17

「それでは、夕方五時にここで」
「はい。いってらっしゃい」

安室さんに車で米花駅まで送ってもらい、昨日ぼんやりとしていた噴水の前に佇む。私を送り届けるとすぐに行ってしまった安室さんは、やはりとても忙しい人なのだろう。

駅は通勤の人達で溢れている。皆忙しなく歩いていて、その人の流れを見つめながらこの世界のことを考える。
この世界にもたくさんの人が生きていて、生活している。自分の世界とは違う場所なのに不思議な感覚だった。
人の邪魔にならぬよう少し脇に避けて、雑踏に視線を向ける。
本来なら交わらなかった世界線。私がここにいるのはおかしなことだし、この世界において私は恐らく唯一の異分子だ。
近くて、遠い。
この世界に、私を知ってる人間はいない。この世界に関わる全てが、私の初めて。
知り合いも友達も、職場の人も誰もここにはいない。
何故だろう。それが気楽で心地よくて、少しだけ嬉しかった。


さて、いつまでもここでぼんやりとしているわけにはいかない。
気を取り直すと、私は米花駅周辺を見回した。飲食店やコンビニがあって、そのすぐ近くに本屋を見つけたため迷わずそこに向かう。米花町の地図を手に入れると、ボールペンで米花駅に赤く印をつけた。
まずは、ここからスタート。地図を見ると図書館もあるみたいだから、そこに言って時間を潰し、米花駅に戻ってくるのを今日のスケジュールとして決めた。

「図書館に行く前に、買い物しちゃおうかな」

服と、簡単な日用品。荷物にはなってしまうけど、図書館と米花駅の距離がどの程度かわからないため戻ってきてからの買い物は時間的にも少し不安だ。安室さんを待たせたくはない。
よし、と小さく意気込むと、私は先に買い物を済ませることにした。
のだが。


「おや、こんにちは」
「……………こんにちは。そしてさようなら」
「随分と嫌われてしまいましたね」

駅の近くに衣料品も売っている大型のスーパーがあった。衣料品もアメニティ類も全部揃えられると思い、まずはそこに向かったのだが。
レジを通り、袋に買ったものを詰めていたら見覚えのあるメガネの男性に声をかけられたのである。
すらりとした長身。深く、良く通る声。メガネの奥の細まった目。
安室さんにも慎重になるようにと注意をされたその人、沖矢昴さんであった。
昨日の今日でどうして出会ってしまったのだろうと思いながら即座に踵を返したが、しれっと嫌味を言われてしまうとなんとなく立ち去り辛い。思わず足を止め、ゆっくりと振り返る。
沖矢さんは私の態度を気にした様子もなく、小さく笑って首を傾げた。なんというかとても余裕だ。

「……何か御用でしょうか」

慎重にと言われたが拒絶する必要は無い。昨日出会ったばかりの人に、失礼な態度だったなと少しだけ反省して沖矢さんに向き直る。
すると沖矢さんは少しだけ意外そうな顔をした。

「おや。まさか話に応じてくれるとは」
「……話がないのであれば失礼します」
「まぁそう急かないでください」

話に応じるしかないと思って振り返ったというのに、さらりと流されてしまうとほんの少しの不愉快さに眉が寄る。沖矢さんは軽く肩を竦めた。

「いえ。昨日お会いしてからあなたのことが気になっていたものですから。あれから無事に待ち人とは会えましたか?」
「…私、待ち合わせしてるなんて一言も言ってなかったと思うんですけども…」
「コナン君から聞いたんですよ。昨日あなたが駅を離れてすぐ、あのボウヤがあなたを探しているのを見かけたんです」
「コナンくんが?」
「えぇ。安室さんが探していると話していましたよ」
「えっ、安室さんのことも知っているんですか?」

予想していなかった名前が飛び出して目を瞬かせる。
随分親密そうな物言いだが、コナンくんとは知り合いなのだろうか。安室さんは沖矢さんに気を付けた方が良いと言っていたが、どういう関係なのか。首を傾げていれば、沖矢さんはくすりと小さく笑う。

「コナン君の親戚の家に居候させていただいてるんです。コナン君もよく遊びに来ますよ。安室透さんとは何度かお会いしたことがありまして。嫌われてしまっていますがね」
「…そうだったんですか」

コナンくんのお知り合いとわかって、それまで抱いていた懐疑心がするりと解けた。コナンくんは安室さんが信頼している子だ。その子の知り合いであるなら、とりあえず悪い人ではないだろう。
安室さんは慎重にと言っていたし信用に足る人物かはまだわからないが、態度は改めなければならないだろう。私は沖矢さんに向き直る。

「昨日はすみませんでした。誰かと話すような余裕がなかったので…」
「気にしていませんよ。昨日より、顔色も良いみたいですし」
「…顔色、ですか」

昨日のことを思い出して、傍から見るとそんな酷い顔色だったのだろうかと考える。
混乱して途方に暮れていたし、何も飲んだり食べたりしていなかったし、確かに体調としてはあまり良くなかったかも。そんな私の様子を見て、心配してくれていたのかもしれない。
ぱちぱちと私が目を瞬かせると、沖矢さんは小さく笑った。

「もしこの後お時間があるなら、お茶でもいかがですか。昨日突然声をかけてしまったお詫びに、ご馳走しますよ」
「え?で、でもそんな、そこまでは…」
「僕の気持ちですから。荷物も多そうですし、車で来ているので良ければ送っていきますよ」

こんなふうに言われて、軽くついて行っても良いものなのだろうか。断るのが普通だとは思うけど、でも善意だったとしたら断るのも正直心苦しい。時間はたっぷりあるのだし。
考え込んでしまう私に苦笑して、沖矢さんは軽く肩を竦める。

「…なるほど、警戒心の強いお嬢さんだ」
「…いえ、警戒心を持てってよく怒られるんですけども…」

安室さんに。
警戒心を持てと言われる自分の行動をよくよく振り返ってみれば、見ず知らずの男性であった安室さんを家に上げたのは確かに警戒心にかける行動だったと今ならわかる。なんだろう、強く引かれた何かがあったのかもしれない。あの時はそうするのが正しいと思ったし、それは今でも変わらない。
ちら、と沖矢さんを見ると変わらずこちらを見つめていた。

「…わかりました。それじゃあ、ご一緒させてください」
「あなたを頷かせた決め手はなんです?」
「コナンくんです。コナンくんのことを私は信頼してる…ので、そのコナンくんの知り合いだと言うなら信じてみようかなって」

昨日今日で信頼してるなんて言うのも変だったかなと思い少し言葉に詰まった。でも間違いは言っていない。
沖矢さんとコナンくんが知り合いなら、きっと私も信頼に値する人物なんだろう。事実昨日コナンくんは私を見つけてくれたのだから。
それに警戒はあれど、沖矢さんは悪い人には見えない。きっと大丈夫。そう思ったから頷いた。

「…不思議な女性ですね、あなたは。警戒心が強いのかと思えば、それをあっさりと解く。お誘いした僕が言うのも変な話ですが、確かにあなたはもう少し警戒心を持った方が良い」
「……う…」

あれ、デジャヴ。
安室さんにも同じようなことを言われたなと思い出して苦笑した。


***


沖矢さんに案内されて、スーパーの近くにあった喫茶店へと入る。そこは少しレトロな、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。店内に漂うコーヒーの香りが心地良い。
窓際の席に沖矢さんと向かい合わせで腰を下ろした。

「どうぞお好きなものを。ケーキもありますよ」
「そんなにお腹も空いていないので…それじゃあ、カフェラテを」

沖矢さんが店員さんに注文するのを見つめ、そのままぼんやりと窓の外を見つめる。
通勤ラッシュの時間帯は過ぎた。行き交う人の波は少し落ち着いたようで、駅へ向かう人の速度も少し緩やかだ。

「改めまして、僕は沖矢昴といいます。東都大学大学院に在籍しています」
「えっ、学生さんだったんですか?しかも大学院ってことは、とても頭が良いってことですよね」

東都大学…というのは私の世界でも聞いたことがある気がするが、同じものでは無いだろう。東大と同じようなものだろうかと思いながら、そこの大学院となると相当頭が良くないと入れないのではと目を瞬かせる。

「東都大学をご存知ですか」
「え?えっと、はい。まぁ」

どう答えたら良いかわからず曖昧に言葉尻を濁す。知ってるとも知らないとも言えなくて、軽く笑って誤魔化すことしか出来なかった。刺さる沖矢さんの視線が痛い。

「…きょ、今日は大学はお休みなんですか?」

無理矢理すぎる話題逸らしだったが、沖矢さんはさして気にした様子も見せなかった。

「えぇ。ミナさんは?」
「えっ、あ、私も今日は…お休みなので」

何気ない会話のはずなのに、沖矢さんの問いに上手く答えることが出来ない。まさか沖矢さんに出会ってお茶までするだなんて想定外だった為、自分の設定すら上手く考えられない。やっぱり軽率についてくるんじゃなかったと後悔した。
どうしたものかと少し身動ぎすると、タイミングよく店員さんがカフェラテを運んできてくれて胸を撫で下ろす。沖矢さんの前にはコーヒーが置かれた。
砂糖を溶かして口に運ぶ。コクがあってまろやかでとても美味しい。ほうと息を吐いて、もう一口こくりと飲んだ。

「怪我、手当てされたんですね。心配していたんです」
「えっ、あぁ…はい。ほとんど掠り傷なので、大したことないんですけどね」
「でも、その足首は痛そうですね。捻挫でしょう?歩き方が少し不自然でしたので」

湿布を貼った足をちらりと一瞥され苦笑する。
安室さんの手当のおかげで痛みは大分抑えられているが、やはり歩くと少し痛むのは誤魔化せなかった。

「えっと、まぁ…。さほど痛まないので問題ないですけどね」
「なるほど。腕のいい人に手当をしてもらったようだ」
「え?」
「いいえ、こちらの話です」

小さく笑った沖矢さんがメガネを指先で軽く持ち上げた。それからコーヒーを一口飲んで、顔を上げてにこりと微笑む。

「そういえば、お送りすると言いましたが…この後はもう帰られるんですか?」
「あ、いえ。図書館に行こうと思ってたんです」
「米花図書館ですか。少し距離がありますね」

どの程度離れているかはわからなかったが、普通に歩いていくつもりだった。距離があると聞いて眉を下げる。

「あ…歩いては行けない距離ですか」
「その足でですか?無理だと思いますよ。ここからならバスが出ていたと思いますが…それでしたら米花図書館までお送りしましょう」
「えっいいんですか?助かります。ありがとうございます」

沖矢さんが無理だと言うなら多分そうなんだろう。スマホもないから移動時間や移動手段なんかも調べることが出来ない。ネットの便利さを痛感し、それと共にアナログでしか調べられないことに歯痒さを感じた。
これは、ネットカフェとかでバスのルートとかも少し調べておいた方が良いかもしれない。

「米花図書館と言えば、何ヶ月か前に事件があったところですよね」
「えっ?!」
「おや、ご存知ありませんか?職員の一人が行方不明になり、図書館で死体で発見されたんですよ。犯人は館長だったと思いますが」

なんてことだ。
忘れかけていたがここ米花町は安室さんが治安が悪いと言い切るような場所だ。私の世界ですら血生臭い事件は多々あったが、それを優に超える犯罪率だという。たまたまかもしれないが、早速聞いた血生臭い話に顔も引き攣る。
こういうところでも、私の世界との違いを突き付けられる。

「…嫌な事件ですね」
「殺人事件なんて珍しくもないですけどね」

さらりとそんなふうに言わないで欲しい。
日常会話に殺人事件の話が上がるくらい、この街では普通のことなのかもしれない。
カフェラテのカップを握る手に汗が滲んだ。

「…殺人事件、ですか…」

視線はカップの中に。
ぽつりと呟いて、急に乾いた口を潤すためにカップを口に運んだ。

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