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「これはあなたのものですので、どうぞ」

私は安室さんから差し出された黒のスマートフォンを手に取った。
これは元々安室さんのもので、私が持っていたスマホはこの世界…では使えないらしい。安室さんが私の世界に来た時に自分のスマホが使えなかったのと同じだそうだ。
…この世界だとか、私の世界だとか、本当にまるで信じられない話。けれど安室さんから手渡されたスマートフォンのロックは、打ち慣れた私しか知らない暗証番号で開いた。知らないスマホだし、自分が使っていたものとはいえメールボックスや連絡ツールを見るのは少し抵抗があったが…安室さんに勧められるままアプリを開けば、たくさんの履歴が残っていた。
一番多いのは安室さん。それから次いでコナンくんや少年探偵団の子供達…蘭さんや、見知らぬ名前もいくつかあった。黒羽快斗…世良真純、鈴木園子…沖矢昴。やり取りを見てみるとそこそこ仲が良いことが伺える。
沖矢さんって人とはお酒の話してる…世良さん、鈴木さん、蘭さんはどうやら同級生みたいで、共通の話題が多かった。黒羽さんは、もしかしたら同じ職場?名前や文体から男の人ということがわかる。子供達とは他愛のない話ばかりで、読んでいると胸が温かくなった。
安室さんとは買い出しとか、帰宅時間なんかの連絡が多い。…帰宅時間の話をしてるところを見ると、一緒に住んでいるんだろうか。…恋人って言ってたもんな。私のマンションでも一緒に生活してたみたいだし、こちらの世界とやらに来てからは私は安室さんの家に転がり込んだみたいだし…そのまま、一緒に暮らしていたっておかしくない。…安室さんとのやり取りの中に、他の人達としてるような世間話はない。それはつまり…連絡ツールを使わなくても、世間話が出来たと…そういうことだろうか。…考えたら恥ずかしくなってきた。

「…そういえば、私、今は仕事ってどうしてるんですか?」
「駅近くの書店で働いていますよ。そちらには僕から連絡を入れてあります。あなたが落ち着くまではお休みをくださるとのことで、復帰のタイミングはあなたに任せると」
「書店…」

今までの自分からは考えられなかった仕事に目を瞬かせる。本屋さんで働くって、どんな感じなんだろう。
ずっと働いてきた会社以外で働くなんて、考えたこともなかった。…まだ半信半疑ではあるけど…この世界に来て、新しい道を歩き出した私がどんな気持ちだったのかは興味がある。
…自分のことを誰も知らない街で、一から始める生活。それも好きな人が傍にいるなんて、恵まれすぎだな。どうしても、そんな自分を羨ましいと思う気持ちは拭えない。
その羨ましさが…自分のものだと受け入れられるように、なるだろうか。

「とりあえず今話せるのはこれくらいですが…何か質問はありますか?」

安室さんに問われて、私は首を横に振った。
以前私が自分のスマホの行方を尋ねた時、安室さんがすんなりと答えてくれなかった理由もわかった。見知らぬスマートフォンが自分のものだと言われてもあの時はきっと信じられなかったし、それこそ中に残っていたデータを見て更に混乱してもおかしくなかっただろうし。
手の中のスマホに視線を落とし、ゆるりと指で撫でる。元々安室さんのものというだけあって、ほんの少しだけある傷や表面のくすみ具合が使い込まれていることを語っていた。…きっと私は、これを大切に使っていたんじゃないだろうか。…なんとなく、だけど。今の私が、これを大切にしたいと思うように。

「ところで、退院日なんですが」
「…え、退院日、決まったんですか?」

初耳だ。私が目を瞬かせると、安室さんは苦笑を浮かべて頷いた。

「はい。ご本人であるあなたよりも先に僕が聞いてしまうのもどうかと思ったんですが、明日には退院出来ます。…実は数日前には退院日も決まっていたんです。お話せず申し訳ありませんでした」
「え、えぇ…?」
「あなたの様子次第では入院を延ばすことも考慮していたので。でも、この感じなら予定通りの退院で問題ないでしょう。…そこであなたにご相談があるんですが」

明日なんて急すぎる話だ。
退院と聞いてつい身構えてしまうのは仕方がないと思う。
断じて退院したくないわけじゃない。ただ、先程の安室さんのお話からすると私は今安室さんと一緒に住んでいるということになる訳で、退院したらその家に帰るのが多分普通なのだろう。ということは、退院すれば私は安室さんのお家に帰るというわけで。
以前恋人同士だったとしても、確かに今安室さんへの好意を抱いているとしても、今の私にとっては安室さんはまだよく知らない男性なわけで。
どうしようどうしようと悩んでいたら、安室さんが言った。

「退院後、…今までと同じように僕の家に来ますか?それとももし抵抗があるなら、毛利先生が来ても良いと仰ってくださっています」
「毛利先生って…確か、蘭さんのお父さん、ですか?」
「はい。蘭さんから毛利先生にお話ししてくださったみたいで。コナンくんや蘭さんがいた方が、あなたにとっては今は安心なのではないかと」

退院して、安室さんの家ではなく蘭さんのお家にお邪魔する。…毛利先生とはお会いしたことがないけど蘭さんは同性だし、コナンくんもいるなら確かに私も安心出来る。
でも、そんな急に転がり込んでしまっても良いものなのだろうか?
申し訳なさを感じて視線を下げると、安室さんはぽんと私の頭を撫でた。

「まだ明日まで時間がありますし、ゆっくり考えると良いでしょう。どちらを選んでも構いません。あなたが好きな方を選んでください」
「…いいんでしょうか」
「いいんですよ。…僕も今日はこれで帰りますが、あまり悩み過ぎないで気軽に考えてくださいね」

安室さんの手が私の頭から離れていく。
急に寂しさを感じて咄嗟に彼の手を掴めば、安室さんは驚いたように目を瞬かせながら私を見た。…そりゃ、驚きもするだろう。こんな引き留められ方をすれば。
申し訳なくなってしまって視線を落とし、そっと手を離そうとしたら逆に安室さんに掴まれた。どきりと胸が弾む。

「…明日退院の時にちゃんと迎えに来ますから。今日はゆっくり休んでくださいね」
「……安室さん、私」

なんだろう、上手く言葉が出ない。
安室さんと一緒にいたい。でも、安室さんの家に気軽に帰れるような気分でもない。…自分の気持ちが上手くまとまらなくて苦しくなる。
そんな私のことも、安室さんはきっとわかっていたんだろう。口篭る私を見て、安室さんは身体を屈めると私の前髪をそっと払い、そこに柔らかく唇を押し当てた。
顔が一気に熱くなり、ぽかんと口を開く私を見て安室さんは小さく笑う。

「ミナさんの照れる顔、好きなんです」
「へ、」
「それじゃ、また明日」

笑みを浮かべたまま病室から出ていく安室さんを見送り、私はぽかんと口を開いたまま動けずにいた。
額にはまだ、安室さんの唇の感触が残っている。近づいた際に鼻先を掠めた彼の匂いも。

「…うぁ」

恥ずかしい。
私は両手で顔を覆い、そのままベッドに倒れ込んだ。腕の傷が痛んで小さく息が詰まったが、それどころではない。
安室さんに、キスされた。…おでこだけど。
恥ずかしい。…こんな状態で、安室さんの家に帰るだなんて絶対に無理だ。恥ずかしさに殺される。
私は布団を被り、甘く疼く胸をそっと押さえた。


***


「お、いい面構えになってきたな」

恒例の、夢である。
私の目の前にいるのは伊達さん、それから松田さん。伊達さんは私の顔を見てにかりと笑って言ったけど、なんのことだか私にはよくわからない。首を傾げていたら、松田さんは煙草をふかしながら肩を竦める。

「お前、惚れやすいのな」

突然の松田さんの爆弾発言に固まった。

「…はい…?」
「降谷…あー、今は安室だっけ?あいつに二度も惚れてるじゃねーか。いくらあいつがいい男っつってもよ」
「それだけあいつがミナちゃんのことを大切に思ってるってことだよ。その気持ちがミナちゃんの心を動かしたってことだろ?」

松田さんと伊達さんの会話を聞きながら目を瞬かせる。
ふるや、とは誰のことなのかわからないが、安室さんの名前が出たということはこの人達は安室さんを知っているのか?状況がよくわからない私の目の前で二人の会話は続く。

「…くそ、似合わねぇ。あいつ学生の頃そういうのとはあんまり縁がなさそうだったじゃねぇかよ、諸伏とばっかつるんでたし。俺たちの中じゃ萩原が一番モテてただろうが」
「松田、お前二人のことを応援したいのかそうじゃないのかどっちなんだ?僻みにしか聞こえないぞ。そういうお前も萩原とつるむことが多かっただろ」
「うるっせぇほっとけ」

私にはよくわからない会話なのは間違いがない。
学生の頃って、松田さんも伊達さんも萩原さんも皆学生時代の同級生?…あいつっていうのはどうやら安室さんのことみたいだし…となると、ヒロさんは?…もろぶし、っていうのがもしかしてヒロさんの苗字だったりするのかな。
ぽかん、としていたら、松田さんが私の方に視線を向けた。

「で、覚悟は決まったか」
「…覚悟、ですか」

ごめんなさい、何のことだろう。
覚悟とは、何のことを指して言っているのかわからない。

「全てを知る覚悟、ってとこかなぁ」

ふらり、とどこからともなく現れたのは萩さんだった。
萩さんは軽く手を上げながら私達の方に歩み寄ると、ポケットから何かを取り出して私の方へと差し出してくる。
それはもう、見なくても私には何だかわかっていた。

「おう、萩原。見つかったのか」
「何とかな」
「とか何とか言って、ずっと隠し持ってたんじゃねぇのかよ」
「まっさか。そんな不誠実なこと、俺はしませんよ。一番のモテ男だしね」
「それ関係ねぇだろ」

仲が良いんだなぁ、と思いながら萩さんの手の上のものを見つめる。
ブルーグレーの欠片。恐らくは、松田さん、伊達さん、ヒロさんに見せてもらったものの最後の一欠片。これで全部揃った、ということなんだと思うけど…じゃあ、これで何かが起こるのだろうか?
私にとって大切なものだと思ってる、と言っていた。けれどそれを決めるのは私自身だとも。

「ミナちゃん」

伊達さんの声に視線を向ける。伊達さんは、とても真剣な目をしていた。

「ここは、あんたの夢の中だ。決して交わらない時間やものが、唯一交われる場所ってわけさ」
「そう。だから俺達は君と接触することが出来る。いやぁ
夢って便利だよねぇ、ほんと」
「夢の中から現実に持ち帰れるもんは多くはねぇ。だからどうしたいのかはお前が決めろ。お前は三択の中から選ぶことが出来る」

伊達さんに続いて萩さん、松田さんが言葉を繋げていく。
松田さんは指をぴ、と一本立てた。

「何も見ず、知らないまま帰る。お前の無くした記憶が戻るかどうかはわからねぇし、俺達も選んだ後のお前にそこまでは関与出来ねぇ。…でもま、安室サンが面倒見てくれるんだろうし、それも悪くはねぇだろうよ」

松田さんは手をポケットに突っ込むと、そのまま軽く肩を竦めた。次に萩さんが指を一本立てて、にこりと笑みを浮かべる。

「真実を見る。君は無くした記憶の全てを今ここで知ることになる。他人事じゃないぜ。自分の事として受け止めてもらうし、それは正直結構きついもんだと俺も思う」
「…それはつまり、ここで私の記憶が戻るってことですか?」
「まぁ、一時的に、って感じかな。その後その記憶をどうするかは君次第」

それはどういうことかと尋ねようとしたら、伊達さんが最後に指を立てて私を見た。

「つまり、こうだ。真実を見た後、ミナちゃんはその記憶を捨てるか、持ち帰るか、選ぶことが出来るってわけだ。もちろん萩原の言った通り、あんたにとっては酷な記憶だろうさ。それを見る見ないも、あんたには選ぶ権利がある」

何も知らないまま、見ないまま、帰る。
全てを見て、その記憶を切り捨てる。
真実を知り、その記憶を持ち帰る。

その三つが、今私に選べる三択。
真実は私にとって酷なものであるらしい。酷なものだから、以前の私は捨てようとして…そうして失ったのだろうか。
その真実を知り、記憶を取り戻して…私は耐えられるのだろうか。記憶を持ち帰ることが出来るのだろうか。
今ここでその全てを切り捨てて、知らないまま帰るのもひとつの道。
全て、私に委ねられている。

「どうすんだ。お前が決めろ」

松田さんの声に、私はぎゅうと手を握りしめる。
無くした記憶。それを、私は一体どうしたいのか。
目を閉じると浮かぶのは、大好きな祖父母…ではなく、安室さんの姿だった。
手を伸ばしたら届くのに、今の私からは遠い人。遠く感じるのは、きっと私のせい。だったら私は。
私は。

「真実を、知りたいです」


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