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怪我の治りが遅いということで、私は今現在一切の家事に手出しをしてはいけないと透さんに約束させられてしまっている。私としては皿洗いとか簡単な片付けくらいはやらせて欲しいと思っていたし最初はやっていたのだけど、なかなか思うように傷が治らないということで…結果、見兼ねた透さんにある種の絶対安静を言い渡されてしまったのである。申し訳なさで埋まる。
私に許されているのはハロの散歩と、気分転換の外出だけ。不便どころか至れり尽くせり、仕事もまだ復帰していないから完全なるニートの気分だ。あまりに落ち着かない。けど家事に手を出そうものなら満面の笑みを浮かべた透さんに説教されるのがわかっているから、私はただ約束を守ることしか出来ないのである。

そんなわけで。
時間を持て余していた私は、久しぶりに図書館へと足を運んでいた。のんびり読書とかこんな時でしか出来ないし、せっかくだから長編物でも読もうかなぁなんて考えたりして。
で、米花駅に戻るバス停で遭遇したのである。

「あれ?!ミナさんじゃないか!」

突然声をかけられて振り向いたら、そこには私服姿の世良ちゃん。世良ちゃんは私の傍に駆け寄ると、足の爪先から頭のてっぺんまでをしっかりと見つめてから私と目を合わせた。それから大きな目を釣り上げて肩を怒らせる。

「なんでメールくれないんだよ!!心配してたのに、ボクのこと嫌いなのか?!」
「そ、そ、そんなわけないよぉ!違うよ、世良ちゃん落ち着いて…!それにメールなら退院した時にしたし」

そう、快斗くんにもそうだったけど、退院した時に世良ちゃんや園子ちゃん、沖矢さんなんかにはメールで一報を入れたのだ。けど世良ちゃんはそうじゃない!と大きく首を横に振る。

「退院したっきり連絡くれなかったじゃないか!蘭くんから交通事故で記憶喪失だって聞いて、蘭くんから記憶が戻ったって聞いて、ミナさんからメールで退院したって連絡もらったけど!でもそれじゃあ何となくボクからは連絡しづらいだろ!!」

やばい。快斗くんと同じこと言ってる。

「うっ、ご、ごめんなさい」
「園子くんだって心配してるし!いい加減ボク達から連絡しようと思ったけど、蘭くんが「しばらくはそっとしておいてあげよう」なんて言うから更に何かあったんじゃないかって勘繰ったし!!」
「ごめん、世良ちゃんごめんって!」

世良ちゃんに勢い良く顔を近付けられ、さすがに私も頭を下げる。それと同時にそこまで心配して貰えるということに嬉しさを感じてしまうのだからどうしようもない。俯いたまま思わずにやにやと笑ってしまえば、世良ちゃんはそんな私を見てむぅと頬を膨らませた。

「ミナさん、ちゃんとわかってるか?」
「ご、ごめん。反省してるよ、ちゃんと」
「心配するこっちの身にもなれよなぁ」
「ふふ、ごめん。…ありがと」

くすぐったいなぁと思いながら顔を上げ、そういえば世良ちゃんはどうしてここにいるんだろうと目を瞬かせた。
図書館に勉強をしに来た…といった様子じゃないし、やっぱり目当ては本なのかな。

「世良ちゃんはどうしてここに?世良ちゃんも図書館に用事があったの?」
「うん、気になってた小説の新刊が入ったみたいだから借りに来たんだ」
「へぇ、推理小説?」
「まぁね」

やっぱり探偵さんは推理小説が好きなんだなぁ。コナンくんもシャーロック・ホームズシリーズの大ファンだったっけ。…そう言えば探偵とは言っても透さんはあまり本を読んでるイメージがないけど、推理小説とか好きなんだろうか。博識だから本自体は読んで知ってたりするんだろうけど、好き好んでいるかどうかまではわからない。
今度聞いてみようと思いながら顔を上げると、世良ちゃんは私をまじまじと見つめてから柔らかく笑った。

「…うん、いつものミナさんだね。良かった」
「え?」

その言葉の意味がわからずに小さく首を傾げると、世良ちゃんは苦笑して頭を*く。それから、あの日、と呟いた。
…あの日というのは、ショッピングモールで一緒に買い物をした日。私がそっくりな彼女と入れ替わってしまった日のことだろう。

「スマホを見つけて戻ってきたミナさんが…なんとなくいつもと違う気がしてたから。なんだろうなぁ、そんなはずないのに」
「世良ちゃん…」
「…でもその違和感をもっとちゃんと突き詰めていたら、ミナさんが交通事故に遭うのを防げていたのかもって思うと、ちょっと悔しくてさ。だから、ミナさんが元気になって…いつものミナさんに会えて、ボクすごく嬉しいんだ」

世良ちゃんの言葉に、胸がきゅうと痛んだ。
世良ちゃんは、ほんの小さな違和感に気付いてくれていたのか。私本人じゃないとまではわからなくても、何かがおかしいということを感じてくれていた。それだけでも嬉しくて、小さな息が零れた。
もし世良ちゃんが私本人じゃないと気付いていたとしたら…あの組織との事に巻き込んでしまっていたかもしれない。それを避けられていたことに安堵する。あんな危ないことにこんな優しい子を巻き添えにするわけにはいかない。

「…ありがとうね、世良ちゃん」

私が言うと、世良ちゃんはほっとしたように眦を和らげ、すぐにいつもの明るい笑みを見せてくれた。



世良ちゃんも米花駅に戻ると言うので、せっかくだから駅前で軽くお茶でもということになった。ポアロに行こうかと話をしながら、世良ちゃんと一緒にバスに乗り込む。
今日は透さんも確かポアロにいるはずだから会えるの嬉しいなぁなんて思ったりして。…家で毎日会っているけど、会える時間が増えるのはやっぱり嬉しいのだ。どんな透さんもかっこいいと思っているけど、店員さんとして働いてる透さんはいつも以上に爽やかというか…どこか余所行きの顔をしているのが好き。

「でも、ミナさんは安室さんがポアロで働いてるのを見てヤキモチとか焼いたりしないのか?」
「ヤキモチ?なんで?」

バスの吊革に掴まって世良ちゃんと並び立ちながら、彼女の問いにぱちぱちと目を瞬かせる。ヤキモチを焼くシーンなんてあるだろうかと首を傾げると、世良ちゃんは少し眉を寄せて軽く肩を竦めた。

「ホラ、安室さんってポアロで女の子に人気の店員だろ?安室さん目当てで来る子も多いし、そういう子達を接客してる姿見て嫌な気持ちになったりしないのかなぁって」
「うーん…」

どちらかと言うと梓さんの方にヤキモチを焼きかけたことはあるけど、そう言えばお客さんの女の子に対してそういう感情を抱いたことは無いなぁ。…透さんが人気なのは、なんていうか当然のことというか…。だって彼に惹かれない人なんていないだろうし…というのは私の贔屓目があるのかな。

「…透さんがいろんな人に慕われているのは、私としても嬉しい、かなぁ。あぁ、本当にすごい人だなぁって思うし」
「う、嬉しい…?彼氏がいろんな女の子にチヤホヤされてるのが?」
「チヤホヤって世良ちゃん…」

思わず苦笑する。

「…私の彼氏さんは本当にすごい人なんだなぁって…いろんな人を惹き付ける人なんだなって、誇らしくなるかも」
「…っはー……。…ボクからしたらそんなミナさんの方がすごいよ」
「え、どうして?私何もすごくないよ」
「だってそんな状況、普通彼氏が取られたらとか考えて不安になるものじゃないか?」
「取られたら…」

透さんを取られてしまうかもなんて思ったのは、後にも先にもベルモットさんだけだ。あの人はいけない。あんな美貌で非の打ち所のないような女性なんかと比べたら、私は足元にも及ばない。彼女が本気になったら透さんも靡いてしまうかも、なんて思ったりはする。
以前の私だったら確かに不安に思うことも多かったけど、それは透さんとの関係性が明確じゃなかったからだ。恋人という立場になった今、不安に感じることはほとんど無くなったと言っても良い…気がする。

「…取られたらって不安になることはないかも」
「どうして?」
「…どうしてって、それは…」

それだけ、大事にしてもらってるからと言うか。…私には贅沢すぎる程の想いを貰っているからと言うか…。今まで貰ったたくさんの言葉やたくさんのキスを思い出してしまって思わず口篭る。もごもごとしながら頬を染めれば、世良ちゃんはそれで全てを察したようだった。
深い溜息とともにやれやれと頭を掻く。

「あーわかったわかった。ご馳走様」
「せ、世良ちゃん…」
「ミナさん、大事にされてるんだなぁ」

世良ちゃんに言われて、ぼぼぼと更に顔が熱くなった。
…そう、大事にされている。甘やかされてそのうち溶けてしまうんじゃないかなんて、思ったりすることもある。
いろいろあったけど私は幸せで、贅沢者なのだ。
…透さんの話をしたら、ますます彼に会いたくなってしまった。早くポアロに行って、彼の顔がみたいな。

「っ、」
「ミナさん、大丈夫?」

どん、と背中を押されて私は少し世良ちゃんの方に寄った。米花駅に向かうバスはやたらと混んでいて、今停まった停留所から乗ってきたお客さんで中はかなりギチギチだった。

「う、うん。ごめんね」
「いいよ。こっちもう少し詰められるから、ホラ。こっちおいでよ」
「ありがとう」

世良ちゃんの言葉に甘えて彼女の方に詰めた時だった。
不意に、腰の辺りをさらりと撫でられたのを感じて小さく身を捩る。
これだけ混雑している車内だし、人との密着度も高い。変なところに触れてしまったんだろうなとあまり深く考えず、私はそのまま世良ちゃんと会話を続けた。
けど、再びお尻のあたりを撫でられ、徐々に撫で方がはっきりしてくるとさすがに私でもわかる。軽く触れたのではない。密着度が高いから触れてしまった訳では無い。その大きな手のひらは、明確な意思を持って動いていた。
…痴漢、だ。ひやりと背中が冷えて、思わず小さく息が詰まる。

「ミナさん?」
「…え、あ、」
「どうした?大丈夫?気分でも悪い?」

突然口数の減った私を不審に思ったのだろう。世良ちゃんが心配そうな視線を向けてくれて、私はちら、と窓の外を見る。…米花駅までもう少し。今声を上げるより、もう少しの時間耐えてしまった方がいいかも。

「う、ううん。なんでもないよ」
「………」

それきり、私と世良ちゃんの会話も途切れてしまう。
私が抵抗しないとわかったのか、私のお尻に触れる手の動きは少しずつエスカレートしていく。吊革を掴む手に力を込めて唇を噛み、視線を下げる。気味の悪さに体は硬直して動かなかった。
大丈夫、もう少し。…もう少し。自分に言い聞かせながら、私はバスが早く米花駅に着くのを祈る。
大きな手のひらが、私の足の間に入り込みかけたその時だった。

「オイ、」

世良ちゃんが大きく身を乗り出す。それと同時に、私のお尻に触れていた手のひらが離れていった。

「お前、さっきから何してるんだよ」
「な、何の話だ」
「とぼけるつもりか?とんだ痴漢野郎だな!」

世良ちゃんが声を上げ、掴んでいたらしい男性の手を捻り上げる。男性が私から手を離したんじゃなくて、世良ちゃんが掴んで引き離してくれたのか。
世良ちゃんはもう片方の腕で私を抱き寄せ、捻り上げたままの男性を強く睨んだ。

「警察に突き出してやる!!」

それから世良ちゃんの動きは早かった。米花駅に着くなりその男性を引き摺り下ろし、米花駅前の交番まで連行したのである。男性は抵抗しようとしたけど、瞬時に世良ちゃんによって叩きのめされ抵抗の意思を失ったようだった。
交番に着いてからも男性は冤罪だと訴えていたけど、世良ちゃんの「じゃあDNA鑑定をしてもらおう」という一言で青ざめ、瞬時に自分の罪を認めたのだ。

「おかしいと思ったんだ。ミナさんの口数が減り始めて、妙にそわそわしてるみたいだったから」
「本当にありがとう、世良ちゃん…」
「んーん。怖かっただろ、気付くの遅くなってごめんな。ミナさんが無事で良かった」

世良ちゃんはにこりと笑う。
男性を叩きのめした不思議な武術は、截拳道と言うらしい。詠春拳という武術を元に、ボクシングや空手、柔道などなど様々な格闘技を参考にしたカンフーのことだそうだ。痴漢された恐怖よりも、男性を颯爽と叩きのめす世良ちゃんのかっこ良さが上回ってしまった。

「世良ちゃん、かっこいいねぇ…」
「あはは!ミナさんの彼氏には負けるよ。嫌なことは忘れて、ポアロでのんびりしよう」

ね、と顔を覗き込まれて、私は笑みを浮かべて頷いた。


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