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その後、退勤時間までまだしばらくあるという透さんに先に帰るように言われ、世良ちゃんと一緒にポアロを出た。
明日の待ち合わせは夕方四時にショッピングモールの前で。透さんへのプレゼントを女子高生三人組に一緒に選んでもらうなんてちょっと照れ臭いけど、彼女達の気持ちは嬉しいし正直心強い。こないだ買ったものよりも、もっと透さんに似合うものが見つかればいいな。…そういう意味では、彼女達の意見はきっとすごく参考になるだろうし。こういう時若いパワーっていうのはいいなぁなんて考えて、私もそのパワーを貰えたらいいと思う。

バスターミナルで世良ちゃんと別れて、私は帰路に着いた。まだ明るい道を歩いてアパートの階段を上がり、部屋の鍵を開けて中へと入る。

「アンッ」
「ただいま、ハロ」

足元にじゃれついてくるハロを撫でてやり、荷物を一度和室に置くと洗面所できちんと手を洗う。
透さんもそんなに時間も掛からずに帰ってくるだろうから、それまで今日借りた本でも読んで待っていようかな。入院生活で落ちてしまった体力は大分戻ってきたけどやっぱり外に出ると疲れてしまう。…本なんか読んだら集中する前に眠くなってしまうだろうか。

「クゥン」

洗面所から戻ると、ハロが小さく鳴きながら私の足に体を擦り付けた。…これは甘えてるだけなのとはちょっと違う。お腹が空いたんだろうな。

「ご飯は透さんが帰ってきてからね。ご主人様よりも先にご飯を食べるのはダーメ」
「アンッ」
「よし、いい子」

元気よく返事をするハロを抱き上げて、その首の後ろを撫でてやる。
透さんに会いたいのは、ハロも同じだよね。大好きなご主人様だもん。時計を見て、あと一時間くらいで帰ってくるかな、早く帰ってこないかななんて考えて…不意に私の耳は、その音を拾ってしまった。

「…、…」

ぴたり、と動きを止める。突然動かなくなった私を、腕の中のハロが不思議そうに見上げているが私はとにかくそれどころではない。
カサカサ、という、きっと誰もが聞きたくない、あの身の毛がよだつ、背筋が凍る、嫌な音。私は今和室の方を向いて立っていて、左手側…つまりキッチンの方から、その音は聞こえてきた。

「…むり…」

振り返れない。振り返りたくない。だってどう聞いても今の音は、奴の…く、黒い物体である奴の、Gの…

「アンッ」
「ひぇっ」

ハロの鳴き声に飛び上がる。それと同時に再びカサカサという音。いや、ほんと、むり。
透さんの家は物が少ないし綺麗だし、奴の存在なんてこの世界に来てからほぼ忘れていたと言っても過言ではない。前の世界で一人暮らしだった時は家の中とベランダ、玄関に餌型殺虫剤を置いていたし、それでも家の中に出現した時は殺虫剤で泣きながら応戦して、本当に命からがら助かってきた。
でも、確かに、透さんの家では餌型殺虫剤はおろか、普通のスプレー型殺虫剤も見たことがない。奴は存在しないなんてそんなわけがなかった。奴はどこにでもいるのだ。世界を越えようが奴の脅威からは逃れられない。
どうしよう。家のどこかに殺虫剤もあるのだろうか。いやでも、もしかしたらハロのことを考えてそういったものは置いてないのかもしれない。人間には大した毒じゃなくても、あの生命力が強い奴らを殺すのだ。ハロのような子犬に悪影響を及ぼす懸念を抱くのは当然である。…というか、だってそもそも家、綺麗だし。奴らが出現するなんて考えないし。
再びカサカサ、と音がして飛び上がる。その勢いのままに振り向き、シンクの縁を進む黒い奴の姿を目視した。
何度でも言う。むりだ。

「むりむりむりむりこっち来ないでお願い」

もしかしたら家の中を探せば殺虫剤なんかの類もあるのかもしれないけど、さすがに奴と同じ空間にいながら殺虫剤を探せるような余裕は私には無い。…そもそも透さんの家を勝手に荒らすような真似私には出来ない。

「いやぁあ!!」

バタバタ、と羽をふるわせてこちらに飛んでくるのを見て私はとうとう悲鳴を上げて和室へと逃げ込んだ。
和室の戸を閉めたところで、薄さ一ミリまで体を潰せる奴らにはなんの意味もない。私はそのままベランダへの窓に駆け寄ると、そのままベランダに飛び出して窓を強く閉めた。
………奴はジリジリと畳の上をこちらに向かって進んでくる。…窓はぴっちり閉じられているし、さすがに窓の隙間を抜けてくることはない…と思うけど、万が一ということもある。え。逃げ場がない。どうしよう。

「アゥ」
「ハロごめんほんとごめん、でも君がいてくれて良かった」

ぎゅうとハロを抱きしめながらその場にしゃがみこみ、奴の動向をじっと見つめる。…どこか変なところに入り込んで逃げられるのが一番怖い。狭いところに入り込んでそんなところに巣でも作られたらと考えたら体が震えた。…恐ろしすぎる。勘弁して欲しい。
…でも本当に、どこから入ったんだろう。というか、奴らって一体どこから来るんだろう。気付いたらそこにいて、私達の生活を脅かしてくるんだから本当に勘弁して欲しい。
奴は触覚を動かしながら少しずつ移動している。…動きが気持ち悪くて本当に嫌いで見たくもないのに目を離すのも怖い。
奴は、やがて畳の上をするすると進み…ベランダの窓の目の前までやってきた。そしてあろうことか、しゃがみこんで窓から中を見つめる私の目の前に飛び上がったのである。

「ひっ…!」

びた、と窓に張り付くその姿を見てハロを抱えたまま後ろに腰を抜かした。いやいやむりむりむりなんでなんでこっち来るのやめて本当にやめて!むり!!
寸でのところで悲鳴を飲み込み、けれどもあまりの気持ち悪さに涙が滲んだ。…貴方様のお腹なんて見たくもないのです…!どうかせめてそのままじっとしていてください…!お願い、透さん帰ってきて…!
ひぐ、と情けなく喉が震えたその時だった。和室の向こう側、玄関のドアが開いたのが見え、透さんのただいまという声が小さく聞こえてくる。

「と、とおるさ、」

透さんが帰ってきた!彼は足元にじゃれついてくるハロがいないことを不審に思ったのか少し動きを止めて、それから和室を覗き込みベランダにいる私達に気付いた。もちろんそれと同時に、窓に張り付いている奴にも気付いてくれた。
それだけで全てを察したらしい彼は一度和室から離れ、すぐにその手に丸めた新聞紙を持って戻ってきた。えっ、まさかの新聞紙で対抗?!
透さんと目が合うと、彼は小さく笑ってとんとんと自分の目と辺りを指で示した。首を傾げると、彼は軽く目を瞑って見せる。……目、閉じてろってこと?
とりあえず言われた通りにと思いながらハロを抱え直し、私はぎゅうと目を閉じる。そのすぐ後に、バシン、という窓を叩く強い音が聞こえた。
…なるほど、目を開けてたら奴が潰れてしまうところを見ることになるからっていう透さんの気遣いだったのかな。
目を閉じたまましばらく沈黙。…いつになったら目を開けても良いのだろうかと考え始めた頃、からからと窓が開く音がした。

「ミナさん、もう大丈夫ですよ」

透さんの声に恐る恐る目を開けると、彼が私の目の前にしゃがみこんで小さく笑っていた。

「………や、…奴は…」
「安心してください。ちゃんと退治しました」
「あの、その、卵とか…そういう心配は…」
「あぁ、見たところオスだったようなのでその心配はなさそうですよ」
「…ふぇ、」

安堵から力が抜けた。ずっと窮屈だったろう、ハロが私の腕から抜け出して和室の方へと戻っていく。私はといえば腰が抜けてしまって体に上手く力が入らない。というかオスメスの見分け方を知ってる辺り、透さんさすがと言うべきなんだろうか。
ベランダにぺたりと座り込んだままの私を見て、透さんは苦笑を浮かべた。

「こ、…腰が抜けちゃって」
「そのようですね。大丈夫ですか?」

透さんが差し出してくれる手を掴むが、それだけでもやっとだ。…いや、だって久々に見る奴の姿は強烈だった。…強烈過ぎた。

「透さんのお部屋、綺麗だから…油断してました…」
「外から入ってきたんでしょうね」
「でも、戸締りとかしっかりしてるのにどうして」

窓はもちろん玄関もしっかり閉じられてるし…え、もしかして玄関のドアのポストみたいな隙間から入り込むとか?有り得るから考えたくない。

「まぁ今一瞬想像したんでしょうが、ポストの隙間とか」
「嫌だ無理ですやめてください」
「あとは、ドアや窓に張り付いていたのが開閉時の風圧で中に入り込んだり…意外と人の鞄に入り込んでいたり、なんてことも珍しくないんですよ」
「いやいやいやいや聞きたくない無理やめて」
「夏の花火大会とか、河川敷で見たりするでしょう?空に夢中になって、鞄は道端に置きっぱなし。そういう時に鞄に入り込んだりするんですよ。暗いですし花火の音も大きいし、ほぼ気付かないですからね」
「やめてくださいってば!!」

恐怖すぎる。なんで嫌がってるのにそんな事細かく説明してくるのか!今日の透さんは意地悪だ!私が強く言い返すと、透さんはクスクスと笑ってから顔を上げ、それから不意に、あ、と口を開いた。

「言ってる側からほら、後ろ」
「わぁあっっ!!」

透さんが私の後ろを指さし、振り向く間もなく弾かれるように目の前の透さんに抱き着いた。やだやだ見たくない無理。奴の恐怖を思い出してしまったらもうダメだ、今晩私寝られるんだろうか。怖い。無理。夜中にカサカサなんて音が聞こえたらもうどうすることも出来ない。
強く透さんにしがみついていたら、くすくすと笑った透さんにそっと背中を撫でられた。

「脅かしてすみません、冗談ですよ」
「…へ、」
「あなたがあまりに可愛いので、つい」
「…えっ」
「でも、いつまでも窓を開けてるとまた家の中に入り込みかねませんから。窓、閉めますね」

透さんは言いながら、片手で私を抱いたままもう片方の手で窓を閉めた。それから、まだ恐怖で強張る私の体を優しく抱きしめてくれる。心臓はまだバクバクしてるし、体は変な緊張のせいで小さく震えている。

「ミナさん、虫苦手だったんですね」
「…いえ、…虫と言うより…奴が…」
「なるほど。大丈夫ですよ、また次に奴が出たらいつでも呼んでください。…まぁ、再発防止には努めますけど」

ぽんぽん、と背中を叩かれてようやく体から力が抜けてくる。…それとともにじわじわと羞恥を感じてしまい、私は透さんに抱きついたままどうしたものかと身動きが取れなくなる。

「大丈夫、大丈夫」

宥めるようなその優しい声に、ゆっくりと息を吐いた。
…恥ずかしいけど、でも透さんに触れられて嬉しいし…何より安心する。ちょろいけど、透さんは私の一番の安心材料なのだ。ぎゅう、と透さんにしがみつく腕に少しだけ力を込めると、透さんは私の背中を撫でるのをやめてそのまま強く抱き返してくれた。

「落ち着きました?」
「…はい、」

ほんの少し体を離して透さんを見上げれば、彼は小さく笑ってそのまま私の唇を啄むように軽くキスをした。
ちゅ、という音にきゅんと胸が高鳴る。

「それじゃ、夕飯にしましょうか」
「あ、あの」

すごく怖かったというのもあるけど…今は透さんとあまり離れたくなくて。

「…腕の怪我も大分良くなってきたし…お手伝い、させてください」

さすがに料理の手伝いをしたくらいでまた傷が開くなんてことはないと思う。だから、透さんの隣でお手伝いがしたい。私がおずおずと見上げると、透さんは少し目を瞬かせた後に柔らかく眦を下げた。

「そうですね。…それじゃ、お願いしようかな」
「はい、」

あれほどパニックになっていたのに、透さんに抱きしめられてキスされただけでけろりとしてしまうなんて…私、意外と図太い…のかもしれない。


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