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翌日、普段なら夕方くらいにやってくる安室さんが朝食後すぐにやって来た。こんな時間から安室さんに会えるのはなんだかとても新鮮で、ちょっと嬉しい。
看護師さんと入れ替わりで部屋に入ってきた安室さんは、いつものように挨拶するとベッドサイドの椅子に腰を下ろした。それから、サイドボードの上の薔薇を見て目を瞬かせる。

「これは?」
「それは…なんか昨日、貰ったんです」
「貰った?僕が帰る時はありませんでしたよね。僕が帰った後に誰か来たんですか?」

来たのは、来たんだけど。…何というか、どう説明したら良いのかわからない。見たまま、あの人と会ったままを話して良いのだろうか。でも…不審者だと言われてしまったらそれまでだしなぁ。…窓から人を招き入れたなんて怒られちゃうかな。
うぅん、と悩んでいたら、安室さんはそんな私を見てすっと目を細めた。
美形の睨みというか凄みというか、とても迫力があるのだ。安室さんに最初に会った時にそれは実感していたけど、改めて間近で見て身を竦ませる。

「…まさかとは思いますが。怪盗キッドですか?」
「えっ、安室さん知ってるんですか?そんなに有名な人?」

安室さんの口から怪盗キッドの名前が出るとは思っておらずに身を乗り出せば、安室さんは呆れたように肩を落として深い溜息を吐いた。…どうしてそんな反応。

「…いえ、あなたに文句を言ったところで仕方ありませんね。怪盗キッドは世界的な有名な怪盗ですよ。狙った宝石は必ず手に入れるという凄腕のね」
「…そ、そんなに有名な人なんですか…」
「えぇ。…で、これはその怪盗キッドからもらったと?」

安室さんが薔薇を手に取り、軽く揺らして見せた。一晩経ってもなお、薔薇の鮮やかさも香りも変わらずだ。

「…その、…はい。昨日の夜、窓の外にいて…」
「開けたんですか?」
「…開けて欲しかったみたいだったので…」
「……全くあなたは……」

私がおずおずと告げると、安室さんは額を押さえて再度深い溜息を吐いた。…う、これは呆れられてしまったかな。

「…それで?怪盗キッドとはどんな話を?」
「どんな…。…特にこれといったことは話してないです。…お見舞いって言ってました」

挨拶をして、互いに自己紹介をして。マジックを見せてもらって、薔薇を貰った。…またお会いしましょう、って言っていた。私のことを知っているのかという質問には、答えてくれなかったけれど。

「…そうですか」

安室さんは小さく息を吐くと、薔薇をサイドボードの上へと戻した。…安室さんなら、聞いたら答えてくれるだろうか。
これは、記憶を無くしてから…記憶を無くしたと思えるようになる前から。夢の中でさえ、ずっと思っていることだ。私は一体誰なのか。記憶を取り戻したら、今の私はどうなるのか。今の私の意識は、どうなってしまうのか。
記憶を取り戻して、今の私とちゃんと溶けあえるならそれでいい。けど、なんというか…記憶があった頃の私と今の私が、同一の人格であれるのかどうか、私には自信が無い。
夢で言われた言葉は覚えている。記憶があっても無くても私であることに変わりはない。私の過ごしてきた時間は消えない。私は、私。そう素直に思えるようになるには、もう少し何かが足りない気がする。
だって私はまだ、何も知らないのだから。

「…安室さん、そろそろ、教えて欲しいんです。私の記憶について」

聞いても、きっと他人事には変わりがない。自分の記憶だなんてきっと思えない。それでも知りたいと思うのは…立ち止まったままでいるのは何だか気分が悪いからだ。
夢の中で言われた、大切なものかどうかをジャッジするのは私自身という言葉を思い出す。
顔を上げて安室さんを見つめると、安室さんは小さく息を吐いて私に一台のスマートフォンを差し出した。黒くて、見覚えのないスマートフォン。なんだろうと思いながらそれを受け取る。

「これは…?」
「あなたのスマートフォンです」
「え?」

私の持っているスマホとは、形も大きさも違う。私のもののはずがないと思いながら顔を上げると、安室さんは小さく苦笑して軽く肩を竦めた。

「僕が今からあなたに話すことは、全て事実だと誓います。嘘は決して言いません。いろいろ疑問に思うこと、驚くこと、わからないこと、あると思います。とても長い話になります。きっと到底信じられない話でしょう。けれど、それでも聞いてくれますか?」

真剣な表情と声だった。
どんな話なのかはわからない。けれど、最初の時みたいに安室さんの言葉を突っぱねたりしない。全ては、ちゃんと聞いてから。それでいいと思った。

「…聞きます。聞かせてください」

私が頷くと、安室さんはふぅ、と息を吐いてからゆっくりと顔を上げて。思い出すように、ほんの少し遠くに視線を向けた。


──────────


あなたが今いるここの地名は「米花町」といいます。米に花の町、それで米花町。えぇ、聞き覚えがないでしょう?当然です。ここは、あなたがいた世界とは違う世界なんです。…なんて、突拍子もなくて信じるも何も無いですよね。大丈夫、それは普通の反応ですよ。けれど、断じてあなたをからかったり、冗談を言っているわけじゃない。
…そうですね。それじゃあ、本当の最初から話しましょうか。あなたと僕の出会いから。

僕は春先のある日、爆発事故に巻き込まれたんです。僕のすぐ側で大きな爆発が起きて意識を無くしました。次に目が覚めた時、僕の目の前にあなたがいたんです。倒れた僕に何度も声をかけて、助けてくれようとしていました。
そこで、おかしなことに気付いたんです。辺りは一面雪景色。降っているだけじゃない、雪が積もっていました。おかしいですよね?春だと思っていたのに、目を覚ましたら冬だったなんて。…まぁ、この辺りはまた後で。
僕はあなたに米花町への道を尋ねました。けれどあなたは、米花町なんて知らないと言う。僕は途方に暮れましたが、とにかく駅に向かえば何とかなるとその時は思っていました。けれど、そんな僕をあなたが引き止めたんです。自分のマンションに来ないか、とね。正直呆れました。
僕はあなたなとって見ず知らずの男で、しかもその時僕は爆発事故に巻き込まれた直後で酷い格好でした。服も破れていたし、怪我も負っていたので。我ながら不審者だったと思います。そんな僕を、警戒心もなく家に招くなんてどうかしてると思いましたよ。
でも。…あの時、あなたが僕を助けてくれなかったら…きっと僕は、米花町に帰ってくることなど出来なかった。右も左も分からない全く知らない世界で、死んでいたかもしれません。

…あぁ、話が少し見えてきました?
そう。ここは、あなたにとっては異世界。つまり僕は、爆発事故によって…異世界トリップなんていう非現実的な事象に巻き込まれたというわけなんです。
…そんな心底信じられない、みたいな顔しないでください。心底信じられないような話をしてる自覚はあるんです。けれど先程言った通り、嘘じゃない。これはれっきとした事実なんですよ。

…話を戻しましょうか。
僕のスマートフォンは、あなたの世界では使えませんでした。普通に考えたら当然ですよね、本来なら交わることの無い世界線に同じ電波が飛んでいるわけがない。
あなたの家でパソコンをお借りしていろいろ調べて見ましたが、結局米花町始め僕の世界に関すること、有力な情報は得られませんでした。だからあなたのお言葉に甘えて居候させて頂くことにしたんです。その間に、あなたは仕事を辞めた。
…そんなに驚くことですか?念の為言っておきますけど、あなたが自分で決めて、自分で退職の道を選んだんです。しばらくはのんびりすると言っていました。…酷い働き方をしていたみたいですから、退職は良い判断だと僕も思いましたけどね。
それから…まぁいろいろありましたが割愛しましょう。何はともあれ、僕は自分の世界に戻ってくることが出来た。それはとても喜ばしいことだったんですが…あなたも一緒に、この世界に来てしまったんです。

僕達の同居生活は続きました。今度はあなたが僕の家に。あなたが元の世界に帰る為の方法を探しましたが、その方法は見つからなかった。…え?僕が帰った時に使った方法?…あぁ…それはまぁ、訳あって使えなかったんです。その方法を使って確実に帰れるという保証もありませんでしたしね。

けれど。…あなたの体に異変が起こりました。
空腹感を失い、味覚を失い、温度を感じられなくなり、そして痛覚さえ無くしたんです。繰り返しますが嘘ではありませんよ。あなたの体に起こった異変は、世界を越えた代償だろうと僕もあなたも考えました。
…正直な話をしますね。僕は、あなたを元の世界に帰したくなかったんです。この世界で生きて欲しいと思った。あなたが元の世界に帰る為の手伝いをすると言いながら、その手伝いをしながら、帰る方法など見つからなければ良いだなんて思っていたんです。酷い男でしょう?
あなたは、感覚が全て無くなってしまったら、それは消えてなくなるのと同じだと言いました。僕は、させませんと答えました。
ええ、あなたの言う通りだったと思います。見ることも聞くことも出来なくなって、触覚さえなくなって…人間の持つ感覚の全てがもし失われたとしたら。たとえ死ぬ瞬間も、きっとそのことには気付かないでしょう。それは消えるのと同じことだ。
けれど僕はどうしても、僕の目の前からあなたが消えるような気がしてしまったんです。だから、させませんと答えました。
方法なんてわかりません。それでも僕は、あなたが消えるなんてことを許す訳にはいかなかった。方法がなくても、何としてでも阻止すると決めていたんです。…滑稽な話ですけどね。
何にせよ前例のないことです。いくら僕とあなたで話したところで、それは全て憶測の域を出ない。僕達の努力が無駄に終わるかもしれない。けれど、全て上手くいくかもしれない。
あなたは、この世界で生きると言ったんです。そんなあなたを、あなたに優しくない世界に帰したくなかった。

…まぁ、ある意味奇跡、と言うべきでしょうね。
あなたは感覚を取り戻しました。空腹感を感じられるようになりましたし、温度も感じられるようになりましたし…味覚も、痛覚も、ちゃんと元通りです。
そうしてあなたとこの世界で共に過ごすうち、僕はあなたに惹かれていきました。あなたに、好きになっても良いか許しを乞いました。
…もっともその時には、僕はもうあなたのことが好きでしたけどね。


──────────


「ひとつ、聞きたいんです」

安室さんの長いお話を聞き終わって、私はぽつりと呟いた。
まるで信じられない。安室さんは最初に言っていた。きっと到底信じられない話だろうと。その通りだった。けれどその前に、全て事実だと…嘘は決して言わないと言っていた。その言葉通り、安室さんの言葉に嘘はないのだろう。
正直すぐには信じられない。それを事実として自分の中で消化することは出来ない。
ただ、そういうことがあって、今の私があるのかもしれないと考えることは出来る。だから。

「安室さんは…私に、記憶を取り戻してほしいと思ってるんですか?」

恋人同士だった頃の私に、戻って欲しいと。

「私、わからないんです。記憶があった頃の私と、今の私は別なんじゃないかって。たとえば記憶を取り戻したら、今の私はどうなってしまうんだろうって。もう一人の自分に、自分を奪われるような気がして…それが、怖い」

無意識に、ベッドのシーツを強く握り締めた。
安室さんの目を見ることが出来ず、シーツに視線を落としたまま眉を寄せる。

「安室さんにとって今の私は、どういう存在なんですか?恋人の姿をした別人とか?」

安室さんが想いを向けるべき相手は…今の私ではないんじゃないか。
当然だ、今の私は安室さんとの思い出も何も無い。記憶を取り戻して欲しいに決まってる。わかり切ったことを聞いてどうするのだろうと思い、一人苦笑した。
突然変な事言ってごめんなさいって、言わないと。困らせてしまうと顔を上げると、真剣にこちらを見つめる安室さんと目が合った。
思わず息を呑む。

「たとえあなたの記憶が戻らなくても。僕は何度でも、あなたに想いを伝えます」
「…安室さん、」
「ミナさん。あなたは、あなたです。無くしたものが返らなくても、新たに作り築くことは出来る」

安室さんの手が、私の手をそっと包んだ。
温かくて大きな手。私も、安室さんに少しずつ惹かれている。記憶があった頃の私に嫉妬して、羨ましいだなんて思ってしまうくらいには…この人を、欲していたのだと思う。
強く優しい言葉に視界が揺らいだ。

「だから、心配なんてしなくていいんです。何度だって、一からまた始めましょう」

あぁ、以前の私も、こうして安室さんのことを好きになったんだろうか。
彼の言葉に、優しさに触れて…彼の隣に立てるような人間になりたいと、そう願っていたのだろうか。
ぽろぽろと涙を零す私を見て、安室さんは柔らかく微笑んだ。

「ミナさん。…あなたのことを、好きになってもいいですか?」

いつかどこかで聞いたようなその言葉に、私は頷きを返した。



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