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「ミナさん…?!新一も!やっぱり来てたのね!!」
「蘭ちゃん?!」

なんてことだ。コナンくんだけじゃなくて蘭ちゃんまでこの火事の中に戻ってきてしまったというのか。
けれど、コナンくんと蘭ちゃんがここに戻ってこられたということはエレベーターが問題なく稼働しているということだ。急いでひまわりさえなんとか出来れば、充分に脱出する術がある。ただし当然残された時間は少ない。

「ちょっと!聞いてるの?!ミナさんも、早く逃げないと!」

蘭ちゃんが駆け寄ってくるけど、快斗くんもコナンくんも顔を見合わせてにやりと笑っている。…これは、何かを思いついた顔だ。蘭ちゃんが来たことで彼らの顔に希望が浮かんだ。どういうことだかわからないけど、何か突破口を見つけたらしい。

「蘭姉ちゃん!」
「蘭!」

「力を貸して!」
「力を貸してくれ!」

「えっ…どういうこと?」

ごめん、私もよく分からないので口を挟むことが出来ない。私でさえ戸惑ってるんだから蘭ちゃんの戸惑いと混乱はそれ以上だろう。

「ひまわりが引っ掛かっちゃったんだ!」
「こいつを抜くには、壁を壊すっきゃねぇ」
「そんなの無理よ!!」
「お前なら出来る」

で、出来ないよぉー…!
思わず心の中で叫んだ。コナンくんも快斗くんも真剣に蘭ちゃんに訴えかけてるけど、いや、壁を壊すって。壁を壊すって?!
さっきコナンくんが瓦礫をぶつけたお陰で確かに壁にはヒビが入っていて脆くはなっているみたいだけど、それにしても蘭ちゃんみたいな女の子の力でどうにかなるようなものじゃない。と、思う。…コナンくんと快斗くんが口を揃えて言うからには何かあるんだろうけど、私にはどうにかならないとしか思えない。

「…うん、やってみる。下がって新一。コナンくんとミナさんも」
「え、えぇ…?」

やってみるってどういうことだ。
蘭ちゃんは軽く手を握ったり開いたりしながら腰を落とし、コナンくんと快斗くんは真剣な眼差しで蘭ちゃんを見つめながら一歩後ろへとさがる。この場においてよくわかっていないのは私だけで、一体今から何が始まるのかと固唾を飲んで見守ることしか出来なかった。
深呼吸をする蘭ちゃんに、コナンくんと快斗くんが叫んだ。

「頼む!」
「蘭!!」
「せいやぁあああああっ!!」

蘭ちゃんの咆哮が響き、鋭い掌底が壁に叩き込まれる。それと同時に壁が音を立てて崩れ、次いで蘭ちゃんの回し蹴りが引っ掛かっていた金具に炸裂する。金具は呆気なく弾き飛ばされ、ストッパーのなくなったひまわりは壁の奥へと引っ込んで防火防水ケースに収まり、非常用シューターへと流されていった。

「よし!!」
「やったぁ!!」

一体何が起こったのだ。コンクリートの壁ってヒビが入っていたらこんなに簡単に壊せるものなのか。私は一体今、何を目にしたんだろう。
蘭ちゃんが喜びに飛び上がって快斗くんに抱きついているけど、私はそれどころではない。
蘭ちゃんが帝丹高校の空手部主将で空手がすごいっていうのはふわっと聞いたことがあった気がするけど、これ、すごいっていうレベルじゃないんじゃ。蘭ちゃん、何者。
呆気に取られてそんなことを考えていた時だった。
背後で大きな音がして振り向くと、崩れた瓦礫がエレベーターへの通路を塞いでしまっている。それと同時に炎の勢いも強まっていく。

「どうしよう、通路が…!」
「大丈夫だ。蘭、ミナさんも下がってて」

快斗くんの声ははっきりとしていた。一体何をするつもりなのかと思って彼を見つめれば、いつの間にかポケットにしまっていたらしいイヤホンマイクをそっと取り出して口元に寄せる。
ほんの小さな声だったけど、聞こえた。ジイちゃん、と呼びかける声が。
彼がジイちゃんと呼ぶのは寺井さんのことだ。彼はキッドの協力者だった。何か手があるというのなら、私はそれを信じるだけである。

「蘭、掴まってろ!ぜってぇに離すんじゃねーぞ!」

快斗くんが蘭ちゃんを抱え込むのを見て、私はコナンくんに手を伸ばした。何が起こるかはわからないけど、離れちゃだめな気がしたのだ。コナンくんの身体を抱え上げてしっかりと抱き込めば、コナンくんは動揺しながらも私の腕の中に収まってくれた。

「コナンくん、しっかり掴まっててね」
「待って、何をするつもりなの?…まさか、」

燃え盛る炎の音に混じって、ごごごご、という重く低い音が迫ってくる。快斗くんもいる。蘭ちゃんやコナンくんだっている。見えない恐怖を感じながら歯を食いしばって、私は無意識に大きく息を吸い込んだ。
瞬間、天井が軋み、崩れ、大量の水が流れ込んできた。強い水の勢いに押し出され、為す術もなく展示室からチューブロードの方へと流されていく。
息を止めながら、私はコナンくんを抱いた腕に力を込めた。


──────────


「あれっ、コナンくんがいないよ!」

退館のアナウンスが流れて外に出たはいいけど、何かがあったらしく外は騒然としていた。美術館からは黒煙が上がっているし、当然考えられるのは火事だけど…どういう状況下にあるのかまではわからない。
遠目に鈴木相談役や園子さん、毛利さん…安室透、の姿が確認できたが、吉田さんの声に私は目を細めた。
工藤くんだけじゃない。蘭さんや…ミナさんの姿も、ない。

「おーい!コナンはどこだ!」
「あれ?!いないの?!」
「一緒じゃないんですか?!」

小嶋くんが先頭を切って行くのを見ながら、私はなるべく安室透の視界に入らないように吉田さんの影に隠れる。園子さんが私達に気付き、当たりを見回して声を上げた。

「蘭もいない!蘭どこ?!」
「ったくあいつら、この忙しい時にどこ行きやがった!」
「待って園子さん、ミナさんは一緒じゃなかったの?彼女、あなた達を追いかけて行ったのよ」
「えっ?!」

思わずそう言えば、弾かれたように安室透が振り返る。この反応、もしかしてミナさんは警備室にさえ辿り着いていなかった?だとしたら、彼女は一体今どこに。退館していればいいけど、探偵バッジにもスマホにも彼女からの連絡はない。

「ミナさんはあんた達と一緒にいたんじゃないの?」
「違うよ!コナンくんと蘭お姉さんと園子お姉さんが警備室に行っちゃった後、すぐに追いかけていったんだよ!」

吉田さんの言葉に、安室透がスマホを取り出して耳に押し当てるのが見えた。それを目にした園子さんも、慌てたようにスマホを操作している。…ミナさんと蘭さんに、それぞれ連絡しているんだろう。
美術館の方から大きな音が響き、それと同時に上がっていた黒煙の量が減っていく。貯水槽から水が流れ出したのか。なら火は消えたのかもしれないけど…。

「蘭の携帯、通じない…!おじさま、先に降りちゃったのかもしれないから、私探してくるね!」
「ああ、頼む!」

園子さんが駆け出すのを見つめながら、安室透は強く唇を噛み締めながらその場に立ち尽くしていた。指先が白くなるほど強くスマートフォンを握り締めて、それでも本当に思っている感情の半分も見せない静かな表情で園子さんの背中を見送っている。その姿が、さっき見たミナさんの姿に重なった。
本当は今すぐ駆け出したいだろうに。今すぐ自分の足で、ミナさんを探しに行きたいだろうに。
安室透はここに遊びに来たわけじゃない。鈴木次郎吉相談役に、ひまわりを守る戦力として特別にこの場に呼ばれている。軽率に自分の意思だけでこの場を離れるわけにはいかない、ということなんだろう。
例えそれが事実で、どうにもならないことだとしても。本当に大切なものを優先することも、この人には許されないんだろうか。

「…不器用ね、どちらも」

人知れず小さく呟いた。
馬鹿だわ。ミナさんも、安室透も。互いに痛いほど思い合っていて、それでも自分の気持ちにすぐに正直に行動することが出来ない。周りのことを考えすぎな証拠。彼らはもっと、自分に素直に生きるべきだと私は思う。
…なんて、自分に出来ないことを彼らに望み過ぎかしら。不思議ね。どうしたって私は、ミナさんには幸せになって欲しいし、彼女には出来る限り傷ついて欲しくないの。

「何してんだ、安室くん!ミナさんとも連絡取れねぇんだろ!」

そう怒鳴ったのは、毛利さんだった。毛利さんの声に、安室透は驚いたように振り返る。

「…、…しかし、」

行方がわからないのは蘭さんや工藤くんも同じ。毛利小五郎も人の親で、蘭さんや工藤くんのことが気になっているに違いない。彼だって自分で探しに行きたい一人だろう。それでも彼は、安室透の背中を押すのだ。不器用で、言いたいことも上手く口に出せず、やりたいように動くことの出来ない彼の代わりに…毛利小五郎が声を上げる。

「ここはいいから探してこい!!」

安室透はしばし迷うように視線を泳がせていたが、すぐに小さく唇を噛み締めて毛利さんに軽く頭を下げた。そのまま、先に行った園子さんを追うように駆け出して行く。

「オレ達も行こうぜ!」

安室透の背中を追う小嶋くん、円谷くん、吉田さんを横目に、私はレイクロック美術館へと視線を向ける。
黒煙はすっかり消えた。美術館内部の火災は貯水槽の水で収まったようだけど、…本当に工藤くんも蘭さんも、ミナさんも、どこへ。
…考えたくもないが、もし、もしも工藤くんに蘭さん、ミナさんが逃げ遅れていたとしたら。いえ、何らかの理由で美術館の中へと戻っていたとしたら。彼らなら有り得ない話じゃない。
ぞっとした。あの美術館は鍾乳洞を改良して作られたものだ。基本的に道は下へと向かう一本道。エレベーターが動いているうちは良いが、それがもしも動かなくなったら…むしろ、逃げ場なんて無いに等しい。エレベーターを使わない限り地上に上がる近道などないのだから。長く続くチューブロードを、地道に登るしか脱出への手立てはないはず。それとも、何か非常時の策が他にも練り込まれているのだろうか。いや、そんなものがあれば蘭さんや工藤くん、ミナさんだって今頃とっくに抜け出しているはず。

「…まさか」

まさか。まさかよね。

「哀ちゃん!」
「ごめんなさい、今行くわ」

吉田さんに呼ばれて振り返る。
どうか先に降りて、下の方でけろりとしていてほしい。美術館に残って逃げ遅れていたなんて考えていたわと話して、そんなはずないと笑って欲しい。
笑い話で済むなら、それがいい。


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