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「そこに座れ」
「はい」
「誰が三角座りっつったよ!正座だ正座!!」

ここはどこだろう。そして、一体どういう状況なんだろう。寒くも、暑くもない。というか、全体的な感覚が曖昧でぼやけているような感覚だった。
どこまでも続くような境目さえ見えない真っ白な世界で、私は何故だか正座をさせられていた。状況がわからない。
そして正座する私の目の前にいるのは…黒のスーツに黒のネクタイ、それから真っ黒なサングラスをかけた癖毛の男の人。私の前で仁王立ちをして、咥えた煙草をふかしている。ものすごい威圧感。正直怖い。誰だかわからないけど、逆らってはいけないと本能で悟った。
男性はサングラスをつまんで少しずらすと、鋭いその目で私を捉える。ひ、と声が上がりそうになるのを飲み込む。

「ごめんなさい」
「まだ何も言ってねぇ」
「ごめんなさい」
「お前、自分が何しでかしたかわかってんのか」
「ごめんなさいわかりません」
「わかれよ」

そんな無茶な。
わからないことをわかれなんて無茶苦茶すぎる。そもそも質問の意図さえちゃんとよくわからないのだ。何をしでかしたか、なんて心当たりもないのに思い出せるはずもない。とりあえず謝っておけば何とかなるかと思ったが何ともならなかったらしい。
ちら、と視線を上げれば、男性は眉を吊り上げてこちらを睨んでいる。すぐに視線を逸らす。めちゃくちゃ怒ってるような気がする。気の所為であって欲しい。多分気の所為じゃない。

「……あのぉ」
「何だ」
「…どちら様でしょうか」
「喧嘩売ってんのか」

売ってません。びくりと肩を震わせて俯く。
…私、どうしてこんなことになっているんだっけ。この人とどこかで会ったことがあるだろうかと考えるも記憶には引っかからない。

「まぁまぁ。そう頭ごなしに怒ったって仕方ねぇだろ」

別の人の声がして恐る恐る顔を上げれば、私を見下ろす仁王立ちの男性の隣に、もう一人見知らぬ男性が立っていた。いつからそこにいたのか。少し長めのストレートの髪に、形の良い眉とタレ目。甘いマスクってこういう人のことを言うのかな、なんて思う。

「こいつがあんな馬鹿なことしでかさなきゃこんなことにはならなかったろーが」
「それに関しては同意だけど、そういうところも全部含めてミナちゃんの良いところだろ?」
「お前な」

…この人達は私のことを知っているのか。ミナちゃん、なんて言われるとは思わなかった。
というかだから、そもそもここはどこなんだろうという話である。
今まで自分がどうしていたのかを思い返し、最後に会話をしたのは安室さんだったんじゃないかと思い至った。確か…ええと、私が癇癪を起こして泣いてしまって、安室さんに背中を撫でられていたことは覚えているんだが。その辺から曖昧ということは、多分私は泣き疲れて寝落ちたんだろう。
ということは。

「…夢かぁ…」
「随分余裕だな?」

現実ではないと頭のどこかで理解していたのか、私にも大分余裕がある。少なくともさっきみたいに癇癪を起こして泣いたりすることはないだろうなとほっと胸を撫で下ろした。
夢ならば恐れることは何も無い。所詮私の脳内が作り出してるものなんだから怯える必要も無い。ふぅ、の息を吐いて顔を上げれば、二人の男性がしゃがみ込んでこちらをじっと見つめていて息が詰まった。びっくりした。

「な、なんですか」
「…ミナちゃんさ、安心してるところ悪いけどさ。君がしでかしちゃったことって、割と真面目にやばいことなんだよね」

タレ目の男性は膝の上に頬杖をつき、唇を尖らせながら言う。さっきから私がしでかしたこと、に関して二人とも話をしているみたいだけど、繰り返すが私に心当たりはないのだ。

「…それってどういう…」
「覚えてねぇのが厄介だ」

私が首を傾げれば、癖毛の男性が深い溜息を吐いて肩を竦めた。
覚えてない。それはつまり、私が無くした記憶の中に答えがあるということなのだろうか。考えたくないことを考えさせられることに胸の奥が重くなる。
安室さんは、わからないままでいいって言ってくれたのにな。今は何も考えなくていいって。
これは自分の夢のはずなのに、そんな夢の中でさえ考えるということを課せようとするというのは…私自身が、考えないといけないと思っている深層心理が現れているのだろうか。
視線を落としていれば、つん、とおでこを指先でつつかれる。思わず顔を上げると、癖毛の男性が呆れた表情を浮かべていた。

「勘違いすんなよ。お前がしでかしたことに対して俺は怒っちゃいるが、記憶がねぇことに関してはそうは言わねぇ」
「…えっと、」
「こいつ、これでも君のことを心配してるんだよ。もちろん俺もね。…あぁ、そのことを押し付けるつもりは無いから、深く考えなくていいよ」

ぽんぽん、とタレ目の男性に頭を撫でられる。
…本当にこの二人は私のことを知っているような口振りで話すけど、一体誰なんだろう。呼び方もわからないから何とも言えずに口を噤む。
そんな私に気付いたのか、タレ目の男性がごめんごめんと苦笑した。

「初めまして。俺のことは萩って呼んで」
「…萩、さん」
「そう。で、こっちは松田」
「松田さん」

萩さんと、松田さん。どこかで会ったことがあるような気がしないでもないけど…でも、改めて思い返してもやっぱり知らない。自分の夢なんだし…私の妄想が形になっちゃった、とか。有り得る。二人ともイケメンさんだし。
自分の夢だろうが名乗られたなら名乗り返さないとと思い口を開きかけるが、萩さんが軽くそれを制した。

「君のことは知ってるからいいよ。佐山ミナちゃん。よろしくね」
「…あ、えっと、よろしくお願いします」

こんなところで何をどうよろしくするんだろうと疑問は尽きないが、萩さんと松田さんが立ち上がったことで意識はそちらに持っていかれる。松田さんに立つよう促されたので私も立ち上がり、この夢はいつまで続くんだろうと考えた。夢って、覚めようと思って覚めるものだっけ。
でもせっかくだし、もう少しこの二人と話をするのも有りなのかな。この二人は私が記憶を無くしたことを知っているみたいだし…いや、まぁ、自分の妄想なんだろうから当然なのかもしれないけど…。
それにしても、私がしでかしたこと、とやらが気になる。

「…その、私がしでかしたことって、何なんですか?」

私が問えば、松田さんと萩さんは無言で顔を見合わせる。それから小さく溜息を吐いた松田さんが、ズボンのポケットから何かを取り出した。手のひらに乗せたそれを見せてくるから覗き込んだのだが…私はそのまま首を傾げた。

「…なんですか、これ」
「お前が壊したんだよ」
「えっ」

松田さんの手に乗せられていたのは、ブルーグレーの宝石…の、欠片、だろうか。小さく砕けてしまったものの一欠片のようで、元がどんな形だったのかはわからない。透き通るような美しいブルーグレーなのに、割れてしまったそれは輝きを失いどこかくすんでいるように見えた。

「これひとつ探すのにもすげぇ苦労したんだっての。感謝しろよ」
「…え、それで、これ何なんですか…?綺麗だけど…」
「…あぁ、そっか。今のお前じゃ、この重大さもわからねぇよな」

松田さんはやれやれと溜息を吐きながら頭を掻いた。それから萩さんの方に視線を向ける。

「萩原、お前の方は?」
「お恥ずかしながら実はまだ見つかってなくてね」

萩さん、萩原っていうのかな。随分と細かい設定が決まってる夢だなぁ。二人が何の話をしているのかわからず、私はただ二人のやり取りを見つめるしか出来ない。
…壊れた宝石。宝石って、壊れたらどうするべきなんだろう。傷くらいならリカットとかで直せるかもしれないが、ここまではっきりと砕けてしまっているのなら難しいかもしれない。価値のなくなった宝石はどこにいくのか。そもそも価値のない宝石の欠片を、どうして松田さんは探したのか。そして、どうしてそれを…私に見せたのか。

「…それ、そんなに大切なものなんですか?」

ぽつりと尋ねれば、二人は揃って私の方を見つめ、ほんの少し寂しそうな…悲しそうな顔をした。
松田さんはその欠片を再びポケットにしまい、軽く肩を竦めている。

「…ミナちゃん。物の価値って、基本的にはその人が決めるもんだと俺は思ってる」

松田さんが何も言わない代わりに、萩さんが口を開いた。
萩さんは微笑んでいたけど…それでもやっぱりどこか辛そうで、苦しそうで。どうしてそんな顔をするんだろうと思いながら、私まで胸が苦しくなる。

「例えばさ、ミナちゃんは煙草吸う?」
「…吸わないです」
「なるほど。んじゃ、煙草の良さもわかんねぇだろ」

言われて、こくりと頷く。
別に煙草が好きな人を批難するとかは一切ないけど、でも私は吸わないなぁと思う。喫煙者の人にしかわからない良さがあるんだろうなぁという想像くらいしか、私には出来ない。

「俺も松田もさ、煙草吸うんだよ。仕事前に一服。仕事後に一服。これがすげぇ美味いんだ」

でも、その価値は君にはわからないだろう? 問われて、私はもう一度こくりと頷く。
確かに萩さんの言う通りだ。物の価値は人によって違う。たとえ価値ある宝石だとしても、興味が無い人からすればただの石ころに過ぎない。価値を見出すのは人それぞれだ。

「だからさ、君にとってはいらないと思うものでも…他の誰かにとっては、とても大切なものかもしれないって。…覚えておいて」

萩さんのその言葉は、逆も然りである。私にとっては大切なものでも、他の誰かにとってはそうじゃないかもしれない。それは。

「…萩さん。…それは、私の記憶のことを言ってるんですか?」

私が切り捨てても良いと思ったもの。取り戻さなくたって困らないし、いらないと思ったもの。無くした記憶。
私が記憶を取り戻さなくてもいいと言ったら、安室さんは「冗談じゃない」と言った。私が記憶なんてなくたって困らないと言ったら、蘭さんは「無くした記憶はミナさんにとってとてもとても大切だったはず」と言った。私自身が知らない私を、周りの人達は知っている。無くした記憶の中にいる私を、皆きっと見ているのだろう。
萩さんは私の問いかけに答えなかったけど、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。

「…ったく、せっかくいい女になったかと思ったのに元に戻ったどころかマイナスじゃねぇか」

マイナスって。さりげなく貶された気がしてダメージを受ける。
繰り返すけどこれって私の夢なんだよね? 自分の夢なのにどうして自らダメージを受けるような内容なんだろう。解せない。

「あいつが泣くぞ」
「あいつって、」

誰のことですかと問おうとして、ふわりと目の前が霞んだ。それと同時に、急速にこの世界での意識が遠ざかっていく。

「時間だな」
「まぁ慌てるなよ。また会えるからさ」

松田さん、萩さん。
彼らは軽く笑いながら手を振っていて、そっちに思い切り手を伸ばしたものの届かなかった。


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