146

透さんに強く抱き締められながら、私は自分が満たされていくのを感じていた。間近に感じる彼の体温や匂い、息遣い、それらが私を包んで多幸感でいっぱいになる。
ずっとこの人に会いたかった。欠けたものを取り戻した上でこの人に会い、触れたかった。抱き締められるだけじゃ物足りなくて、たまらなくなって透さんの背中に腕を回してしがみつく。ほんの少しの隙間さえ埋めて、ぴったりとくっついていたかった。

「ミナさん、」

透さんの声が鼓膜を震わせる。きゅうと胸が痛んで彼の肩口に顔を埋めた。散々蘭ちゃんと泣いたのに、やっぱり私の涙腺は壊れてしまったみたいだ。涙は止まらず溢れ続ける。
透さんが好きだ。記憶と一緒に溢れる想いも戻ってきて、私の許容量を超えてしまったのかもしれない。この人のことが、好きで、好きで、たまらない。

「透、さん、」
「ミナさん」

彼に名前を呼ばれるのが心地良い。
不意に少し体を離した透さんを見上げれば、そのまま深く口付けられて目を見開いた。
優しく後頭部を支えてくれるのに私の唇を割り開き口内に舌を伸ばす彼の動きは性急で、思わず軽く体を引こうとしたらそれもあっさりと制された。
透さんの舌が私のそれを絡め取り、ゆるりと舐りながら唾液を啜られる。脳髄がじんと痺れて、無意識に体から力が抜けていく。

「ふ、ぁ、」

甘い声が零れて頬に熱が上った。そんな声さえ飲み込むような口付けにくらくらする。透さんの服を掴むのがやっとで、キスをしているうちにもっとと強請ってしまいそうになる。いつから私はこんなに貪欲になったんだろう。自分が怖くなる。

「…ミナさん、…良かった、」

唇を離した透さんが、こつんと額を合わせてくる。その声はいつもよりもずっと静かで、凪いでいるようでいて…ほんの少し震えていた。
透さんがそっと私の涙を拭ってくれるけど、止まらない涙はそんな彼の手をも濡らしていく。

「透さん、…透さん、ごめんなさい…ごめんなさい、」
「何を謝るんです」
「たくさん、迷惑も心配もかけてしまって、」
「迷惑なんて思っていませんよ。…心配は、ものすごくしましたけどね」

くすりと笑った透さんはもう一度だけ軽く私に口付けてそっと体を離した。
透さんと話したいこともたくさんあるけど、それは全て後でゆっくりの方が良いだろう。ようやく壊れた涙腺も落ち着いてきたらしく、私は涙をぐいと拭った。

「問題ないとは思いますが、記憶が戻ったことを先生に報告しなければなりません。簡単な診察があるかもしれませんが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です…あの、透さん」

きっと念の為脳の検査とか受ける必要があるのかもしれないなと思いながら頷いて、それから私は顔を上げて透さんを見つめた。透さんは不思議そうに目を瞬かせてほんの少し首を傾げている。

「…あの、…私、透さんと一緒に帰ります。…透さんと一緒に、行きたいです」

蘭ちゃんのお家に行くのもとても魅力的だけど…でも今は透さんと一緒に、透さんの家に帰りたい。ハロにも会いたい。透さんの家は、私がこの世界に来てからずっと私の居場所だった。あそこに帰りたいと心から思う。
透さんはそんな私に目を瞬かせると、とびきり優しく微笑んで私の頭をそっと撫でた。

「はい。…一緒に帰りましょう」


***


その後透さんが先生と看護師さんを呼んでくれて記憶が戻った旨を伝えてくれた。それを受けて簡単なバイタルチェックと記憶の齟齬がないかの確認をしてもらい、晴れて退院となった。腕の怪我はまだ治っていないからしばらくは通院が必要になる。

「…でも、本当に良かった…あの、今だから言いますけど、私ミナさんに“蘭さん”って言われたのショックだったんですからね…!」
「う、ごめん…その時のこともちゃんと覚えてるよ…」

バイタルチェック等々で私の退院の時間は大分ずれ込み遅くなってしまったのだが、蘭ちゃんとコナンくんは気にした様子もなく待ってくれていた。私が透さんの家に帰るというのもなんとなく二人は予想していたそうで、ならせっかくだからポアロでお茶でも、と透さんの車で向かっているところだ。
実際のところ私の記憶がどうなっているかというと。記憶を無くしていた間のことは、きちんと覚えているのである。故に皆の心配や言葉がぐさぐさと刺さるのである。なんであんな言い方しちゃったんだ、記憶が無かった頃の私…なんて思っちゃったりするのである。

「謝ったって許しません!ですから、罰として今度うちに泊まりに来てください」
「えっ?蘭ちゃんの家に?」
「そうです。私、ミナさんとお話したいことたっくさんあるんですよ!」

私は後部座席に蘭ちゃんと一緒に座っていて、助手席にはコナンくんが座っている。蘭ちゃんは私の手を両手でしっかりと握ると晴れやかに笑った。

「絶対、今度お泊まりに来てくださいね!えっと、安室さんほどの料理は無理ですけど…腕を振るうので」

ほんのり照れ臭そうに笑いながら言う蘭ちゃんに胸がきゅんとした。可愛い。
ものすごくものすごく心配をかけてしまったし酷いことも言ってしまった。泊まりに来て欲しいと言うのならそんなの喜んで行きたいと思う。罰でもなんでもない。何か美味しいお土産でも持って、今度お邪魔しようと決めた。

「うん。…必ず、お泊まりに行くね」
「はい!約束ですよ 」

仕事も早く復帰したいけど、いつ復帰出来るだろうとぼんやりと考える。嶺さんにも心配をかけてしまったし気も遣わせてしまった。本当に優しくて素敵なオーナーだな、と思う反面迷惑をかけてしまうことが心苦しい。
それに、快斗くんも。わざわざキッドの姿で私の病室まで来てくれた。今思い返せば病室でのキッドの言葉は、私が初めてキッドと会った時のやり取りをなぞっていたんだなとわかる。…記憶喪失のことに関しても彼は知っていたんだろうし、心配もさせてしまったんだろうな。後でメールを入れておこう。

「着きましたよ」

緩やかに車が止まって透さんがこちらを振り向いた。車は丁度ポアロの前に着いていて、助手席のコナンくんが先に降りて次いで後部座席の私達も車を降りる。

「透さん、ありがとうございました」
「とんでもない。駐車場に車を停めてきますから、先にポアロに入っていてください」
「安室さんもすぐ来るよね?何か注文しておこうか?」
「じゃあブレンドのホットを頼むよ」
「わかった!」

蘭ちゃん、コナンくんと透さんの車が走り出すのを見送り、そのままポアロに足を向ける。…そういえばポアロに来るのも少し久しぶりかもしれない。コナンくんがドアを開けてくれて、涼やかなドアベルの音と共に中へと入る。

「いらっしゃいませ…ミナさん!」

カウンターに立っていたのは梓さん。梓さんは私を見るなり目を丸くして、慌てたようにカウンター内から出てきて私の前へとやってきた。それから頭から爪先までをじっくりと見つめ、私の目を見て、しゅんと眉尻を下げる。

「ミナさん…!もう大丈夫なんですか?!安室さんから交通事故で入院って聞いて、ずっと心配してて…!」
「こんにちは、梓さん。心配かけてごめんなさい、もう大丈夫」

私が笑みを浮かべてそう言うと、梓さんはほっと胸を撫で下ろしたようだった。改めて笑みを浮かべ、私達をソファーのテーブル席の方へと案内してくれる。
店内のお客さんは私達だけだ。丁度私達が来る前に誰か帰ったらしく、カウンター席には空のティーカップが置かれていた。

「ご注文はどうします?」
「私はカフェラテのホットを」
「あ、じゃあ私も!コナンくんはオレンジジュースでいい?」
「うん!あと、安室さんがこれから来るからブレンドのホットも!」
「あ、そうなんだ。かしこまりました」

梓さんは笑顔で頷いてカウンターの奥へ戻っていく。
のんびりとしたポアロの空気、落ち着くなぁ。柔らかいコーヒーの匂いが懐かしくて、私はゆっくりと息を吐きながら目を細めた。

「でも、お元気そうで良かった…。酷い交通事故だったって聞いたから」

梓さんがカウンターの奥から声をかけてくる。
実際は厄介な事件に巻き込まれてしまって、それによる負傷だったんだけど。交通事故に遭ったことになっているのはわかっているが、その辺りの情報は私はよく知らない。私は誤魔化すように笑いながら首を傾げた。

「その辺のこと私あんまり覚えてなくて…その日は蘭ちゃんや園子ちゃん、世良ちゃんと一緒にショッピングモールに行ったんだったよね」
「そうです。ミナさん、スマホ無くしちゃって…それはすぐに見つかって戻ってきたんですけど、その後私達と別れて帰り道で交通事故に遭ったって」

私と同じ顔をしたあの女性は、私の気を失わせた後に服を入れ替えて素知らぬ顔で蘭ちゃん達と合流した。その後どうしてジンやウォッカの所に連れてこられてしまったのかは分からないけど…あの人は私のことを“身代わり”と言ったのだ。私はあの人の代わりに、死ぬ予定だった。
けれどあの女性はジンに額を撃ち抜かれた。私は彼女が絶命するのを、目の前で見ていた。任務、幹部、始末…そして、お酒の名前を持つ人達。透さんはバーボンと呼ばれていて、お酒の名前がコードネームのようなものであることは想像出来る。私が持つ情報から導き出せることは何だろう。ジンやウォッカ、彼らが正義の人間でないことだけははっきりしている。けれどそう一括りにしてしまうと、バーボン…透さんの存在は、一体どういう立ち位置になるんだろう?はっきり透さんの口から聞いたわけではないけど、コナンくんが彼を警察官と呼んでいたことや風見さんと繋がっていることからも、私は彼が警察官だと思っている。そしてそれを大っぴらに言えないということは、身分秘匿捜査を行う秘密捜査官。
そこまで考えて繋がり導き出せることは…透さんが、ジンやウォッカのいる悪い組織に潜入している捜査官である、ということ。そしてあの場で私を助けられたのは、透さんしかいなかった。

「ミナさん?」

隣に座っていたコナンくんに袖を引かれてはっとした。ぼんやりとテーブルに視線を落としてしまっていたらしく、顔を上げると心配そうな表情を浮かべた蘭ちゃんとコナンくん、梓さんがこちらを見つめていた。
テーブルには注文した私達の飲み物も置かれている。運ばれてきたことにも気付かなかった。

「ミナさん、顔色悪いですよ」
「退院したばかりで本調子じゃないのに、気付かなくてごめんなさい…ミナさん、無理しないでくださいね」
「…うん、ごめんね」

私、また気を遣わせてしまったなぁ。けれど今は、確かに記憶喪失に至るまでの話は止めた方がいい気がした。
倉庫での光景が、フラッシュバックのように脳裏を過ぎる。ジンやウォッカの視線。視界を染める赤。銃声と、バーボンと対峙した時の深い痛み。腕の傷が疼いて、ほんの少しだけ目眩がした。

「あ、安室さん来たよ」

コナンくんの声に顔を上げて窓の方を見れば、透さんがドアを開けて入ってくるところだった。ドアベルの音に目眩も落ち着いていく。

「お待たせしました。…どうしました?」

透さんは店内に入り、私の向かい側へと腰を下ろす。微妙な空気にいち早く気付いた彼は、少し不思議そうに首を傾げている。

「いえ、何でもないんです」
「…ミナさん、顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、大丈夫です」

これ以上皆に心配はかけたくない、しっかりしないと。軽く頭を振って笑みを浮かべた。
透さんは少しじっと私の顔を見てから、私の隣のコナンくんへと視線を移す。コナンくんは透さんと目が合うと小さく首を振った。あれ、今のってもしかしてアイコンタクト的な、なんかそういう…。
透さんは自分の目の前にあったコーヒーを軽く口にすると、そのまま立ち上がった。それから私の怪我をしていない方の手を取る。

「梓さん、すみません。お会計お願い出来ますか?」
「はい」
「えっ、あの、ちょっと」

透さんに手を引かれて席を立ち、どうしたものかと蘭ちゃんやコナンくんに視線を向ける。けれど二人とも少しほっとしたように笑うだけだ。え、なんでそんな、今来たばっかりなのに。

「ミナさん、今日は帰ってゆっくり休んだ方がいいよ」
「で、でも」
「今度ゆっくりお茶しましょう。お泊まりにも来てもらわないといけないですし」
「え、えぇ…?」
「コナンくんも蘭さんもすみません。今日はありがとうございました。ここの支払いは僕がしますから」
「とんでもない。ありがとうございます」
「安室さん、ごちそーさま!」

わけもわからない私を他所に話は進み、私は透さんに連れられるままポアロのレジまで来てしまった。透さんは全員分の会計を済ませて梓さんとシフトの話をしている。
…皆に帰った方がいいと言われるくらい、私酷い顔してるのかな。確かにいろいろ考えて目眩がしたのは事実だけど、でもそんなの本当に少しだけなのに。

「ミナさん」

コナンくんに声をかけられて視線を向ける。

「安室さんがいれば安心だからさ」

コナンくんの言葉に、ぱちりと目を瞬かせた。
どういう意味だろうと思う。何故だかわからないけど、コナンくんに全てを見透かされているような気がした。…そんな、事情を知っているはずなんてないのに。
困惑する私を見ても、コナンくんはほんの少しだけ小首を傾げ、小さく笑うだけだった。


Back Next

戻る