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ふと、夜中に目が覚めた。
当然ながら辺りは真っ暗で、いつものように傍に透さんの温もりがないことにひやりと胸が冷たくなる。
やっぱりまだ、暗闇は怖い。どうしてもいろんなことを思い出してしまうし、もう塞がったはずの傷がじくじくと痛み出す気がする。
ほんの少しだけ顔を動かして隣を見れば、ベッドの上で眠っている蘭ちゃんの寝息が聞こえる。良かった、私が起きたことで彼女を起こしてしまうのは忍びない。

蘭ちゃんとコナンくんとお話をした後、お風呂から上がった毛利さんにもうそろそろ休めと促されて蘭ちゃんの部屋に引き上げたのを思い出す。寝る前に蘭ちゃんにアルバムを出してもらって、工藤新一くんの写真をたくさん見せてもらったのだった。
私には幼馴染というものがいないから、羨ましいと思うと同時にとても素敵だなと思った。御両親同士の仲が良いというか、御両親同士も幼馴染だとかで、本当に蘭ちゃんと工藤くんは生まれた時から一緒に育ったみたいだ。親戚だからなのか、コナンくんは幼い頃の工藤くんに瓜二つだったし…高校生の工藤くんは、やっぱり快斗くんと瓜二つだなと思った。もちろん口には出さなかったけど。

蘭ちゃんの部屋のベッドの隣に布団を敷いてもらって、布団に入ってからしばらくはぽつぽつと蘭ちゃんと話をしていたけど…そのままどうやら、お互いに寝落ちてしまっていたみたいだ。すっかり目が冴えてしまって体を起こした。
ふぅ、と息を吐いて、ふとドアの隙間から漏れる光に気がついた。よくよく耳をすませれば、テレビのような音も聞こえる。
…まだ誰か起きているのだろうか?こんな時間にコナンくんが起きてるとは考えにくいし、毛利さんかな。
蘭ちゃんを起こさないように布団から抜け出すと、音を極力立てずにそっとドアを開ける。

「…毛利さん」
「ん、よぉ。どうした、こんな時間に」

思った通りリビングで寛いでいたのは毛利さんで、ローテーブルの上にはビールの空き缶が並んでいる。一人で晩酌かな。今し方冷蔵庫から出してきたであろうビール缶が何本か傍に置いてあるから、まだ寝るつもりは無いのだろう。

「眠れねぇか」
「えっと、はい。…少し目が冴えちゃって」
「枕が変わると眠れなくなる質か?」
「そういうわけじゃないんですけど」

苦笑する私を見て、毛利さんは少しだけ考えるような素振りを見せた後、ビールの缶を持ち上げて軽く揺らした。

「なら、一杯付き合え」

に、と笑って言う毛利さんに誘われて、 私はローテーブルを囲うようにして腰を下ろした。毛利さんは新しい缶ビールを空けてくれる。小さめの35缶だ。缶を受け取って乾杯。口に運ぶと、程よく冷えた炭酸とすっきりした苦味が舌を通り喉へと流れていく。ビールなんて久しぶりに飲んだけど美味しいな。

「今日はありがとな」
「えっ、何がですか?」

突然お礼を言われて目を瞬かせた。お礼を言われるようなこと私何もしてないはずなんだけど。毛利さんはテレビに向けていた視線をちらりと私に向けると軽く肩を竦める。

「泊まりに来てくれて、だよ。蘭が無理でも言ったんだろうが、あいつ本当に楽しみにしてたんだ」
「えっ、そんなとんでもないです。…むしろ、記憶失ってた私を一時的にここに置いてくださろうとしてたって聞きました。記憶が戻ったから良かったけど…戻ってなかったら、きっと私どうしたら良いかわからなかっただろうし…」

記憶がもし戻らないままだったら、退院後どうしていただろう。透さんの家に行くというのは、もしかしたら薄い可能性だったかもしれない。記憶をなくしていても私は透さんに惹かれていたし、透さんの傍にいたいと感じていたのは否定出来ないけど、それでもいきなり二人暮らしと言われてそれに馴染んでいけただろうか。不安がある中で、透さんの家か、毛利さんの家かという選択肢をいただけたことはやはり嬉しかった。

「蘭から聞いたかもしれねぇが、蘭も記憶喪失になったことがあってな」
「あ、はい。聞きました」
「なんつーか、あの時の蘭を見てるからってのもあるんだが…ほっとけねぇって思ったんだよ。記憶失って、周りが誰かもわからねぇだろうし、仲良さげに話しかけてくる奴ら皆初対面な感覚だろ?蘭やコナンなら男に比べりゃ安心だと思ってよ。安室くんに任せるのももちろん良いんだろうが、選択肢は多い方がいいだろ」

そんなことまで考えてくれていたのか、と胸が温かくなる。
こう言ってはなんだけど、所詮私と毛利さん達は赤の他人だ。血縁のように繋がっているわけじゃない。知り合いで…友達だとしても、他人の為にここまであれこれ考えられる人がこの世界に一体どれだけいるだろうか。少なくとも前いた世界には、いなかっただろうな。この世界は温かい事に溢れている。

「…ありがとうございます、毛利さん」
「あー、その、なんだ。…蘭もコナンも、ミナさんのことを慕ってんだよ。蘭の奴もなかなか甘えられるような相手もいなかったし、コナンも親元から離れて暮らしてて…普段は一切不安そうな素振りなんて見せねぇけどよ。…なんつーか、…あいつらのこと、頼むわ」

毛利さんの頬はほんの少しだけ赤く染まっていた。それが酔いのせいなのか照れなのかはわからなかったけど…口元をムズムズさせながら蘭ちゃんとコナンくんのことを頼むと言う毛利さんは、なんだかいつも以上に素敵に見えて。私にお父さんはいないけど、お父さんがいたらこんな感じなのかなと思った。

「…はい、頼まれました」

にこりと笑って言えば、毛利さんはちらりと私を見て照れ臭そうに笑った。
頼まれましたなんて言っても、私なんかが出来ることは少ないと思うけど…でも、皆が困っていた私に手を差し伸べてくれたように、皆が困っていたら今度は私が手を差し伸べられるようになりたい。

缶ビールを飲み終わる頃には私の頭はほんのりとぽーっとしていて、冴えていた目もいつしか重たく感じられるようになっていた。
私も少し酔ってしまったみたい。

「眠れそうか?」
「はい、お陰様で。ビール、ご馳走様でした」
「こちらこそ付き合ってくれてありがとな。あ、缶はその辺に置いといてくれ。一緒に片付けちまうから」
「すみません、お手数かけます。…毛利さんはまだお休みにならないんですか?」

せめてもと空き缶を一箇所にまとめながら問えば、毛利さんは持っていた缶を軽く揺らして見せた。

「おう、これだけ飲んだら寝るよ」
「そうですか」
「ん。お休み」
「…お休みなさい」

お休みの挨拶をしながら立ち上がって、軽く頭を下げてから蘭ちゃんの部屋に入る。
蘭ちゃんを起こさないようにそっとドアを閉めて布団に潜り込んだつもりだったが、不意に暗闇の中でベッドから「ミナさん」と呼ばれてびくりと身を竦ませた。

「…ごめん、起こしちゃった?」
「いえ。…父に付き合ってくださって、ありがとうございます」

ふふ、と笑う蘭ちゃんに首を傾げる。蘭ちゃんは布団に丸まったまたこちらを向いている。窓から差し込む月明かりが明るいせいで、蘭ちゃんの表情まで薄らとだが見ることが出来た。

「父が、ミナさんとお酒飲みたいって、言ってたから」
「…うん、一杯だけご一緒させてもらっちゃった」
「喜んでると思います」
「付き合ったなんてとんでもないよ。私の方が付き合ってもらったようなものだし」

お泊まりに来て良かったと思う。私がこの世界で、こんなに素敵な人達と出会って過ごしていけるだなんて最初の頃は考えていなかった。いつの間にか私の深いところに食い込んで抜けなくなっていたみたいだ。
蘭ちゃんと顔を見合わせてくすくすと笑う。

「…お休みなさい、ミナさん」
「お休み、蘭ちゃん」

今度は、よく眠れそうだも思いながら目を閉じた。


***


「それじゃ、お世話になりました」
「なんだか仰々しいなぁ」
「ミナさん、またいつでも泊まりに来てくださいね。大歓迎ですから」

翌朝、蘭ちゃんの作った朝食をご馳走になってから適度にお暇することにした。毛利さんと蘭ちゃん、コナンくんに階段下までお見送りに来てもらっちゃってなんだかくすぐったいというか、照れ臭い。

「今度ボク、ミナさんのお家に泊まりに行きたいなぁ」

ニコニコと笑うコナンくんにそんなことを言われて背筋が震えた。…この子、私と透さんが一緒に住んでることを知っていながらこういうことを言うんだから本当に恐ろしい。
いくらコナンくんだろうと、透さんの許可もなくお家に上げるわけにはいかない。

「うーん、機会があったらね」
「ちぇっ」

濁すように言えばコナンくんの舌打ちが返ってくる。けど拗ねたような表情は本気ではない。彼自身、冗談のつもりで口にしていたんだろう。

「それじゃあ」
「またね、ミナさん!」

毛利さん達に手を振って踵を返す。ちらりとポアロを覗いてみたけど透さんの姿はなかった。今日は朝からのシフトではないようだ。

さて、このまま真っ直ぐ帰るのもいいけど、せっかくまだ朝この時間に外にいるんだしなぁと考える。明日から仕事だから早めに帰るのはもちろんだけど、お昼すぎくらいまでのんびり遊んで帰ろうかなぁ。
そんなふうにブラブラと駅前まで来ると、ふと見慣れた長身が目に入った。帽子を被っているけど、あの横顔は快斗くんだ。けど一人じゃなくて、傍に見たことの無いおじいさんがいる。誰だろう?
首を傾げて立ち止まっていたら、そんな視線に気付いたのか快斗くんが振り向いた。目が合うと、快斗くんは軽く手を上げている。

「やっほーミナさん」
「快斗くん、こんにちは」
「どーしたの、こんな時間からこんなとこで」
「お友達の家にお泊まりだったんだ。お友達にはのんびりしていけばいいって言われたんだけど、明日からの準備もしたいしお暇してきたの」
「そっか、明日から仕事も復帰だもんな」

快斗くんとそこまで会話をして、傍にいたおじいさんと目が合って慌てて頭を下げた。眼鏡をかけた、柔らかい雰囲気のおじいさんだ。

「ミナさん、こっちは寺井黄之助。テライって書いてジイって読むんだ。…って、この話一度したな」
「あっ、噂の寺井さん!初めまして、佐山ミナといいます」
「初めまして佐山さん。快斗ぼっちゃまからお話は常々伺っております。寺井と申します、以後お見知り置きを」
「…かいと、ぼっちゃん」

あまりに意外な呼び方に一瞬呆けてしまったが、いやいや園子ちゃんだって園子お嬢様と呼ばれるような立場だし、なんかそういう感じなんだろうと自分を納得させる。

「怪盗キッドのことも、よくご存知だとか」

寺井さんの言葉に小さく息を飲む。
寺井さんは変わらず穏やかに微笑んでいて、私は戸惑いながら快斗くんを見上げた。彼は私の視線に気付いて小さく頬を緩める。

「…そ。前に話したと思うけど、俺≠フ協力者」

そうだ。快斗くんが怪盗キッドをしている理由を話してくれた時に、寺井さんが協力者であることも言っていたのを思い出す。さらりと伝えられたことだったから、寺井さんのことはぼんやり覚えていても協力者であるということまではすっかり忘れてしまっていた。
何となく快斗くんの雰囲気がいつもと違うような気がして、ざわりと胸が疼く。

「…快斗くん、なにか大変なこと?」
「んーん。ま、いつものやつだよ、いつもの」

いつもの、というのは盗みのことだと思うけど…また怪盗キッドが狙うようなビッグジュエルが出てきたのだろうか。

「ミナさん、絵画は好き?そうだなー、例えば向日葵とか」
「えっ?」

向日葵の絵画と言えば、フィンセント・ファン・ゴッホによって描かれたものが有名だけど…ゴッホの名前を出すのは少し戸惑われた。私の世界で知られるゴッホが、この世界にも存在するかがわからなかったからだ。コナン・ドイルや江戸川乱歩のような小説家に関しては何人か共通している人物を確認していたけど、画家に関しては全くノータッチだった。
確か七点制作された絵画で、現存しているのは六点だった気がするけど…快斗くんが示しているのがその向日葵かどうかはわからない。

「…うん、向日葵は好きだよ」
「そっか。…んじゃ、いっちょ頑張りますか」
「…ん?」

彼の言葉の意味がよくわからなくて首を傾げたけど、快斗くんはただ笑うだけだった。向日葵のような、明るい笑顔で。


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