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「いやいやいやおかしいですって、おかしいですよね?!」
「何もおかしなことなんてありませんよ。ほら、早く」
「お、おか、おかしいですよぉ…!!絶対おかしい!!」

誰か安室さんを止めてくれ。
現状を説明すると、やだやだとダイニングキッチンの床に座り込む私の手を安室さんが引っ張っている。それはさながら散歩途中で歩くのをやめた犬と飼い主。滑稽だろうとおかしいものはおかしいし、無理なものは無理だ。
何故こんな滑稽な状況になっているかというと、発端は安室さんの何気ない一言だった。


話を終えた後、私と安室さんはいくつかの約束事を作った。私の家に安室さんが住むことになった時と同じようにである。
まず、料理は出来ないにしても掃除洗濯くらいは私にやらせて欲しいということ。ベランダでプランター栽培もしているようだったからそれの手伝いもしたかったが、素人が下手に手を出して枯らしても怖い為それは除外した。
それから、買い物等簡単な雑用は私にやらせて欲しいということ。私が安室さんに恩返しとして出来ることなんてほとんどない。その中で何とか出来ることを捻出したいが為の提案だった。
とにかく私に出来そうなことは全てやらせて欲しいと頭を下げた。安室さんの家に転がり込んでおいて何もしないなんて申し訳なさで沈む。
安室さんは少し苦い表情を浮かべて「そこまでは」と言っていたが、私の必死の説得により何とか頷いてくれた。
後は、私の家と同様安室さんが外出する時は私も外で時間を潰すとか、そんな感じだ。
ただでさえ地理もよく分かっていないのに治安の良くない米花町で一人過ごすことを安室さんは心配していたが、まぁ何とかなるだろう。犯罪率が高いとはいえ普通に生活してる人達がいるのだから。
一通りのことを話し終わり、さてそろそろ寝ようという時になって…それは起こったのである。

「すみません、ダイニングキッチンの隅っこをお借りしても良いですが?えっと、あの辺を」
「はい?」

私がダイニングキッチンの隅っこを指差して言うと、安室さんはあからさまに怪訝そうな顔をして首を傾げた。

「…何をするつもりです?」
「えっ?いや、あの、寝床として…」
「はい?」

おずおずと言えば、圧のこもった声で問い返される。
え。なんでそんな眉を顰めて、いらっしゃるのか。
ラグマットはないけど、こっちの世界は冬ではないし全く問題ないと思う。床で寝るのには慣れてるし、その上で言ったことだったのだが…安室さんは険しい表情のまま溜息を吐いた。

「女性を床で寝かせるなんてこと出来ませんよ。ベッドを使ってください」
「はいっ?!」

私は飛び上がった。なんて爆弾発言をしてくれるのだ、この人は。慌ててブルブルと首を横に振る。

「だ、ダメですよ!安室さんどこで寝るんですか?!」
「僕はダイニングキッチンで。ブランケットはありますから心配いりません」
「いやダメですよ!それって安室さんは床で寝るってことですよね?!家主にそんなことさせられません…!!」

私がのうのうと安室さんのベッドで寝て、安室さんはダイニングキッチンの床で寝るなんてそんなのは断固拒否だ。厄介になる私が床で寝るのは当然だし、むしろ大体どこでも寝られると思うし、お構いなくと思っている。

「駄目です。ミナさんはベッドを使ってください。ほら」

立ち上がった安室さんに手を取られて引き摺られる。
こ、これはまずい流れだ。私がベッドに辿り着いてしまえばそれは私の敗北を意味する。安室さんこそベッドで寝るべきなのだ。

「だ、断固拒否します…!」

安室さんの手はしっかりとしていて引き剥がそうにも引き剥がせない。掴み方は優しいのに力が強い。
私に出来る抵抗と言えば、その場に座り込んで踏ん張ることだった。本当にごめんなさい。シュールなのはわかるんですけど私にはこれくらいしか思いつかなかった。

「ちょ、ミナさん?立ってください。もう寝ますよ」
「あの、なので!私は床で!おかしいですよ安室さん、普通は家主がベッドで寝るんです…!」
「それは怪我人には適用されません。怪我人は早くベッドに入ってください」
「え、お、おかしい!安室さん怪我してたけど私がベッド譲ろうとしたら断ったじゃないですか!」
「それはそれ。これはこれ」
「横暴だぁ…!」

そして、話は冒頭に戻る。
どちらがベッドを使うかで揉めていたと、そういうわけなのである。

「ミナさん、聞き分けてください。あなたを床で寝かせて僕がベッドを使うなんて、僕が納得出来ません」
「それを言うなら私も全く同じなのですが!とにかく、安室さんだってお忙しくてお疲れなのに、そんな人をフローリングの床に寝かせるなんて絶対に嫌です!体痛くなっちゃう」
「それ、あなたも同じだってわかってます?」
「私は慣れてるからいいんです」
「埒が明きませんね。とにかくベッドで寝てもらいますよ」
「いーやーでーすー!」

会社の椅子や床でも眠っていたのだ。床で眠るくらい何の問題もない。それはそれ、これはこれなんて言ったのだから、こちらだって同じだと言い返す。
それから、ふと閃いて顔を上げる。

「あ、た、畳!わかりました、安室さんがベッドで寝て、私が畳で寝ればいいんです…!」
「またあなたはそういう警戒心のないことを」

呆れたような顔をした安室さんに溜息を吐かれてしまうが、こちらだってこれ以上は譲れない。
ダイニングキッチンの床がダメならばそれ以外で寝かせてもらうしかない。そうなると、もう安室さんの寝室である和室しかないのだ。

「こ、これが最大限の譲歩です!」

言ってから、いや家に転がり込んだ奴のセリフじゃないと頭を抱える。すごく上から目線だったんじゃないか、今の発言。けれどもここで負けてはいけないと思った。
私に譲るつもりがないとわかったらしい安室さんは深い溜息を吐いて肩を落とした。

「……わかりました。誓って変なことはしないと言ったのは僕ですし、その条件を飲みましょう」

安室さんの言葉にほっと胸を撫で下ろして、踏ん張っていた体から力を抜く。油断した。してしまった。
瞬間、安室さんの目がきらりと光った。

「ただし」
「へっ」

ぐい、と腕を引かれて立ち上がり、勢いのままに和室に入ってたたらを踏む。捻挫した足に負担がかからないように軽く支えてくれているのはさすがと言うべきか。わけも分からずバランスを崩しかけ、手と背中に回っていた安室さんの手でくるりと反転させられ、気が付くと私は安室さんのベッドに仰向けで倒れ込んでいた。

「…えっ?」

なんだ、今の。ものすごい早業で何が起こったか全くわからず、ぽかんとして立ったままこちらを見下ろす安室さんを見上げた。

「ミナさんがベッドです。これがこちらの最大限の譲歩です」

きっぱりと言い切り、にこりと笑う安室さんにぱちぱちと目を瞬かせる。
呆然とした私に構わず安室さんはダイニングキッチンの電気を消すと、押入れからブランケットを取り出す。それからローテーブルをどかして、畳に置いてあったクッションを枕代わりにそのまま横になった。

「え、あ、あの」
「さぁ、寝ますよ。おやすみなさい、ミナさん」

体を起こしかけるも、安室さんは問答無用でそう言いながらリモコンに手を伸ばし、部屋の電気を消してしまった。
真っ暗になった部屋で、体を起こしかけた状態で固まる。

「…え、……えぇ…?」

情けない私の声が暗い和室に響いた。
なんだこれ。閉店ガラガラ状態である。弾き出された感が半端ない。
窓の外から差し込む光で部屋の中は薄ら確認出来るものの、こんな状態では安室さんと位置を入れ代わることは無理だ。
少しだけ安室さんに声をかけてみたものの、彼はブランケットを被って横になったままうんともすんとも言わない。こんなすぐに寝入るとは思えないし寝息も聞こえてこないので、狸寝入りだとは思うが…とにかく、安室さんはもう何も言うつもりがないらしい。

「………おやすみなさい、」

今日は私の負けである。…納得はいかないが。
声は自分で思っていたよりも不服そうな感情を乗せてしまっていた。
微かに安室さんが笑う気配がした。やっぱり狸寝入りだ。何となく恥ずかしくなり、誤魔化すように頭を振ってもぞもぞと布団に潜り込む。

「………」

シーツや枕からはふわりといい匂いがした。爽やかだけど少し甘い香り。柔軟剤の匂いのような気もするが、少し違う気もする。安室さんの匂いなのかな。
不思議とその香りに包まれていると安心して、うとうとと微睡んでくる。
明日は、安室さんにベッドを使ってもらうんだから。
微睡む意識の中でそう決意すると、私は意識を手放していた。


***


「少し探偵業の方が立て込んでいまして、今日も出なくてはなりません」

翌朝、私が目を覚ますと完璧な朝食が用意されていた。
安室さんがいつ起きたのかも、朝食を作り始めていたのかも知らない。いくらなんでも気が抜けすぎではないかと反省した。
安室さんと一緒に朝食をとり、片付けは私が申し出た。当然だ、出来ることはなんでもする。
安室さんの家のキッチンに立ち、食器を洗っている最中に安室さんからそんなことを言われたのだった。

「協力させてくださいと言っておきながらこんな状況で申し訳ありませんが…」
「とんでもないです!安室さんがお仕事忙しいのはわかっていますし、安室さんは私に気にせずいつも通りのスケジュールで動いてください」

安室さんの足を引っ張る訳にはいかないです。私がそう言うと、安室さんは申し訳なさそうに眉を下げた。

「あなたの携帯をすぐにでも用意したいのですが、そちらも少々待って頂くことになります。すみません」
「いえ、とんでもないです。むしろそこまでしていただくのも心苦しいです…」
「無いと不便でしょう?繰り返しますが、あなたが僕にしてくれたことを返してるだけなんですよ」

自分としてはそんな大したことをしたつもりは一切なかったのだが、同じことを受ける側になると急に申し訳なくなるのはなんなのだろう。でも確かに連絡が取り合えないのは不便である為、厚意を甘んじて受けさせて頂くことにする。

「ひとまず今日は米花駅の近くまでお送りします。…そうですね…夕方五時に駅前で落ち合いましょう」
「わかりました。それまでは私も米花町を散策してます」

まずは本屋で地図を買う。どんな施設がどこにあるのかを確認して、図書館でもあればそこで情報収集もしたいと思う。
服やアメニティ類もある程度揃えておきたい。いつまでも安室さんの服をパジャマ代わりにお借りする訳にはいかないし。
ポアロの位置も把握しておきたいので、のんびりそっちの方にも足を伸ばしてみても良いかもしれない。

安室さんと交代で、和室で着替えさせてもらった。私は昨日買ったばかりのワンピースに。安室さんはグレーのスーツだ。
露出した腕や足に手当ての跡があって少し痛々しいが、昨日よりはマシだろう。捻挫も安室さんの手当のおかげかさほど痛くはない。

「それでは、行きましょうか」
「はい」

安室さんと一緒に家を出る。
なんだかんだ、やることは沢山ありそうだ。



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