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退院してからしばらく経った。
ジンに撃たれた腕の怪我の治りがあまり芳しくなく、何故かと言うと骨折しているわけではないからつい動かしてしまうというのが原因として大きい。塞がりかけた傷も、動かすことでじわじわと開いてしまうというのだ。
痛み止めである程度は凌げるが、そもそもの治りが遅いので根本的な解決にはなっていないのである。退院後、初めて通院した際に主治医の先生にそんな話をされてしまった。
絶対安静というわけでもなく、むしろ引きこもってばかりいるのも良くないと言われるけど…傷を庇っていなければいけないというのはなかなかに難しい。

「仕事はもうしばらくお休みですね」

通院の帰宅後透さんに報告すると、彼は苦笑してそう言った。焦らなくても治らない怪我ではない。時間が解決するでしょうと彼は言い、私の頭を撫でるのだった。
それから、当然と言えば当然なんだけど…私の夢見は悪くなった。自分の中ではもう終わったことのつもりでも、精神的に受けたダメージは誤魔化せないらしい。
ジンやウォッカに脅されたこと。暴力を振るわれたこと。銃で撃たれたこと…それから、人の死を目前で見てしまったこと。以前誘拐された時とは比べ物にならないレベルのストレスだ。手足を動かせない状況で火事の中閉じ込められたのも死の恐怖を感じたけど、あの時とはまた種類の違う恐怖だった。
私と同じ顔の女性が死んだ。そして、私自身も死ぬかと思った。得体の知れない組織の片鱗に触れ、存在を抹消されるのも仕方ないことなのかもしれないと感じた。出来る限り一人ではいたくない。
日中はハロとのんびり過ごしていれば気も紛れるし夜は透さんも出来る限り早く帰ってきてくれるから安心だけど、夢の中まではそうはいかない。
内容はもうほとんど覚えていないが、入院中は優しい夢ばかり見ていた気がするのに、退院してからは夜中に飛び起きることも少なくない。
悪夢がどんなものかは、正直いつも記憶にない。ただ冷たくて暗くて、怖い夢だったということだけを飛び起きた後に感じている。
私が飛び起きると、当然一緒に眠っていた透さんも目を覚ます。彼に迷惑をかけたくないから別々に寝ることも提案してみたのだが、一も二もなく却下された。私が飛び起きて乱れた呼吸を整えていると、透さんはただそっと私を抱き寄せて、落ち着かせるように背中を撫でてくれるのである。大丈夫、大丈夫。そう言葉を繰り返しながら、私が再び眠りにつくまで。
申し訳なさはあるけど、彼のその優しさが嬉しくて甘えてしまうのだからどうしようもない。でも、透さんに大丈夫と言われながら背中を撫でられると、その後はゆっくり眠れるのだ。
蘭ちゃんやコナンくんとは、退院の日に会ったっきりだ。お見舞いに来てくれた少年探偵団の子供達や、園子ちゃん、世良ちゃんともまだ会えていない。私の体力が戻り切っていないということもあるし、積もる話もあるし…私が落ち着いてから、ゆっくりと会って話が出来たらと思う。
…そんなこんなで。
今までの日常そのままには戻れていないけど、時間は確かに全てを解決させてくれるんだろう。ゆっくりゆっくりではあるけど、私の腕の傷と同じように着実に直っていくのだと思う。


***


その日私は、駅前で美味しいと評判の洋菓子店の袋を手に嶺書房へと向かっていた。当然ながら出勤の為ではない。先日の通院の際に、少しずつ傷は良くなっていると言われたけどそれでも未だ日常生活に支障が出るレベルだ。早く復帰したいとは思うけど、無理に復帰して悪化させたり仕事で迷惑をかけたりするのは良くないと思うし、嶺さんもゆっくりでいいと言ってくださっているのでそれに甘えさせてもらっている。
では何故嶺書房に向かっているのか。
今日は土曜日なのである。

「いらっしゃいませー…」

嶺書房のドアを開けると、なんとも退屈そうな間延びした声が店の奥から聞こえてくる。本棚の間を抜けてレジカウンターの方に顔を出せば、だらりと脱力してカウンターに伏せる快斗くんの姿があった。…こらこら、いくら暇でもさすがにもうちょっと取り繕って欲しい。せめて誰が来たのかくらいは確認して欲しかった。

「こんにちは」

仕方ないな、と声をかけるとそれまでの脱力はどこへやら。快斗くんは勢いよくがばりと身を起こし、目を白黒させながら私を見た。言葉を失ってぽかんと口を半開きにしているけど…そんなお化けを見たような顔しなくても。

「…えっ?あれ、…ミナさん?」
「うん。こんにちは」
「えっ?…え?ミナさん、どうしてここに…」
「どうしてだと思う?」

はいこれ、と洋菓子店の袋を差し出せば、快斗くんはぽかんとしながらも受け取ってくれた。
その袋と私の顔を交互に見て…彼は勢い良く椅子から立ち上がり、カウンターに手を置いて身を乗り出した。

「記憶!戻ったんだよな?!」
「か、快斗くん」
「メールで退院したってことは聞いたけど記憶が戻ったかどうかは書いてなかったし、なんつかその、デリケートな話題だからこっちから不躾に聞くこともできねーし…」
「え、あれ、記憶が戻ったこと言ってなかったっけ」
「聞いてねぇよ!」

私はすっかりメールで全て話したつもりでいたけど、改めてスマホを取り出して快斗くんに送ったメールを見てみたら確かに退院したことと、お見舞いありがとうということくらいしか書いていない。…お見舞いに来てくれたのは快斗くんというよりはキッドだったから、この文面で通じても良いと思うけど…でも確かに言葉足らずなのは間違いない。
余計な心配もさせてしまったなと反省する。
快斗くんはレジカウンターの内側へと私を招き入れてくれたので、私は有難くそのまま椅子に腰を下ろした。

「具合はどうなの?記憶以外にも怪我とか、酷かったんだろ」
「うん。まだ今まで通りとまではいかないけど、少しずつ良くなってるよ。仕事も早く復帰したいんだけど、迷惑をかけてしまうかもしれないことを考えるともう少し治ってからの方が安心だし…まだ時間はかかるかなって思ってる」
「いいんだよ、ちゃんと治ってからで。嶺さんも心配してたぜ」
「あ、うん。ここに来る前に嶺さんのお家に寄ってご挨拶してきたんだ。ものすごく心配かけちゃってたんだなぁって反省した」
「そういう反省はしなくていいっつーか…反省とは違うだろ。皆、ミナさんが元気になることを望んでるんだから、そこはありがとうでいいんだよ」
「…そっか。…ありがとう」
「ん、どういたしまして」

快斗くんはへらりと笑うと、私が手渡した袋を開けて中を覗き込んだ。それから中の箱を取り出し、目を瞬かせている。

「で、これは?」
「駅前の洋菓子屋さんのお菓子。心配かけちゃったし、お見舞いのお礼」
「へぇ、美味そう」

快斗くんはチョコレートアイスが好物だと聞いたことがあったけどさすがに溶けるものを渡すわけにもいかず、悩んだ結果チョコレート系のお菓子をメインに詰めてもらった。彼の表情は明るく、喜んでもらえているようでほっとする。

「…でも、まさかキッドがお見舞いに来てくれるとは思わなかったなぁ」

私が言うと、快斗くんはレジカウンターに頬杖をついて私の方に視線を向ける。

「だってさ。記憶ないって聞いてたから」
「うん」
「黒羽快斗で会いに行くより…怪盗キッドとして会いに行った方が、なんつーか…取り繕える気がしたんだ」
「取り繕える?」
「怪盗キッドは俺が演じてる存在に過ぎない。…演じてる方が、忘れられてた時の傷も浅いかと思って」

ぽつり、と呟かれる快斗くんの言葉に、私は小さく息を飲んだ。
わかっていた。自分が失っていた記憶がどれほど大切で尊いものかなんて。私がこの世界に来てからの記憶であり、今いる私の大切な人達の存在はその記憶の中にあるものだ。
その大切な人達もまた…私が無くしていた記憶を、大切なものと思ってくれていたんだろう。

「…ごめんね」

小さく言うと、快斗くんは慌てたように首を振った。

「ち、違うよ!それはその、俺が臆病だっただけっつーか…とにかくっ、ミナさんが…無事で良かったよ」

心からの言葉なんだなと強く伝わってきた。快斗くんは私を真っ直ぐに見つめていて、目じりがほんの少しだけ赤く染まっている。
そこはありがとうでいいんだよ、という言葉を思い出し笑みを浮かべる。

「うん。…ありがとう」

言うと、快斗くんは一瞬間を置いてからすぐに嬉しそうに微笑んだ。
この世界に来てから、前の世界にいたらそうそう経験しないようなこと、味わうことの無い思いをした。誘拐されて殺されかけて、目の前で人が死んだ。人生でしたことの無い大怪我を負い、入院生活を余儀なくされることもあった。犯罪率が半端なく高く、事件はいつも身近なところにあって、確かにこの街は生きにくいところなのだと思う。
…でもそれ以上に素敵な人達と出会い、かけがえのない存在を手に入れた。
私は間違いなく、幸せ者だと思う。


それから少しだけ快斗くんと話をしてから、私は嶺書房を出た。今日は透さんはポアロだけと言っていたから、きっと夕飯を準備して待ってくれているだろう。
歩き出そうとして、足を止める。
薄暗い道の先に佇む人影。はっきりとは見えないけど、私にはそれが誰だかわかっていた。…彼女にここで会うのは、三度目、だろうか。

「元気そうね」

艶やかな声がして、私は小さく息を吐く。
ウェーブのかかった美しいブロンドの髪を揺らしながら、その人はたおやかな身のこなしでこちらに歩み寄ってくる。

「…こんにちは」
「えぇ、こんにちは。…怪我の具合はどうかしら?」
「えっと…まだ完治とはいかないですけど、でも少しずつ良くなってます」
「そう、良かった」

彼女は完全に私に近付かず、数歩離れたところで立ち止まった。それから、口を閉ざしてじっと私を見つめている。
彼女は何故、ここに来たんだろう。私に会いに来たんだろう。私の様子を見る為、なのだろうか。きっと彼女はあの組織の一員。…ジンに意見を言えるあたり、それなりの地位にいる人であることはなんとなく想像がつく。まぁそれは、バーボンさんも同じなんだろうけども。

「あの、」
「…?」
「その、…バーボンさんと一緒に私を助けてくれた…んですよね?えっと、…その節はありがとうございました」

ぺこりと頭を下げる。
少なくともあの時この人とバーボンさんが乗り込んでこなければ、私はウォッカに自白剤を打ち込まれて…挙句には殺されていただろう。それを止めてくれたのは、この女性の「ジン、待って」という一言だ。得体の知れない人だろうと、私を助けてくれたことに変わりはない。

「…あなた、随分と呑気なんじゃない?私は善人じゃないわ」
「でも、助けてくれました。雨の日にここで会った時…言ってくれましたよね。気を付けなさいって」

あの時いろいろと言われて何が何だかわからなかったけど…なんとなく、お姉さんが言っていた「彼」というのはジンのことだったんじゃないかなぁなんて思う。
気を付けるも何も、巨大な力によって捩じ伏せられてしまったというか…私では太刀打ちのしようがないことだったけど、それでもあの時お姉さんは忠告してくれていたのだ。私の為に。

「だから、ありがとうごさいました。…ベルモットさん」

ベルモットさんは、私の言葉にも何も言わなかった。ただ少しの沈黙の後、ほんの少しだけ笑ったのがわかった。

「私はバーボンに手を貸しただけよ」
「いいんです。バーボンさんと一緒に助けに来てくれたから…バーボンさんも、ベルモットさんも、私にとっては恩人なんです」
「おめでたい子ね。でも」

ベルモットさんは数歩離れていた距離を縮め、そっと手を伸ばすと私の頬に触れた。
滑らかな指先が私の頬を撫でる。いい匂いがして目を細めると、ベルモットさんはくすりと笑った。

「…バーボンがあなたを気に入る理由、わかった気がするわ」

どういう意味か分からなかったけど、ベルモットさんは私にその言葉の意味をわからせるつもりは無いらしい。
ベルモットさんの手がするりと離れて彼女が私に背を向ける。私はハッとして慌てて声を上げた。

「あっ、あの!」
「なに?まだ何かあるの?」
「っそ、その……」
「?」

ベルモットさんは立ち止まって振り向いてくれた。…話す時間はくれるらしく、私は小さく深呼吸をする。
私がベルモットさんに会った時のことを思い出す。私はまだあの時透さんとお付き合いをする仲ではなかったけど、それ故に彼のことを諦めようと思うくらいにベルモットさんは素敵な女性だった。
女性として、私はベルモットさんには絶対に敵わない。見た目も所作も、きっと頭の良さとか…そういう部分も含めて全部、ベルモットさんは雲の上の人だ。
でも、だから。

「…ば、…バーボンさんは…その、…私の、彼氏さんなので……あの、取らないでください、ね」

言いながら恥ずかしくなり、だんだんと語尾が尻すぼみになっていく。
だって、こんな女性が本気になったら私なんて一溜りもない。透さんだって簡単に恋に落ちてしまうかもしれない。彼のことを信じてないわけじゃなくて、私の劣等感の問題なのだ。
ベルモットさんは私の言葉にぽかんとしていたけど、やがて肩を震わせて大声で笑い出した。余計に恥ずかしい。
美女が大口を開けて笑っているなんてなかなか見れる光景ではない…と思う。大口を開けているのに美しいのはさすがだ。

「ふ、ふふっ…あぁ、おかしい。心配しないで、彼とはビジネスライクな付き合いよ。それ以上でも以下でもないわ」
「う、…でも、迎えに来させてたりしてたみたいですし…」
「Don't worry. 私に使える足が彼くらいなだけよ」
「…足、ですか」

ベルモットさんはそれから一頻り笑って、目じりに浮かんだ涙を拭った。…泣くほど面白いことを言っただろうか。こちらは真剣そのものだったんだけど。

「いいわね、あなた。私も気に入ったわ」
「…えっと、…ありがとうございます…?」
「またゆっくりお話ししましょう、His kitten.」

ベルモットさんは楽しげに言うと、そのままヒールを鳴らしながら歩いていってしまった。
彼女の背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。

「…彼の子猫ちゃん、だって」

子猫ちゃんなんて年齢じゃないんだけどなと思いつつも、ベルモットさんからしてみたら子猫みたいなものでも仕方ないのかな、なんて思った。


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