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「記憶があってもなくても、君であることに変わりはないはずなんだけどな」

あぁ、また夢だなと思った。
ゆっくりと目を開けるともはやお馴染みの真っ白な世界。私はそこにぽつんと佇んでいて、視界には白しかないから平衡感覚もおかしくなりそう。とはいえ、ここは夢の中だから平衡感覚も何も無いのだけど。
正面を向いたままゆっくりと瞬きをしていたら、とん、と背中に温もりを感じた。首だけ動かして振り返ると、グレーのパーカーを着た人の肩が見える。私よりも随分身長は高いし骨格もしっかりしている。先程聞こえた男性の声は、彼のものだろうか。軽く寄りかかられて、私は小さくたたらを踏んだ。

「記憶がなくたって、君が過ごしてきた時間は消えないよ。それは、君の周囲が証明してくれているはずだ」

柔らかな声に言われて、私はゆっくりと視線を自分の正面へと戻す。
私が過ごしてきた時間。ぽっかり、私の中から無くなってしまった時間の記憶。そう、私の中から無くなったって、私と共に過ごしてきた人達の中から無くなった訳ではない。そんなことは、私だってちゃんとわかっているのだ。
だからこそ、その時間を過ごした自分が羨ましくて、幸せだっただろう自分が妬ましい。
私は佐山ミナであって…私を知る皆の中にいる佐山ミナではない。言葉で説明するのは難しいかもしれないけど…でも、私にとってはやっぱり、他人事の域を出ないのだ。

「不安?」

背中に当たっていた温もりが離れたかと思えば、後ろから両肩をぽんと優しく叩かれる。
…不安、なんだと思う。記憶を取り戻したいと思わないわけじゃない。でも、その記憶を取り戻したら…私はちゃんと私でいられるのか、とか。「記憶があった頃の私」と、今の私。それはもしかしたら別人なんじゃないかって。

「ミナさん」

いつしか足元に視線を落としてしまっていた。声をかけられて振り向けば、グレーのパーカーを着た男性がこちらを見つめていた。輪郭のラインに髭のある、顔立ちの整った人だ。彼の柔らかな笑みに目を瞬かせる。

「初めまして。俺はヒロ。よろしく」
「…あ、えっと…よろしくお願いします、」

慌てて体ごと振り向いて頭を下げる。
ここは私の夢の中で…そして松田さんや萩さん、伊達さんとも違うまた新しい人の登場だ。ヒロさん。これまでは皆苗字みたいだったけど、ヒロさんはもしかしたら名前…なのかな。
ヒロさんは首を傾げる私を見てにこりと笑うと、私と同じ方向に首を傾げた。

「それで?君は何がそこまで不安なの?俺に教えてよ」
「……えっと、」

問われ、先程思ったことを口にする。
記憶を取り戻した時、自分が自分でいられるのかわからないこと。「記憶があった頃の私」が、自分とは別人にしか思えないこと。

「…きっと皆の言う「佐山ミナ」は、私のことじゃないんです」
「なんでそんなこと言うかなぁ…」

ヒロさんは私の言葉を聞き終わると、溜息を吐きながら頭を掻いた。
だって、安室さんと恋人だったのも、子供達に慕われていたのも、以前の私だ。今の私じゃない。考えても考えても、気付けば雁字搦めになって身動きが取れなくなるような気がする。
どうして私は、記憶を無くしてしまったんだろう。記憶を無くすくらいならいっそ、

「ストップ」

どろどろと暗い考えに落ちて行きそうになり、ふとヒロさんの声に顔を上げる。ヒロさんは先程までの優しい笑みを消し、少し怖いくらいの真剣な表情を浮かべていた。

「それ以上はダメ。…死んでいたら良かったなんて、絶対に考えちゃダメだ」
「どうして」
「君がもし死んでいたら、あいつにとって深い傷になっていたからさ」

あいつ、とは。誰のことか分からずに目を瞬かせたら、ヒロさんは少し困ったように眉を寄せて軽く肩を竦める。

「…って言っても、今の君にはなんのことかもわからないよねぇ」
「…それも、記憶があった頃の私の話なんですね」
「そうだよ。君があいつを守ろうとして取った行動は、あいつの傷を抉る結果になってしまったってこと。ま、その傷を作った張本人は俺だから…大きな口は叩けないけどね」

ヒロさんの言葉の意味がよくわからなくて眉を寄せると、ヒロさんは苦笑して両手をポケットへと突っ込んだ。

「…でもさ、これだけは何度でも言わせて欲しいんだ。君は君だよ。君の周囲にいる人達にとっての「佐山ミナ」は君しかいない。今の自分だとか、記憶があった頃の自分だとか、そんなややこしい話じゃないんだよ」
「…そうでしょうか」
「そうだよ。今の君も、以前の君も、どちらも君自身。そして無くした記憶は君のものだ。君だけのものだ。築いてきた人間関係も含めて、ね」

私には、よくわからなかった。
レストランで注文した覚えのない料理が運ばれてきて、え、頼んでないですって言ってるのに、あなたが注文なさったものですよ、と差し出されているような、そんな気分。料理を頼んだ記憶はないのに、その料理は私のものだという。違和感が拭えなくて、咀嚼も、飲み込むことも、上手く出来ない。
ヒロさんは考え込む私に困ったように笑うと、ポケットに突っ込んでいた片方の手を抜いて私に差し出してきた。その手のひらに乗せられていた欠片を見て、目を瞬かせる。

「…それ、」
「松田と伊達からも見せてもらったんじゃないか?」

ブルーグレーの宝石の欠片。ヒロさんが持っているものは、今まで見せてもらった中でも一番大きな欠片に見えた。やはり色はくすみ、輝きを失っている。

「…それ、なんなんですか?松田さんも、萩さんも、伊達さんも、はっきりとは教えてくれませんでした。そろそろ教えてください。それを集めたら、一体どうなるんですか?」

松田さんは、それを壊したのは私だと言っていた。伊達さんは、それは私にとって大切なものだと思っていると言っていた。萩さんは、実際にそれが大切なものかどうかを決めるのは私だと言っていた。
じゃあ、それはなんだ。どうして私にとって大切なものなら、私が壊さなくてはならなかったのか。それは本当に私にとって大切なものなのか。
ヒロさんは、私の目をじっと見つめてからその欠片をポケットへと仕舞ってしまった。それから軽く肩を竦める。

「まだ少し早いかな。でも、ひとつだけ教えてあげる」
「ひとつ?」
「これを壊したのは君。だけどそれは、君があいつを守ろうとした結果。そして、君が頑張った証」

やっぱりそれは、よくわからなかった。
ヒロさんは小さく笑い、私の頭に手を伸ばすとぽんぽんと撫でる。それと同時に、ふっと意識が遠ざかる。

「夜の来訪者のようだ。欠けたピースも、直に揃うよ」

だから、またね。
白い世界に、ヒロさんの姿も声も、緩やかに溶けていく。


***


不意に意識が浮上した。病室は真っ暗で、サイドボードのアナログ時計を確認すればまだ夜の九時前だった。
今日は少年探偵団の子供達がやってきて、折り鶴をもらって…少しだけ安室さんと話をした。折り鶴の中に子供達からの手紙があって、泣いてしまったんだっけ。そのまま眠ってしまったようだ。泣き疲れて眠るなんて子供みたいだなと苦笑した。
ゆっくり体を起こす。シーツの上には柔らかな月の光が降りていて、窓の外に視線を向けて今日は満月だったんだなぁと思う。

「……」

シーツの上には、広げたままの子供達からの折り紙の手紙がそのままになっていた。それを手に取り、丁寧に折り目に沿って折り鶴の姿へと戻す。不格好な折り鶴三羽と、やたら綺麗な折り鶴一羽。…この綺麗な青い折り鶴はコナンくんからの手紙だった。やっぱり不思議な子だなと思う。
その折り鶴をサイドボードに戻した時、ふと窓から差し込んでいた月の光が消えて部屋が暗くなった。
雲でもかかったのかな、と窓の方に視線を向けて…私は、息を飲んだ。
月の光に輝き、風に靡く真っ白なマント。同じく真っ白なシルクハットとタキシード。月の光が逆光になっているのとモノクルをつけているせいで顔はよく見えないが、すらっとした長身と骨格は男性だろうことが分かる。
普通に考えたら変質者。…だって有り得ないだろう、こんな派手な服装。まるでマジシャンのよう。変な人と思うのに、何故だかじっと魅入ってしまう。どうしてだろう、悪い人に思えなくて…月の光に包まれたその姿は、不思議ととても神秘的に見えた。
ぽかんとしながらその人物を見つめていたら、その人は病室の窓をこんこんと軽くノックした。…開けろってこと?
そっとベッドから降りてゆっくりと窓に歩み寄る。…ここ数日、トイレに行くくらいしかベッドから出れていなかったから数歩歩くのも足が軽く震える。筋力が落ちるのはあっという間である。
窓に歩み寄って鍵を外すと、彼は窓を開けて軽やかな身のこなしで部屋の中へと飛び降りる。思わず身構えてしまったが、そんな私を見て彼はほんの少しだけ小さく笑った。

「こんばんは、お嬢さん」
「……こ、こんばんは」
「すみません、驚かせてしまいましたか」

挨拶されてしまった。そりゃあ驚くだろう、突然入口じゃないところから人が飛び込んできたら。どうしよう、と思っていたら、彼はゆっくりと立ち上がって私の方に向き直り、とても丁寧にお辞儀をした。それはまるで、舞台役者のように。

「失礼、突然の無礼をお詫び致します。月の光に照らされたあなたが、どこか物憂げに見えましたので」
「…そ、…そうでしょうか」
「ええ。何か気掛かりなことでも?」
「…、…気掛かり…」

…気掛かりと言えば、最近見続けている夢のことだ。起きると夢の中の登場人物の名前は忘れてしまうし、内容もどことなく虫食いのように抜け落ちてしまう。ブルーグレーの宝石の欠片のことや、彼らと話した内容とか…はっきり覚えている部分もあるんだけどな。でも、夢なんてそんなものだろう。
けれどそれは別に人に言うほどの事でもないし、と視線を上げる。

「…特には…」
「…なるほど、記憶が無いってのは確からしい」

彼が小さく呟いたのが聞こえた。彼もまた、私が記憶を無くしていたことを知っていた?こんな不思議な人と私に、何か接点でもあったとか?正直あまり想像が出来ない。

「…あの、あなたは?」
「私は怪盗キッド」
「…怪盗、キッド……?」
「お嬢さん、あなたの名前は?」
「……佐山、ミナです」
「そう、ミナさん。ではこちらはお近付きの印です。私と一緒にThree、Two、Oneでカウントして」

彼はそっと私の手を取ると両手で優しく包んだ。シルクの手袋の肌触りが心地良い。彼の声に合わせて、言われた通りにカウントする。
Three、Two、One。

「っわ!」

ぽん、と音がして驚いていたら、私の手の中には一輪の赤い薔薇があった。棘は綺麗に取ってあるけど、月の光に照らされた色鮮やかな赤と柔らかい香りがこの薔薇が本物であることを証明している。
え、今一体何が起こったのだろうと目を白黒させていたら、彼は私の手に薔薇をそっと握らせて手を離した。

「私からのささやかなお見舞いです」
「お見舞いって」
「あなたに暗い顔は似合いませんよ」

彼はウィンクすると、開けっ放しだった窓へと手をかける。
突然月の光とともに現れ怪盗キッドと名乗った彼は、一体何者なんだろう。思わず手を伸ばしかけたら、窓から吹き込んだ突風に目を閉じた。

「ま、待って!あなたは私を知っているんですか?!」

彼も、記憶があった頃の私を知っているのだろうか。少し風がおさまり目を開ければ、彼は既に窓の外にいた。白い彼の姿は、月の光で発行しているように見えた。それがとてもとても美しくて目を眇める。
彼は何かを言いかけたのか口を開きかけて…すぐに閉ざし、軽く首を振った。それからほんの少しだけ微笑む。

「またお会いしましょう。月下の淡い光の下で」

また強い風が吹く。
腕で顔を覆い、耳元で唸る風の音が止んで…私の髪を揺らす風すら止んだ頃。ゆっくりと顔を上げれば、窓はピタリと閉ざされて私が外したはずの鍵もかかっていた。まるで、最初から窓など開かれていなかったかのように。

「…怪盗、キッド」

私の手の中で、赤い薔薇が小さく揺れた。



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