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「…ひとまず、こうなった以上ミナさん一人では行動させられないな」

私の呼吸が落ち着いた頃に、快斗くんがそう言った。まだ心臓はやや激しめに動いていたけど、息苦しさは大分治まったし普通に息を吸って吐くことが出来る。
こんなところで立ち止まっていたら監視カメラに映ってしまうのではないかと思ったけど、快斗くんによればこの辺りの監視カメラはジャックしてあって問題ないそうだ。抜かりない。
ゆっくり息を吐いてから私は快斗くんを見つめた。

「…どうして?出口の方に向かえば…」
「聞いたろ?館内に残ってる人は俺とミナさん、それから七人の侍とかその協力者だけ。ミナさんの退館を認知出来なかったのはシステムの不備だかなんだか知らないけどさ、今の状態でミナさん一人で行動して誰かに見つかったらどうなると思う?」

快斗くんの言葉に目を瞬かせる。
…確かに快斗くんの言うこともわかるけど、でも例えばトイレにこもってましたとか、言い訳は浮かぶものだけど…。首を傾げると、快斗くんはやれやれと苦笑した。

「えっと…」
「そもそも入館客を一時間足らずで退館させた理由は?」

少なくとも私が子供達のところを離れた時には、騒ぎのようなことも何も起こってなかったし(それこそコナンくんがキッドカードを見つけたくらいだ)、退館に関するアナウンスも何も無かったはず。でも逆に言えば、退館アナウンスがあったのはコナンくん達が警備室に向かった後ということになる。
それはつまり、キッドカードが警備室に届けられてからということだ。ということは、考えられる理由なんてひとつしかない。

「…怪盗キッドを、捕まえる為…」
「その通り。つまり出入口は全て封鎖されてるし、そんな時にミナさんが出ていったらキッドの変装だと思われる可能性が高いってこと」
「そ、」

それは、困る…!!
それに出入口が全部封鎖されているとしたら、私だけでどうこう出来るようなことじゃない。快斗くんの様子から見てこうなることは予想していたんだろうし、ここは快斗くんについて行くのが正解だろう。私はあまりに無力すぎる。

「状況、わかった?」
「…痛いほど理解しました」

項垂れてこくりと頷くと、快斗くんはくすくすと笑った。その瞬間だった。
何かが切れるような機械音が建物内部、あちこちから響いてくる。ガチャンガチャンガチャン、立て続けに起こるその音に私は身を竦めた。次いで、辺りの電気が消えて薄暗闇に閉ざされる。
停電?

「な、何、」
「くそッ!」

上の方から音がして、その音はどんどん下に下がっていったみたいだった。このタイミングで停電なんて、と眉を寄せる。相次いでいた物音は電気が切れる音だったようだ。

「とりあえず移動しよう。何かあったみたいだ」
「う、うん」
「暗いから足元気を付けて」

ここが何階なのか私にはわからないけど、快斗くんにはちゃんとわかっているんだろう。手を掴まれて、彼に引かれるままゆっくりと歩き出した。
薄暗闇の中ずらりと並ぶ向日葵の造花は、どことなく不気味だ。暗闇でも真っ直ぐに正面を向いているというのも、違和感と気味の悪さを助長している。

「ごめんな、巻き込んじゃって」

なるべく向日葵の方を見ないようにしようと思いながら俯いていたら、不意に快斗くんが呟いた。突然の謝罪に、私はぱちぱちと目を瞬かせる。
…どうして、快斗くんが謝るのだろう。別に私は巻き込まれただなんて思っていないし、快斗くんが私利私欲の為だけに動くような人間じゃないことを知っている。今回のことだって、確かにいろいろと派手なやり方ではあったけどひまわりを狙っている本当の犯人がいるって話だし…詳細を知らないから全部が全部納得出来るわけじゃないが、そもそも私には快斗くんを責めるような要素はひとつもない。

「どうして、快斗くんが謝るの?」
「成り行きみたいな形ではあったけどさ、ミナさんが退館に乗り遅れたのって俺のせいかなって」
「違うよ。警備室に行こうとして迷子になってたのは私。一人ですごく不安だったし、快斗くんと会えてほっとしたよ」

快斗くんの安否もわからず、透さんは傍にいない。一人で不安だなんて子供みたいだなと我ながら情けなくも思うけど、それでもやっぱり不安だったのだ。
後ろから声をかけられてびっくりしたけど、あの時快斗くんと合流出来て良かったと思っている。
例えば、快斗くんと出会えないまま迷子のままウロウロとして、退館アナウンスにも気付けずに取り残されてしまっていたら。取り残されて一人きりのまま、こんな停電に陥ってしまっていたら。どうしようどうしようって、パニックにさえなってしまっていたかもしれない。
でも、快斗くんがいたら大丈夫だと思える。繋いだ手に力を込めながら、私は顔を上げた。

「ちゃんと、抜け出す方法はあるんでしょ?」
「トーゼン」
「でも、まだ脱出するわけにはいかないんだよね」
「さすが、わかってるね」

真の犯人が誰かは私にはわからないけど、快斗くんがここに残ったのには理由がある。ならば、私はここから脱出する為にも快斗くんの指示に従う必要がある。
私は怪盗じゃないし、こういう時にどう動いたらいいかなんてわからないズブの素人である。私が快斗くんの足を引っ張るわけにはいかない。

「…ありがと、ミナさん」

快斗くんは、小さく笑いながらそう言った。
お礼を言われる覚えもないのだけど、快斗くんが満足そうに笑うから…どういたしまして、と返した。



突然、上の方が明るく光って快斗くんと一緒に顔を上げた。窓の外、上の方を見れば、赤い光が螺旋状の廊下を埋めつくしていくのが見える。
赤い光?違う、あれは。

「快斗くん…!」
「火だ!!」

廊下の造花のひまわりが燃えていく。燃え広がっていく。火の勢いは止まることを知らず、凄まじい速さで螺旋の廊下を走っていく。私達がいるところまで燃え広がり、あまりの熱さと炎が燃える音に身を引いた。
怖い。いや、どうして火が。どこから発火したのか。何故発火したのか。わかがわからずに息を飲んだ。

「…まずい、」
「か、快斗くん?どうしよう、」
「ひまわりが燃えちまう」

え、と声が出た。
だってこのレイクロックのセキュリティは万全のはずだ。火災や浸水のトラブルの際には、確か即座に防火防水ケースに入るって透さんが言っていた。ならば、今はひまわりよりも自分達の身を心配した方が良いのではないか。
けれど快斗くんは珍しく少し狼狽えているようだった。

「ミナさん、来て!」
「ど、どこに行くの?!」
「まずは五枚目のひまわり!犯人はひまわりの絵画を燃やすつもりだ!!」

ひまわりの絵画を燃やすって、一体何の為に。犯人はひまわりの絵画が欲しいというわけじゃない、ということなのか。


***


快斗くんの言った通りだった。
絵画はトラブルの際には壁の奥へと引っ込んで防火防水ケースに入り、そのまま非常用シューターに流されていくシステムだ。けれど五枚目のひまわりの額縁と壁の間に金具が嵌め込まれ、奥に引っ込まないように細工がされていた。
その金具は私と快斗くんで引っ張って何とか外すことが出来たものの、犯人が狙っているというもう一枚のひまわり…二枚目のひまわりにも同様の金具が嵌め込まれており、これが上手く外れてくれないのである。

「くっそぉ!!」

快斗くんの叫びが上がる。
額縁と壁の間に嵌め込まれた金具は奥の方に入り込み引っ掛かってしまっているらしく、いくら動かしてもガタガタと耳障りな音を立てるだけだ。
こうしている間にも、あたりは既に火の海。
ともすれば思い出してしまいそうな火の恐怖に、歯を食いしばって耐える。大丈夫、今は私は一人ではないし腕や足を縛られているわけじゃない。自由に動けるし、声も出せる。…部屋に閉じ込められて火に巻かれそうになったあの時とは、違う。
不意にぼんやりとしてしまって、背後で何かが割れて崩れるような音にびくりと体を震わせた。ぼんやりとしていてはいけない。慌てて首振る。

「…まずいな、早くしねぇとッ、ひまわりどころか俺達まで!」
「快斗くん、もう諦めよう。無理だよ、私達も早く逃げないと…!!」
「ダメなんだよ!!」

焦りから強い言い方になってしまったが、それ以上に強く快斗くんに言い返されて息を飲んだ。
ダメ、って。

「どうしても、どうしてもダメなんだよ!これだけは、…このひまわりだけ見捨てるなんてこと、絶対に出来ねぇ!!」

快斗くんが見つめる、二枚目のひまわり。芦屋で燃えたと言われていたひまわり。どうして、この絵に快斗くんはここまで拘るのだろう。
私は、命が大事だと思った。こんな状態で、むしろ五枚目のひまわりを守っただけでも充分なんじゃないのか。確かにひまわりは大切だ。大切な遺産だ。けれどそれは、人の命よりも、大切なものなんだろうか。

「ミナさんは逃げて」
「え、」
「俺に付き合う必要はない。そこの廊下を進んだ先に非常用のエレベーターがあるはずだ。それに乗れば地上に出られる。こんな状況じゃ、セキュリティも何もねぇだろ」
「待ってよ、なら快斗くんも一緒に」
「俺は残る。…ごめんね、ミナさん」

快斗くんはそう言って、ほんの少しだけ困ったように笑った。
このひまわりには、快斗くんが命をかけるほどに大切な何かがある、のだろうか。下手をすれば自分が死んでしまうかもしれないような状況で、諦めることなくしがみつく。そこまでするほどの、何かが。

「…そう、だよね」
「ミナさん?」
「うん。…快斗くんも、諦めない人だったよね」

絶望的な状況でも、諦めない人達がいる。そんな彼らの背中に、私は憧れているのだ。
快斗くんが握っていた金具に手を添える。私の力が増えたところで大した力にはならないだろうけど、一人よりは絶対にマシなはずだ。

「…ミナさん、どうして」
「快斗くんがひまわりを見捨てられないって言うなら…私は、快斗くんを見捨てられない」

一人だけ逃げて私だけ安全な場所から見ているなんて、そんなのは嫌だ。だから、快斗くんと一緒にひまわりを守って…一緒に、生き延びる。それが、最上の結末だ。

「急ごう」
「…あぁ、」

快斗くんと顔を合わせて頷き合い、金具を掴んだ手に力を込める。色々動かしてみるけどやっぱり外れない。奥で引っかかって、相も変わらずガタガタと音を立てるだけだ。
お願い、外れて…!

「キッド!!」

しないはずの声がして、快斗くんと弾かれたように振り返る。
炎の中転がるように駆け寄ってくるのは小さな影。コナンくんだった。

「お前、戻ってきたのかよ!!」
「コナンくん?!」
「っ?!ミナさん?!なんでここに!灰原達と一緒にいたんじゃ、…いや、そんなことは後回しだ!もう一枚のひまわりは?!五枚目のひまわりは大丈夫なのか!!」

コナンくんは既にこの状況を正しく理解しているらしい。恐ろしい子供だ。

「そっちのストッパーはすぐに外れたんだけど、」
「こっちが変なところに、引っ掛かっちまってな!」

金具は抜けない。早く外さないと、この火事の熱で絵の具が溶けてしまう。そんなことになったら、私達の努力は無駄に終わる。

「どいて!キッド、ミナさん!」

コナンくんが私達から少し離れて、右足のスニーカーを何やら弄る。それと同時に、彼のスニーカーが虹色に輝き始めた。
これは、見たことがある。東都水族館、あのオスプレイを落とした時だ。あの時も彼はスニーカーを弄り、サッカーボールを夜空に向かって蹴り飛ばしていた。
何を、と思いながら身を引けば、快斗くんは慌てたように言った。

「馬鹿よせ!ひまわりだぞ?!人類の宝だぞ!!」
「っらぁああああ!!」
「わぁあ!!」

一刻を争う状況だからかコナンくんは快斗くんの制止も聞かず、軽く助走を付けて近くにあった瓦礫の破片を強く蹴り飛ばした。
勢い付いた瓦礫は真っ直ぐに額縁のすぐ側の壁へと直撃する。若干快斗くんを狙っていたように見えたのは気のせいだと思いたい。

「お前、俺を狙ったろ!!」
「んなこと言ってる場合かよ!!」

瓦礫は壁に直撃したが…壁が軽く崩れ、大きなヒビを残したものの金具を外すほどの衝撃は与えられなかった。

「ダメ…これ、壁を壊さないと」
「くそ、あの爺さんどんだけ頑丈に作って…!」

早くなんとかしないと。焦りばかりが募って、いい解決策なんて浮かびもしない。どうしよう。どうすれば。叫び出したいような衝動を押さえ込みながら唇を噛んだ、その時だった。

「コナンくん!!」

炎の燃え盛る音の合間に聞こえた、高い声。
振り向いたその先、廊下の曲がり角から姿を現したのは、蘭ちゃんだった。


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