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自分の息を吸い込む音で目が覚めた。
見上げる天井は歪んでいて、どうしてと瞬きをして自分が泣いていたことに気付く。…涙が視界を邪魔して、歪んで見えていたみたいだ。瞬きをすると涙が流れ落ちて少しだけ視界が明瞭になるけど、すぐにまた視界は歪んでしまった。
ゆっくりと視線を動かして窓の外を見る。

「…朝」

…昨日、どうしたんだっけ。
安室さんから私のものだっていうスマートフォンを受け取って、明日退院だからという話を聞いて…そうだ、安室さんの家に行くのか、蘭さんの家に行くのかを決めるように言われて、それで。
その後はただぼんやりと過ごして…退院したらどうするのかって、ずっと考えていた気がする。夕食を食べて、病院のシャワーを借りて病室に戻ってからの記憶が曖昧だ。きっとそのまま寝落ちたんだろう。

「……、」

ゆっくりと体を起こして、涙を拭う。
拭っても、拭っても、涙が止まらない。しくしくと胸が痛んで、涙腺はまるで壊れてしまったかのよう。
とても、とても長い夢を見ていた気がする。悲しくて冷たくて苦しくて、けれど優しくて、温かくて、幸せで、ほんの少しだけ寂しい夢。ここ数日夢をよく見るなと思っていたけど、こんな長く感じる夢は初めてかもしれない。…内容はぼやけてしまっていてほとんど覚えていないけど。

「あむろさん、」

ぽつり、と呟いて目を見開く。
ぼんやりとしていた輪郭がハッキリとして、私の記憶が勢いよく彩られていく。強い耳鳴りと頭痛に頭を押さえる。
なにこれ。痛い。苦しい。あまりの痛さに息が詰まって、布団に頭を押し付ける。

「っ…た、」

こんこん、と病室のノックが聞こえたけど、私は痛みでそれどころじゃない。痛い。頭が割れてしまいそう。
涙は止まらないし、痛みは強くなる一方だし、誰でもいいから助けて欲しい。

「失礼しまーす」
「ミナさん、おはようございま…、…ミナさん?!」

あぁ、この声はコナンくんと蘭ちゃんだ。バタバタとこちらに駆け寄る音の後に、そっと背中を支えられたのがわかった。

「ミナさん?!どうしたの?!」
「…た、…いたい、」
「痛いって、頭ですか?!どうしよう、ナースコール」
「待って、」

蘭ちゃんがナースコールに手を伸ばすのが目の端で見えて、その手を咄嗟に掴んで止める。
ずきり、ずきり。痛みはまだ脳を揺さぶっているけれど、蘭ちゃんとコナンくんが来てくれて少しずつ和らいでいる気がする。少しずつ耳鳴りも治まって、私はゆっくりと顔を上げた。
心配そうにこちらを見つめるコナンくんと、蘭ちゃん。…二人にもきっと、ものすごくたくさん心配をかけてしまった。心配をかけて、更には酷いことも言って蘭ちゃんを泣かせてしまった。それでも彼女は一生懸命記憶の無い私に向き合ってくれて、コナンくんはたくさん私に話をしてくれて…傍にいてくれた。
こんな、大切なものを切り捨てようとしてたなんて…考えて、怖くなった。
記憶がなくたって関係がない。記憶なんて取り戻さなくてもいい。無くたって困るものじゃない。そんなの全部、身勝手な言葉だった。

「蘭ちゃん、ごめんね。私、酷いこと言った」

私がそう言うと、蘭ちゃんははっと息を飲んで目を丸くした。
私自身の記憶なのに、私自身がちゃんと理解していなかった。記憶の大切さを蘭ちゃんやコナンくんの方がちゃんと知っていて…でも、それを強く押し付けることなく、見守ろうとしてくれた。
私は、なんて恵まれているんだろう。なんて幸せなんだろう。

「蘭ちゃんの言った通りだった。無くした記憶は…私にとって、とっても大切なもので。この記憶を取り戻せなかったらって今考えて、すごく怖くなった」
「ミナさん、」
「コナンくんも。…たくさん、たくさん心配かけちゃってごめんね」

頭の痛みも、耳鳴りも。そんな痛み振り払って、ちゃんと伝えなきゃ。溢れる涙を強く拭う。
私は、自分のことを「自分なんか」「自分なんて」と思う。自分に自信などないし、自惚れられるほど大層な人間じゃないことを知っている。
けどきっと私は、私の大切な人達にたくさん想われていた。蘭ちゃんやコナンくん、少年探偵団の皆、快斗くん。…透さん。ここで「私なんか」と言うのは、そんな皆の気持ちを踏み躙ることになる。そんなことはしたくない。自惚れるのと、想いを受け取るのは違う。

「あのね、私、もう大丈夫だから」

はっきりとそう告げると、言葉を失ったままの蘭ちゃんの目にみるみるうちに涙が浮かんだ。コナンくんも息を飲んで唇を引き結び、驚いた表情でこちらを凝視している。

「…ミナ、さん。…記憶が、」
「うん。…いっぱい、いっぱい心配かけてごめんね」

瞬間、蘭ちゃんにぎゅうと強く抱きしめられた。その体は小さく震えていて、耳元では微かな啜り泣きが聞こえる。
私の為に誰かが泣いてくれる。それって、きっととても尊いことだ。蘭ちゃんを抱き返しながら、こんな優しい子に酷いことを言ってしまった罪悪感が胸を刺した。

「…っ、ボク、安室さん呼んでくる!!」

そう言い残してコナンくんが慌てたように病室から飛び出していく。そっか、透さんも来ているのか。…それもそうか、彼は昨日退院の時には迎えに来ると言ったんだから。
…もしかして、コナンくんと蘭ちゃんは透さんと一緒にここに来たのだろうか。私が透さんの家でも蘭ちゃんのお家でも選びやすいように、どちらにでも行けるように一緒に来てくれたのかな、なんて考える。

「っミナさぁん…!よ、良かったぁ…!」
「…うん、蘭ちゃん、ありがとう、ごめんね」
「あの、ッ…園子や、世良ちゃんも、すごく心配してたんです、父も、ッ…皆ミナさんに会いたがってて、安室さんも、すっごく心配してて…!」

透さんに会いたいと思う反面、記憶を取り戻した今どんな顔で彼に会えばいいのかよくわからない。
ジン、ウォッカ…ベルモット。そして、バーボン。それは私が知ってはいけない領域の話。あの時の話も、きちんと透さんと話さなければいけないだろうし、あの時の自分の行動を心から申し訳なく思う。
私は記憶を失ってから、彼に二度目の恋をした。記憶があった頃の自分を妬ましく思ったし、彼とどう向き合っていったらいいのか、きちんと考えられていなかった。
…私は、透さんと会う資格が、あるのだろうか。


──────────


病室を飛び出して、安室さんの姿を探してひた走る。
何度か看護師さんに走らないでと注意されたけど、正直今はそれどころではない。ごめんなさい、と口先だけの謝罪を返しながらオレの足は止まらない。

「安室さん!!」

受付で何やら手続きを進めていたらしい安室さんの姿を見つけて、オレは声を張り上げた。弾かれたように振り向いた安室さんは目を瞬かせて、すぐに何かがあったと察したらしく目を細める。察しが良いと助かるな。
オレは安室さんに駆け寄って、その手を掴んで引っ張った。

「コナンくん、何が」
「ミナさんの記憶が戻った!」

そう告げた瞬間、安室さんは小さく息を飲んだ。そうしてあろうことかオレの体を抱え上げ、そのまま引き止める看護師さんの声にも構わず病室に向かって駆け出したのである。

「ちょ、ちょっと安室さん!さすがに大人が走るのはまずいんじゃ…!」
「大丈夫誰かにぶつかるようなヘマはしない」

そういう問題か?!子供だということを利用して全速力で廊下を走ったオレも人のことは言えないけど!
けれど見上げる安室さんの横顔は真剣で、オレはそれ以上何かを言うのをやめた。自分に当て嵌めて考えてみたら簡単だった。
蘭もミナさんに話していたけど、以前蘭は記憶を失ったことがある。ミナさんとは違って、生活していく上で必要な知識以外…自分のことさえ忘れてしまったんだった。面倒な事件に巻き込まれて、最終的に犯人に追い詰められた時にトロピカルランドで記憶を取り戻したんだけど…例えば。例えばの話だ。
蘭があの時、「新一なんて知らない。思い出さなくたっていい」と言っていたとしたら、どうだろう。…想像しただけで結構なダメージだ。正直凹む。
ミナさんが最初に目を覚ました後、安室さんとどんな内容の話をしたのかは知らない。でもきっと、安室さんは一度はミナさんに拒絶されているはずだ。…まぁそれは勘でしかないというか…安室さんの様子を見ていてなんとなく感じただけだからはっきりとはわからないけど。
安室さんは彼女を助けるためにずっと動いていて…けど、目の前で自分の大切な人が自ら命を絶とうとした。
どうしてミナさんは自殺を選ぼうとしたのか。安室さんから問われたことだった。結果として阻止されたし記憶も戻ったなら彼女に聞けばいいだけなのかもしれないが、安室さん的には複雑だろう。
ミナさんが自殺を選ぼうとした理由。安室さんに考えることをやめないでと、オレは言った。安室さんの中で、そのことに関する結論は出たのだろうか。

「ミナさん!」

安室さんはオレを抱えたまま病室に飛び込んだ。
視界の先には、ミナさんに抱き着いた蘭の姿。蘭はオレ達に気付くと顔を上げて、ぐすんと鼻を小さく啜って涙を拭った。…すっかり目元も鼻も赤くなってしまっている。
蘭がミナさんから体を離してゆっくり立ち上がるのを、安室さんはじっと見つめていた。それからはっと気付いて、俺の体を床に下ろしてくれる。

「安室さん、その。…私達、外で待ってるので」

蘭はそう言って笑うと、軽く振り向いてミナさんの方に視線を向ける。
ミナさんは、きゅっと唇を引き結んで安室さんを見つめていた。散々蘭と一緒に泣いただろうに、それでも彼女の涙は止まることを知らない。そんなミナさんを見ながら、安室さんも動くことが出来ないようで。
オレは安室さんの後ろに回ると、その背中を両手で軽く押した。安室さんはふらりと一歩前に足を出して、再び立ち止まる。
くそ、もどかしい。
もう一発強く押すか、と思ったところで、ミナさんが動いた。

「……とおる、さん」

小さな呟き。今にも消え入りそうな微かな声。不安で、それでも心から焦がれているのがわかる、そんな声。ほんの少しだけ安室さんの方に伸ばされた指先は震えていた。
安室さんを動かすには、充分だった。



蘭に手を引かれて病室を出る。横目にベッドの方を見れば、ミナさんを強く抱きしめる安室さんの姿があった。
蘭と一緒に廊下の椅子に腰を下ろし、オレは尋ねた。

「ミナさんと、何か話した?」
「ん?うん。…ミナさんね、安室さんとどんな顔して会えばいいのかわからないって…何を言ったらいいかわからないって言ってたの」

一度は記憶なんていらないと言ってしまった手前、恋人である安室さんと顔を合わせにくいのはわからないでもないな、と思いながら蘭の話の続きを促す。

「だからね、そんなの理屈じゃないですよって伝えたんだ。ミナさんも安室さんも…お互いにすごく想い合ってるじゃない?どんな顔をしたらいいかとか、何を話したらいいかなんて後回しでいいのよ。…実際、言葉なんていらなかったでしょ?」

蘭はそう言って、ふふ、と笑った。
言葉なんていらなかった。その通りだ。強く抱き合う二人の姿が、全てを物語っていた。ミナさんには安室さんが必要だし、安室さんにはミナさんが必要なんだと思う。

「…素敵だなぁって思ったの」
「素敵?」

どういうことだろう、と思いながら蘭を見上げると、蘭はほんのりと頬を染めて柔らかく微笑んでいた。その表情に思わず見惚れ、ぽかんと口を開ける。

「…言葉なんていらなくて…でも、お互いにすごく想い合ってて。いつかあんな二人みたいに、なれたらいいなぁって」

一瞬間を置いて、その言葉の意味理解してぼっと顔が熱くなる。慌てて蘭から顔を背けて床に視線を向けた。
あんな二人みたいになれたらいいなって。なれたらいいなって。二人って誰だよ。蘭とオレしかいねぇだろ。やべぇ顔が緩む。奥歯を強く噛み締めることでなんとか表情を保とうとするものの上手くいかない。
今すぐ新一に戻りたい。



──“あなたに私は殺させない”、“あなたに騙されるわけにはいかない”…そう言っていたよ

ミナさんが自殺を選ぼうとした理由。
実際のことはミナさんにしかわからない。ただ、そのミナさんの言葉をオレなりに解釈し、祈るのであれば。
やはりそれは、きっと安室さんに寄り添おうとした結果だったんじゃないだろうか。安室さんの手を汚させない為に…自分の死を背負わせない為に。
ミナさんなりに、安室さんを守ろうとした結果だったんじゃないかと、オレは思う。


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