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子供達を追って、ろくに展示も見ないまま美術館の中を進む。人の流れはゆったりしているのに、その中急ぎ足で進む私はさぞかし不思議な人に見えるんだろうなぁなんて思って苦笑した。
意外なことに、館内には小学校低学年くらいの子供の姿も多く見受けられた。夏休みだからというのは確かにあるかもしれないけど、美術館にこんな小さな頃から来るなんてすごいなぁ。しかも意外にも熱心に展示を見ているんだから感心してしまう。そんな子供達を横目に見ながら足を進めれば、最後の展示室の方から元太くん達の声が聞こえて視線を向けた。
あ、いた。

「ひまわりってどれだ?」
「あっ、ありましたよ!」

光彦くんがひまわりの方を指差し、三人はひまわりの前に駆け寄っていく。こらこら、さっき走っちゃダメって言ったでしょ。すっかり聞き流されてしまっていたようで小さく溜息を吐きながら肩を落とした。

「どれだ?!どれがひまわりだ?!」
「これでしょ!この真ん中の!」
「こーら!」

ガラスに張り付く三人の背後まで歩み寄り、少し怒ったように声をかける。三人は私に気付いて軽く振り向いたけど、バツの悪そうな顔さえしない。

「あっミナお姉さん!」
「見てください!ひまわりですよ!」
「うん、わかったから、君達もうちょっと静かに。他の人の迷惑になるからね」
「いいからほら!ミナ姉ちゃんも!」
「…もう…」

私、一応大人として叱っておかなきゃと思ったのに全くダメージになってない。それどころか元太くんに腕を引っ張られてしまった。…まぁ、走ったりしないで静かに展示を楽しんでくれるんなら良いんだけど。
私も小さく息を吐いて、改めて目の前のひまわりを見つめた。
花瓶に生けられた何本ものひまわりの絵。ええと、確かここにあるのは五枚目に描かれたひまわりだっけ。四枚目に描かれたひまわりの最初の模写である、五枚目。全体的に温かみのある黄色と茶色、緑をメインに描かれていて、見ているとなんだかほっとする絵だ。こうしてゴッホの絵画をまじまじと見たことなんて前の世界でもなかった。
前の世界のゴッホと、この世界のゴッホ。…交わっていることは有り得ないと思うけど、どこかで繋がっていると感じられるのは嬉しい。

「きれ〜…」
「すごいですね…」
「なぁ、そういやこれって何がすげーんだっけ」

感嘆の声を漏らす歩美ちゃんと光彦くんに、首を傾げる元太くん。良くも悪くも子供らしい子達だと小さく笑った。…まぁ、私も何がすごいのかはよくわからない。ただやっぱりこうして見ていると力があるというか…惹き込まれるような魅力を感じる。
百年以上前に生きていた人が描いた絵画を、こうして見ているなんてなんだかすごく不思議な気がした。

「オメーら」

こそ、とした小さな声に振り向けば、コナンくんと哀ちゃんが歩み寄ってくるところだった。二人の表情は呆れ返っている。彼らの呆れは子供達にも向けられているけど…これは多分、私にも向けられているな。力及ばずでごめんなさいと思いながら苦笑すれば、哀ちゃんがちらりとこちらを見て溜息を吐くのが見えた。

「静かにしてねぇと、追い出されちまうぞ」

はぁい、と素直に返事する子供達に思わず私は肩を落とした。おかしいな、私が言ってもほとんど聞く耳を持ってくれなかったのにコナンくんの言うことは聞くのか。確かにコナンくんは私よりもしっかりしてるし大人びた子供ではあるけど、年齢を重ねた大人としてなんだかちょっと情けないというか。
しょぼんとしていたら、ふとひまわりの前にある椅子に腰掛けたおばあさんと目が合って、おばあさんがひまわりを見ているのを邪魔してしまったことに今更ながらに気づいて慌てて頭を下げた。周りが見えてないなんて本当に情けなさすぎる。

「お邪魔してしまってごめんなさい」
「すみません、騒がしくって」

哀ちゃんも一緒に頭を下げてくれた。するとおばあさんは、「いいえ」と言って笑ってくれる。
…黒…いや、濃紺、かな。深い色の着物を着た、上品なおばあさんだ。ご高齢だろうに、背中はしゃんと伸びていて凛々しさすら感じる。穏やかに笑っているけど、でもどこか物悲しさを漂わせた人だった。

「おぉ!これが五番目に描かれたと言われておるひまわりか!」

後から追いかけてきた博士がひまわりの前に張り付いて喜んでいるけど、いや、さすがに本当におばあさんのお邪魔である。でも、ひまわりを見たがっていたのは博士だし…こんなに喜ぶくらいだから、本当に楽しみにしていたんだろうな。

「ひまわり、見終わっちゃったねー」
「もういいんですか?」
「うん!」
「じゃあお土産見に行こうぜ!」

元気だなぁ。子供達は博士を連れて一足先に美術館の出口の方へと向かって行ってしまった。出口の前にお土産屋さんのブースがあるそうだし、私も少し後で覗いてみようかな。…でも今は、もう少しこのひまわりを見ていたかった。
怪盗キッドがひまわりを狙う理由。…私がこの五枚目のひまわりをじっくり見たところでそんなのがわかるはずもない。でも、彼がひまわりを欲する理由がきっと何かあるはずなのだ。
ふと見れば、コナンくんも真剣な目でじっとひまわりを見つめている。キッドキラーは仕事熱心だなぁなんて思って、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。

「お嬢さんは、」

ふと視線を向けると、椅子に座っていたおばあさんがじっと哀ちゃんのことを見つめていた。哀ちゃんが不思議そうに視線を返すと、おばあさんは柔らかく微笑む。

「ひまわりよりも別のことに興味があるようね」
「…え…?」

哀ちゃんはきょとん、と目を瞬かせたけど、やがて自分がコナンくんをじっと見つめていたことに気付いたのだろう。バツが悪そうにほんの少しだけ頬を染めて視線を床に落とした。
…もしかして哀ちゃん、コナンくんのこと、好きだったりするのかな。

「ごめんなさいね、突然。昔の自分を見ているようでほっとけなくて」
「はぁ…。…おばあさんは、よくここに来るの?」
「ええ、毎日ね」
「…よほどゴッホのひまわりが好きなのね」
「そうね…」

おばあさんと哀ちゃんの静かな会話を聞きながらぼんやりとひまわりを見つめていた。今どこにいるのかわからない快斗くんは、何を思ってひまわりを狙っているんだろう。ひまわりを狙う理由は、どこにあるんだろう。

「でも、このひまわり≠カゃない」

ぽつり、と呟かれたおばあさんの言葉に、哀ちゃんとともに視線を向ける。おばあさんの瞳は凪いでいて穏やかな光を湛えながらひまわりを見つめているけど…やはり物悲しくて、切ない色を見せている。
このひまわりじゃない、って、どういうことなんだろう。思わず問いかけようとして、ふとたくさんの足音が近付いてくるのに気付き振り向いた。
先頭を歩いているのはこの美術館の方なのか、後ろの人達を案内しているようだ。その人の後ろに続くのは、と視線を向けて、私はぱちりと目を瞬かせた。

「あれ、」

毛利さんに次郎吉さん、中森警部…それから透さんの姿まである。
まさかこんなところで遭遇することになるとも思ってなかったので、私は思わずぽかんと口を開けてしまった。透さんと目が合って、彼も少し驚いたように目を丸くしている。

「おじさん!どうしたの?」
「あっ!何でお前がここにいんだよ?!」
「おじさんこそ!」

毛利さんに駆け寄るコナンくんを追いかけると、毛利さんは私とコナンくんを見比べて目を瞬かせた。慌てて軽く頭を下げる。

「こんにちは、毛利さん。次郎吉さん。今日は阿笠博士と子供達と一緒に、ひまわりの展示を見に来たんです」

私が説明すると、毛利さんは微妙に納得し切っていないような顔をしていたけどひとまずは頷いてくれた。その後ろから顔を出した次郎吉さんが、コナンくんを見てにかりと笑みを浮かべる。

「ナイスタイミングじゃ小童!お主も加われ」
「まさかキッドが?」

キッド。どき、と胸が音を立てて息を飲んだ。
皆がひまわりの絵画の方に歩み寄るのを見ていたら、こちらにそっと寄ってきた透さんに肩を叩かれて視線を向ける。透さんは次郎吉さんや毛利さん達の方をちらりと見てから小さく苦笑した。

「透さんも、どうしてここに…」
「成り行きといいますか。毛利先生の事務所に伺ったら、丁度毛利先生のところにキッドからの予告状が」

声を潜めて告げられた言葉に目を見開いた。
毛利さんのところにキッドからの予告状が届いたなんて、一体どうして。…キッドキラーであるコナンくんに向けての宣戦布告?でも、そうだとしても一向にキッドの目的も不透明なままだ。

「園子さんの後押しもありまして、そのまま僕も捜査に加わることになったんです」
「そうだったんですか…、なんか、すごく本格的ですね。物々しい雰囲気というか」
「えぇ。…キッドの本当の目的も未だわかっていませんからね、皆ピリピリしているんですよ」

ちらりと視線を向けて、外国人の男性に目が止まった。ブロンドの髪に白い肌を持つメガネの男の人。私はその人を見たことがあった。ニューヨークの記者会見の時に、七人のスペシャリストが紹介された際にいた人。…確か、ニューヨーク市警の人。名前までは覚えていなかったけど、透さんの言う通りその人の纏う気配は酷くピリピリしている。少し怖いくらい。

「ご確認頂いたように、今のところ問題ありません。これ以上はお客様のご迷惑になるので、詳しい話は応接室の方でお願い致します」

そう言うのは先ほど先頭を歩いていた男性だ。透さんがこそっと「ここの館長さんです」と教えてくれた。…今の話を聞く感じ、次にキッドが狙うのはこのひまわり、ということなのだろうか。自分の美術館の品が狙われているなんて、館長さんも気が気じゃないだろうな。

「それじゃ、一度戻りましょう」

中森警部の声で皆わらわらと引き返し始める。中森警部は飛行船の時にもキッドを追いかけていた警部さんだ。キッド専属というか、キッドをメインに追ってる人なのかもしれない。
コナンくんは哀ちゃんに駆け寄って何かを話しているみたいだし、きっとさっき次郎吉さんに言われた通りここに残って捜査に加わるんだろう。皆移動を開始しているし、あまり透さんを引き止めては捜査の邪魔になってしまう。
透さんを見上げれば、彼は小さく微笑んだ。

「成り行きとはいえ、捜査に加わることになった以上真剣に取り組むつもりです。すみませんが、もしかしたら今日は遅くなるかもしれません」
「大丈夫です、透さん…無理はしないでくださいね」
「ええ。…あなたも」

ぽん、と私の頭を撫でると、透さんはそのまま先に行ってしまった中森警部達を追いかけて行った。
…あなたも、なんて。私は何も無理なんてしてないし、無理することもないと思うんだけどな。頭を撫でられたことでほんのり顔が熱くなった気がする。
今晩遅くなるかもしれないのはほんの少し寂しいけど、でもここで会えたのは嬉しかった。…無理しないで欲しいなと思いながら息を吐けば、ふとこちらを見つめる哀ちゃんとおばあさんに気付く。
…もしかして、み、見られていたのだろうか。

「素敵ね」

おばあさんがふわりと微笑んで、ぶわりと頬が熱くなる。頭撫でられてるところを見られていたなんて恥ずかしすぎる。
けれど、慌てる私をよそに、おばあさんは寂しそうに微笑んでいた。

「お嬢さん達は、七十年前の私と同じ目をしている。それはまるで、ひまわりの花言葉。私はあなただけを見つめる=v

お嬢さん達、というのは私と哀ちゃんのことだろう。
哀ちゃんはコナンくんを、私は透さんを…その人だけを、見つめている。おばあさんには、そんなふうに見えたんだろうか。

「…でもね、見つめているだけではいつかきっと後悔する。私のようにね」

おばあさんの瞳は、ひまわりの絵画のもっと向こう。もっとずっと、遠くを見つめていた。今≠ナはない。ひまわりを通してずっと遠くの先…過去を見つめるような。その眼差しは柔らかく、優しく、懐かしむようで、とても悲しい。

「人は、失って初めて大切なものに気付く。…あのひまわりのように」

失って初めて大切なものに気付く。それはどんなに悲しいことだろう。もう戻らないとわかりながら、それでもその大切さはきっと胸を刺すだろう。
そんな辛い思いを、このおばあさんはしたんだろうか。その辛い思いを抱えて、どんな思いで、このひまわりを見つめているんだろう。

「灰原!ミナ姉ちゃん!」

呼ばれてはっとした。
振り返ると、お土産を買い込んだらしい元太くんと光彦くんと歩美ちゃん…それから、阿笠博士が戻ってくるところだった。
ひまわりを見て、お土産も買って、これで目的は達成されたようだ。哀ちゃんは小さく笑って私を見つめ、それからおばあさんに視線を向けた。

「…ご忠告、ありがとう。悔いが残らないようにするわ」
「…大切なものを…大切にしたいと思います」

おばあさんに頭を下げて、哀ちゃんとともに子供達と博士の元に足を向ける。

大切なものを大切にする。それは言葉の通り、至極当然なことだ。
でも、大切なものを大切にするって、当然すぎて逆に見落としがちな部分なのかもしれない。例えば、空気みたいに。
そこにあるのが当然すぎて…その大切さに気付けない。近過ぎて見えないことも、もしかしたらあるのかもしれない。


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