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「掴まってください」
「…えっと、…ありがとうございます…?」

透さんに連れられてポアロを出て、そのまま私は車に乗せられて少し久しぶりのアパートへと帰ってきた。
車を降りようとすれば透さんに制され、わざわざ助手席側まで回り込んだ透さんに手を差し出されたところである。一人でも歩けるのになと思いながらも、差し出された好きな人の手を無下に断ることなど出来ようはずもない。おずおずと手を取れば優しく握られ、私はそのまま車から降りた。

「足元に気を付けてくださいね」
「あ、はい」

過保護すぎではないか、と目を瞬かせた。
車のロックをかけた透さんに手を引かれて歩き出しながら、もう何度も通ったアパートへの道を行く。繋いだ手の力は優しいけど、振り解けないような強さを感じる。それが酷く安心して、過保護にされることに対する戸惑いを塗り潰してしまうのだからどうしようもない。自覚はあるが、私は透さんに関しては事ちょろいのである。
繋いだ手に少しだけ力を込めたら、柔らかく握り返されて胸がとくりと音を立てる。

「ハロが」
「…えっ?」
「ハロが、寂しがっていますよ。あなたに会いたがっていました」

私のほんの少し先を歩く透さんが軽く振り返り、目元を和らげて微笑む。ハロに会うのは少し久しぶりだ。…会いたかったことどころかハロの存在さえ忘れてしまっていたから説得力はないんだけど、私だってハロに会いたい。
それにしても、ハロが私に会いたがっているなんてわかるものなのだろうか。思わず苦笑が浮かんだ。

「…ハロの気持ちなんてわかるものですか?」
「わかりますよ。所在なさげにしていたり…少し寂しそうに鳴いたり。…うさぎのぬいぐるみを抱え込んで眠っていたり、ね」
「…うさぎのぬいぐるみって、もしかしなくてもれいくんのことですか?」
「ええ、そうですよ。あなたの匂いが強く残っていたんでしょうね」

うさぎのれいくんを抱え込んで眠っているハロなんて、想像しただけで可愛さに胸がきゅうんとときめいた。…私がいなくなって、そんな寂しく思ってくれていたんだろうか。だとしたら嬉しいし…そんな寝方をしていたところを写真に収めたかった…。

「後で送りますね」
「えっ?何をですか?」
「ハロがうさぎのぬいぐるみを抱え込んで寝ている写真、ですよ」
「撮ってくださったんですか!」
「えぇ。あなたならきっと見たがるだろうと思って」
「み、見たいです!」

絶対可愛いに決まってる!息巻く私に透さんはくすくすと笑い、アパートの階段を登っていく。
歩き慣れた道。歩き慣れたアパートの廊下。そして今や住み慣れた透さんの部屋。慣れ親しんだものばかりで私の生活に染み込んだものなのに、部屋のドアが見えてくるとほんの少しの緊張を覚えた。
どうしても記憶を無くしていた時の透さんへの態度だとか、この世界への気持ちだとか…そういうものを思い出してしまって、私はここにいていいのかわからなくなる。
ここに帰りたいと、透さんと一緒に帰りたいと思った。それは事実で今もそう思っているのに、足が竦んで動かなくなる。

「ミナさん?」

不意に立ち止まった私を、振り向いた透さんが不思議そうに目を瞬かせて見つめていた。
…大丈夫、コナンくんも透さんがいれば安心だって言ってくれた。何も怖いことなんてない。そう考えて、私は自分が怖がっているということに気付く。
何が怖いのか、自分でもよくわからない。透さんといろいろ話さなくてはいけないこともあるけど、それは自分の中ではもう割り切っているというか…覚悟もちゃんと決まっている。
ただなんというか、…私自身の立ち位置というか、存在というか。そういうのが、曖昧な気がしてしまって。繋いだ透さんの手の温もりだけが現実のような、そんな不安定な場所に立っているような気がしてしまって。
ゆっくりと呼吸をして視線を落とし、私はそのまま不意によろめいた。一歩足を踏み出してたたらを踏む。

「っ、」
「ミナさん、」

透さんの手が伸ばされて体を支えてくれる。
顔を上げると透さんと目が合って、彼は心配そうに私を見つめてほんの少しだけ眉を下げた。

「ご、ごめんなさい」
「どうしました。目眩でも?」
「…いえ…」

小さく返事をしながら、私は背後を振り返る。誰もいない。当然だ。誰かがいれば透さんが気付くはずだし、そもそも誰かの気配なんてなかった。今の今まで。

「………、」

でも私は今、誰かに背中をそっと押されたのだ。とん、と優しく暖かい力に。その暖かさは、ここ数日見ていた気がする夢の温度と似ている気がした。もうほとんど覚えていないあの真っ白な世界の夢。とても優しくて、私を包み込んでくれた温かい夢。
透さんに支えられ、触れる箇所がじんわりと熱を持つ。
不思議な力なんてそもそもあまり信じている方ではなかったけど、でも、世界を越えるなんてことを経験してしまったらそういうこともあるのかも、なんて考えてしまって。
透さんを見上げて、不意に私は口を開いた。

「…透さん、もしかしてものすごく強い守護霊とかいたりします?」
「はい?」

するりと自分の口から飛び出した問いかけはまるで意味不明で、口に出してからはっとする。
守護霊ってなんだ。突然そんなインスピリチュアル的な話をされたところで透さんも困るに決まってる。案の定彼はぽかんと口を開けて目を瞬かせている。私は慌てて首を横に振った。

「ご、ごめんなさい!なんでもないです、忘れてください」
「守護霊、ですか」

あれっ、なんか返答が返ってきた。私としては意味のわからない恥ずかしい話題でしかないから今すぐ忘れて欲しいところだが、透さんはふむ、と考え込んで思いの外真剣な目で私を見た。

「僕に守護霊がいるかはわかりませんが…もしも守護霊がいるとしたら、あなたに憑いているのかもしれませんね」
「…え、私ですか?」
「ええ。…恐らくは、かなり強いのが四人ほど」
「よ、四人も?!」

私が目を丸くすると、透さんは楽しそうにくすくすと笑った。それから私の手を引いて、部屋のドアまでの短い距離をゆっくりと歩き出す。

「まぁ、守護霊なんて立派なものではないんでしょうが。…何せガラが悪いもので」
「……え、私の守護霊ガラが悪いんですか」
「良くはないでしょうね」

そうは言うものの、話す透さんの横顔はどこか晴れやかだ。部屋の前までやってくると、透さんは私の手を一度離してポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴へと差し込んで回す。
がちゃん、と解錠の音がして、彼は再度私を振り向いた。

「彼らは僕のことを叱咤したり背中を押したりはしてくれますが、守ってくれるほど甘くはないので」

でも、だから。僕にとって必要なあなたのことを、守ってくれたんでしょうね。
まるで知り合いのことを話すように言う透さんに、私はゆっくりと目を瞬かせた。

「彼ら、って」
「夢を見たんです」

柔らかい声で告げられた言葉に私は首を傾げたが、透さんはそれ以上何も言わなかった。それ以上透さんに聞くこともどうしてだか憚られて、私も自然と口を閉ざす。
きっといつか話してくれるような気がした。
透さんは優しく微笑んで、ドアノブを捻って大きく手前へと引いた。

「ミナさん、お帰りなさい」
「アンッ!アンッ!」

開かれたドアの向こうからハロが飛びついてきて、咄嗟に抱き留める。ほんの少し腕の傷が痛んだけど、私の腕が強ばったのに気付いたのかハロは急に大人しくなって、その代わりに私の顔をめちゃくちゃに舐めた。
くすぐったくて、でも嬉しくて。透さんを見ると笑みを浮かべたまま私とハロを見つめていて。

「ただいまです、」

その全てが愛おしくて、大切で。
大切だと思えることに…大切だと思える記憶があることに、心から感謝した。


***


「透さん、お話があります」

帰宅してから寝室で少し休憩した後、私はひとつ深呼吸をしてからそう切り出した。透さんは私の言葉に目を瞬かせ、それからほんの少しだけ目を細める。

「性急ですね。帰ってきたばかりなのに、ですか?」

モヤモヤを抱えたままなのは嫌だった。きっと透さんは、まだ私は記憶を取り戻したばかりで不安定だからと深い話は先延ばしにするつもりだったんだろうと思う。それは彼の優しさで、それに甘えるのはとても簡単。でもそうやって甘えていたら…私は話をすることがどんどん怖くなってしまう気がした。
今、私の勇気や覚悟が萎んでしまう前に、透さんには私の話を聞いて欲しかった。
私がじっと口を噤んで透さんを見つめると、彼はそんな私の気持ちを察してくれたらしい。小さく溜息を吐いてから苦笑して頷いた。

「…わかりました。僕としてもあなたには話をしておかなければと思っていたので」
「あ、でも待ってください。透さんは、私の話を聞くだけでいいんです」
「え?」

戸惑ったような表情を浮かべる透さんを見て、私はゆっくりと息を吐いた。大丈夫。透さんに話す内容は、ちゃんと決めてきた。
彼の傍にいる為に、私が決めた決まり事。それは知らないふりをするということだ。傷付いたり辛い思いをしても、透さんの傍にいられることが私の幸せだから。知ることがいけないことなら、私は知らないままでいいのだ。
安室透という存在が虚像で、彼が善の顔も悪の顔も持つ人だったとしても…沖矢さんの例え話が事実だったとしても、それを事実と知らなければ形を為さない。

「これから話すのは…全部私の独り言で、ただの妄想に過ぎません」
「ミナさん、」
「私、透さんはもしかしたら警察官なのかも、って思っています」

私が言うと、透さんはほんの少しだけ息を飲んで口を噤んだ。
それからじっと私を見つめ、小さく息を吐く。無言で話の続きを促されて、どうやら聞いてくれるようだとほっとした。

「ポアロでアルバイトをしている探偵さんで…でも実は警察官で。身分を隠さないといけないというなら、もしかしたら身分秘匿捜査を行う秘密捜査官なのかな、なんて。悪い組織にも潜入捜査を行っていたりするのかなって、思っています」

きっと安室透という名前は偽名。本当の彼の名前は、私には知ることが出来ない。知る権利がない。話せないのは事情があるから。安室さんの本名を知られてはきっと困るんだろう。…なんていうのも、私の勝手な妄想だ。

「本職はお巡りさん。その身分を隠して探偵さんをやっていて…ポアロで働いていて。悪い組織ではバーボンさん、なんて呼ばれている?…ふふ、なんだか映画みたいだなって思います」
「ミナさん、」
「でもこれ、全部、私の勝手な想像なんです」

透さんが何かを言う前にはっきりと言い放った。
私はちゃんと、上手く笑えているだろうか。

「全部、私の妄想です。こうなのかも、こうだったりして、そんな私の想像です。私がただ、そう思っただけ」

だから、話せない事実の話は、しなくていいのだ。
彼に気を遣わせてしまったりするくらいなら、私は知らないままでいい。

「ここからは独り言じゃないんですけど。…私を助けてくれたの、透さんですよね。…ありがとうございました。私、また透さんに守ってもらっちゃいました」

死んだ人のことを思えば、私はきっと胸を張って生きていくことなんて出来ない。自分を責める気持ちはある。元彼にしても、私にそっくりなあの女性にしても、もしかしたら救う方法が…円満に終わる方法があったかもしれないから。これはきっと私が背負うべき十字架だ。嫌いな人だろうと、どうでもいい人だろうと、死者を忘れないでいること。それが大切なのだと、誰かから教えてもらった。
でも、それと同時に…守ってもらった命を、助けてもらった命を、大切にしたいとも思う。バーボンと対峙した時、私は自分を殺すことが透さんを守る手段だと思っていた。でも実際は私は透さんに助けられて生きているのだ。
あの状況で、私を救ってくれた。透さんに貰った命も同然じゃないか、なんていうのは言い過ぎだろうか。けれど、それくらいの気持ちはある。

「私の妄想のお話は終わりです。私はきっと、悪い夢を見ていたんだと思います。その悪夢から透さんが助けてくれましたし…その後にとっても優しい夢を見たから。だから、そういうことにしてください。私は悪い夢に取り憑かれて…交通事故に遭って記憶を無くしたんです」

透さんは私の話を聞き終わりしばらく沈黙していたが、少し視線を落としたまま口を開いた。

「あなたは、…本当に」

ぽつりと呟かれたその声はほんの少し掠れていた。

「あなたは僕に、謝罪さえさせないつもりですか?」
「謝罪って、一体なんのですか?私は透さんに感謝こそすれ、謝られる覚えなんてひとつだってないんです」

いつかこの妄想が、事実になる日も来るかもしれない。でもその日が来るまでは、私の妄想のままだ。知ってしまったことも、気づいてしまったことも、私は全て知らないままでいたい。
透さんは深い溜息を吐くと少し乱暴に頭を掻き、そのまま立ち上がった。

「ハロ、ちょっと出てて」

くぅん、と首を傾げるハロを寝室の外に出し、透さんは戸を閉めて振り向いた。それから私に歩み寄り、私を追い詰めるように両手をベッドにつく。
ベッドに寄りかかるようにして座っていた私はその腕から逃れることも出来ず、目を白黒させるしかない。
…こ、これは。…その、俗に言う…壁ドン、というやつになるのだろうか。…壁じゃなくて私の背後にあるのはベッドだけど。

「…透さん…?」
「…あなたの怪我が、治ったら」

間近で見つめられ、囁かれて、頬に熱が上る。

「あなたにたくさん触れたい」

その言葉の意味がわからないほど、私は子供ではなかった。羞恥と期待に顔が熱くなり、恥ずかしくてたまらないのに彼の腕から逃れたくない。
そんな私を見て透さんは小さく笑う。
だから今はこれで我慢します、と呟き、そのまま私に口付けた。



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