっていうのとは違う。もちろん嬉しいなんていうのでもない。
焼け付くようにじりじりと痛み、ささくれ立っていた胸が…じんわりと奥の方から温かくなって、ひくりと小さくしゃくり上げる。

「昨日は、怖い思いをさせてしまってすみませんでした。僕も混乱してあなたを急かしてしまった。一番不安なのは、あなたなのに」

不安で、たまらない。
私自身が知らない私のことを、知らない人達が知っている。それは恐怖だ。知らないうちに自分のことを暴かれているようで、本当の自分がどこにあるのかも曖昧で。
ほとんど初対面の安室さんに抱き締められているのに、不思議と不快感はなかった。さっきまであんなに拒絶していたのに、拒絶どころか冷えていた指先に血が通い、ゆるゆると安心感に体の硬直がほどけていく。

「…あむろ、さん…」
「焦らなくていいんです。わからないことばかりで不安でしょうが、ゆっくりでいいんです。無くした記憶のことも、考えなくていい。今は何も考えなくていい」

考えることを強いられると思っていた私に、その言葉は救いだった。
優しく触れる安室さんの手が、私の心に直接触れるような気がした。それを、許してしまえるような気がした。

「…わからないままで、いいんですか」
「わからないままでいいんです」

背中を撫でる安室さんの手が心地良かった。泣くことを促すような、そんな優しさを感じる手だった。
…この人も、優しい人なんだな。蘭さんとはまた違った優しさだけど、この人も私のことを心配してくれている。恋人だ、と言っていた。それを信じられたわけじゃない。けれど、嘘ではないのかもしれないと思う。
私にとっては安室さんはまだまだよくわからない人の域を出ない。けれど彼の言葉や態度は誠実で、嘘を言っているようには思えなかった。
本当に、恋人だったのかな。私は、この人と。
私は、この人に愛されていたんだろうか。この人が愛した私は…どんな人間だったんだろう。この人に、好きになって貰えるような人間だったのだろうか。私はこの人を信じて良いのだろうか。
わからない。
わからないけれど、考えなくていいと言ってくれた。考えることをやめたいと思った。考えなくていいというぬるま湯に甘えたくなった。

「ミナさん、大丈夫ですよ」

瞼を下ろすと頬を涙が伝う。
安室さんの体温と私を抱き締める腕の強さに、体からはすっかり力が抜けていた。

思考することを放棄して、私の意識はゆるやかに溶けていく。

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