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アパート近くのバス停で降りて、のんびりと帰り道を行く。
目当ての買い物を終えた私は、蘭ちゃん、園子ちゃん、世良ちゃんに米花駅前のバスロータリーまで送ってもらって帰路に着いた。年下の女の子達に駅前まで送って貰うのは何となく気が引けたものの、彼女達にとって私はショッピングモールで別れた後交通事故に遭ったことになっている。…たくさん心配もかけてしまったし、また同じことになったらと考えたらきっと怖いだろうなと思う。彼女達の優しさに甘えることも大事だと思った結果だった。
気付けば時刻はもうすぐ夕方六時になろうかという頃。夏も近付く時期だ。空はまだまだ明るいけど、少しずつ夕闇に溶けていくのがわかる。遠くの空が赤く染まり始めているのを見て、その美しさにほんの少しだけ目を細めた。
この夏はどんな夏になるかな、なんて考えると少し楽しみだ。
気付けば「MAISON MOKUBA」はもう目の前。見上げると、透さんの部屋の窓から柔らかい光が漏れている。

「…早いな、」

透さん、もう帰ってるのか。今日はポアロだけと言っていたけど、どうやら夕方までのシフトだったらしい。
この時間から透さんに会えるという嬉しさと同時に、手に持った紙袋がやたら重く感じてそわそわしてしまう。…透さんが既に家にいるということは、それだけ私には心の準備をする時間が無いという事だ。思わずアパートの入口で立ち止まり、紙袋を握った手に力を込める。

──私のものになって、私を想ってください

世良ちゃんがあんなことを言うから、変に意識してしまう。…私はただ、幸福という願いを込めただけだ。それだけのことだ。透さんに幸運や幸福を呼んでくれますようにという、そんな思いを託しただけである。
どきどきと高鳴る胸を押さえて、ゆっくりと息を吐いた。顔が熱い気がするけど、平常心、平常心…。

「……よし、」

小さく意気込んで、私は顔を上げると階段を上って透さんの部屋に続く廊下を進む。
実際、恥ずかしがっている場合ではない。だってこれはお礼の気持ちだ。透さんから有り余る恩を受けているお礼として買ったものなのだから、二の足を踏んで渡せないままでいるのが一番まずい。
まずはドアを開けて、ただいまのご挨拶。じゃれついてくるハロを宥めて、それからさりげなく紙袋は和室に運んでしまおう。透さんとのんびり夕飯を食べて、一息ついてから渡す。これだ。
脳内でシミュレーションをしっかりと行ない、私はゆっくりと息を吐いた。もう部屋は目の前だ。

「よし、」

怯むな。まずは平常心、平常心…。

「…た、ただいまです…」
「アンッ!アンッ!」

ドアを開けていつも通りの挨拶をしようとしたら、何故だか私の思いとは裏腹に恐る恐る部屋に入る形になってしまった。いくらなんでも怯えすぎである。
帰宅した私に気付いて、キッチンに立っていた透さんが振り向いた。部屋には夕食のあたたかい匂いが溢れていて、なんだか安心する。

「お帰りなさい、ミナさん」
「…ただいま戻りました」

へら、と笑って言えば透さんも優しく笑い返してくれる。あ、なんだかいい感じだ。いつも通りの様子にほっとしながら靴を脱いで部屋に上がる。じゃれついてくるハロをわしゃわしゃと撫でてあげてから、私は洗面所で手を洗う。帰ってきたら手洗いとうがい。毎日忙しい透さんに風邪のウィルスや菌を移すわけにはいかない。
手を洗い終わって、タオルで口元と手を拭って一息。よし、と声もなく鏡に向かって頷くと、私はそのままそそくさと和室に向かおうとした。

「今日は、蘭さん達とショッピングでしたっけ?」
「ひぇっ」

思いがけず声をかけられて変な声が出た。びくりと身を竦ませる私を見て、透さんは不思議そうに目を瞬かせている。…そりゃ、今のタイミングじゃ奇妙だっただろうなぁ。

「あ、は、はいっ、そうです…!」
「そうですか。楽しめました?」
「そ、それはもう…!」

楽しかったのは本当だ。でもいかんせん私は誤魔化すのが下手くそだ。手に持っていた紙袋がもう気になって気になって仕方がない。
…というか、なんでこんなびくびくしなくてはならないのだろう?別にサプライズでもないし、こんな変な態度を取っていたら透さんも絶対変に思うだろうし…。夕飯前という微妙なタイミングではあるけど、もしかして今渡すべきなんじゃないか、なんて考える。
平常心、平常心だ。…でもぱっと渡すなんてことは出来ない。出来る限りちゃんと、ありがとうの気持ちを言葉にして伝えないと…

「ミナさん?」
「ひゃいっ!」

びくりと身を竦ませて振り返ると、透さんは案の定目をぱちぱちと瞬かせながら首を傾げていた。
…不思議に思ってくれているならまだいいけど、このまま不信感に繋がるのは…避けたいところである。どうする、と思わず視線を泳がせていたらハロと目が合った。
ハロは鳴きもせずに私を見上げたまま、ぱたぱたとしっぽを大きく振っている。その丸々としたつぶらな瞳は、なんだか後押ししてくれているような気がして。
…恥ずかしがってちゃ、ダメだ。これは感謝の気持ち。ちゃんと、渡さなきゃ。
ふぅ、と息を吐いてから、私は紙袋からラッピングされた細長い箱を取り出してそっと透さんに差し出した。

「…これは、」
「えっと…その。…私、いつも透さんに貰ってばかりで…甘えてばかりで…何か少しでも、お返しがしたくて。…き、気に入ってもらえるかは…わからないんですけど、でも、透さんに似合うんじゃないかなと思って選びました。…その、」

もご、と口篭れば、透さんは少し驚いた表情をしていたけどそっと差し出した箱を手に取ってくれた。

「わざわざ、僕に?」
「…これだけじゃ、全然…足りないんですけど」

透さんから受けた恩は多大だ。そしてそれはこれからも増え続けるだろう。それを甘受しているだけの自分にはなりたくない…なんて、既に透さんに甘えまくりでなんの説得力もないけどと肩を落とした。

「開けてもいいですか?」
「あぇっ、え、あっ、えっと、その、……どうぞ」

私が頷くと、透さんはリボンを解いて丁寧に包装紙を剥がしていく。…なんだか、こう、プレゼントを目の前で開けられるというのは…恥ずかしくてムズムズする。喜んでもらえるだろうか、と息を飲みながら彼の手元を見つめていたら、箱を開けたところで透さんの動きが止まった。
恐る恐る視線を上げて彼の顔を見れば…目を丸くして、じっとネクタイとタイピンを見つめている。

「…………あ、…の…、…も、もし気に入らないとかだったら…」
「嬉しい」
「え、」

沈黙に耐え切れずに言葉を紡ごうとしたら、透さんがぽつりと呟いた。
ぽかん、と口を開けて見つめれば、彼はそっとネクタイの表面を指先でなぞって…柔らかく、本当に柔らかく、ふわりと微笑んだのである。その優しい表情にとくりと胸が高鳴って、思わず息を飲んだ。

「嬉しいです、とても。…ありがとうございます、ミナさん。…大切にします」
「あ、えっ…は、はい…っ」

透さんは言葉通り、とても嬉しそうで。その表情を見ていると私が何故か恥ずかしくなって、顔が熱くなってたまらない。恥ずかしくてたまらないのに…彼が喜んでくれることが、とにかく嬉しい。
透さんはネクタイをなぞり、そっとタイピンを手に取った。四つ葉のクローバーがきらりと光っている。

「四つ葉のクローバーですか」
「…えっと、はい。…その、…透さんに、幸福が訪れますようにって…思って…」

私何を口走ってるんだろうと思うものの他になんと言ったら良いかわからない。…というか今思えば、四つ葉のクローバーなんて透さんには子供っぽすぎるデザインだっただろうか。ちら、と彼を見れば、優しい眼差しでタイピンを見つめている。…そんな、まじまじと見ないで欲しい。透さんが見ているのはネクタイとタイピンなのに、私自身がじっと見られているようなそんな羞恥心を感じてしまう。

「僕は幸福ですよ。…でも、まだまだ幸福になれそうな気がします。あなたといると、もっと更なる幸福が見れるんじゃないかって思うんです。…不思議ですよね」

透さんは顔を上げて私を見つめ、ほんの少し照れ臭そうに笑った。それから、小さく咳払いをしてからちょいちょいと私を手招く。…恥ずかしさは誤魔化せないけど、でも呼ばれたら近寄りたくなってしまうのだ。…だって好きだもん。
ててて、と透さんに近寄ると、透さんはそのまま私をぎゅうと抱きしめてくれる。…透さんの匂いに安心して息をゆっくり吐き出せば、彼は小さく笑ったようだった。
温かくて優しくて、たくましい腕。世界で一番安心出来る場所。…私だけの場所だ。
園子ちゃんに、「ミナさん、本当に安室さんのこと好きなのねぇ…」なんて言われたけど、その通り。透さんのことが大好き。…きっとこんなに好きになる人なんて、長い人生の中でも透さんが最初で最後だと思う。一緒にいるだけで幸せになれる、私の大切な人。

「…でも、あなたもなかなかに大胆ですね」
「えっ?」

くすり、と笑いながら透さんが言った言葉に目を瞬かせる。
大胆、とは。…今この状況のことを言っているのだろうか。だって手招いたのは透さんだし、呼ばれたら近寄るし、近寄りたくなるし、…近寄ったら、抱き着きたくなるのだ。仕方がない。

「僕はとっくにあなたのものですし、あなたを想っていますよ」

透さんの言葉に、ぴしりと体を硬直させた。
恐る恐る透さんを見上げれば、彼はとても優しく…それでいてどこか楽しそうに笑いながら、私を見つめ返してことりと首を傾げている。

「え、あ、」
「アメリカでの四つ葉のクローバーの花言葉。…てっきりその意味も込めて僕に贈ってくれたものと思いましたが、違いましたか?」

上手く言葉が紡げずにぱくぱくと口を開閉していたのだが、そんな私に柔らかくも畳み掛けるように透さんが言う。
その。正直世良ちゃんから聞かなければ、私はアメリカの花言葉なんて知りもしなかった。だって、四つ葉のクローバーといえば幸福とか、幸運とか…そういう意味があるということくらいしか知らなかったし。
だから本来の私の込めた願いとは外れてくるのだけど…違いましたか、なんて聞かれて違いますなんて答えられるはずもない。…そもそも知ってしまった以上、否定をするというのもなんだかちょっと違う。
もごもごと口篭る私を見て、透さんはくすりと笑った。多分沈黙を肯定と捉えたんだろう。…言いようのない恥ずかしさに両手で顔を覆う。

「あなたがいるから、僕は」

透さんが少しだけ掠れた声で呟いて、私の左手をそっと取った。透さん手の指先はほんの少し冷えていて、私の手を撫でる指先はとても優しい。
透さんは私の左手をくるりと引っくり返すと口元に寄せて、手のひらへとキスを落とした。

「…あなたに、前に進む力を貰っている」

透さんは小さく呟き、そのまま私の左薬指の先端をカリ、と甘く噛んだ。じんとした痺れのようなものが走って体が震えて、恥ずかしいのに頭がふわふわして透さんしか見えなくなる。
透さんは少し体を離すと、私の腕の怪我のあたりにそっと触れる。傷自体は塞がっているけどまだ鈍痛とか引き攣れる感じはある。…日常生活に支障は出なくなってきてるけど、この怪我がきちんと治るにはまだもう少し時間が必要だ。

「…もどかしいですね」

苦笑を浮かべた透さんが言って、そのままもう一度私を抱きしめた。
もどかしいのは、私も同じだ。心が、…体が、透さんを求めてやまない。早くこんな怪我治ればいいのに。早く怪我を治して、透さんにたくさん触れて欲しい。

「…早く、治したいです…」

透さんの肩口に顔を埋めながら小さく呟けば、私を抱きしめる透さんの腕にほんの少し力がこもった。


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