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「どうやら片付いたようだな」

瓦礫の山を乗り越えながら快斗くんが言った。快斗くんに支えられながら瓦礫の山を登ると、コナンくんと蘭ちゃんの姿が見える。コナンくんは私達に気付くと顔を上げて小さく頷いた。蘭ちゃんの意識はまだ戻らないようだ。

「ああ、そっちは?登れそうか?」
「俺だけならな」
「どうする?助けを呼ぶか」
「やめといた方がいい。下手に救助を呼べば二次災害になり兼ねねぇ」

助けを呼ぶにしても、ここから一体どうやって呼ぶか。鞄を開けて中のスマホを取り出してみたが、タップしても電源ボタンを押しても当然ながら反応はない。最近のスマホは防水の機能もついているものもあるけど、これは元々透さんが使っていた少し型の古いスマートフォンだし、そういった性能はなかったようだ。
探偵団バッジも水没で壊れているだろうし、と思いながら鞄の中を覗き込んで、私はぱちりと目を瞬かせた。
手帳サイズの小さなポーチ。阿笠博士から貰った、防犯グッズの入ったポーチに息を飲む。

「やっべぇ!!ミナさん!!」

ごごごご、という大きな音がしてはっとした。横にいた快斗くんに強く抱き寄せられ、瓦礫の山から飛び降りる。ガラスが割れるようなけたたましい音に上を見ると、大きな落石が天井を潰してしまっていた。
ぞっとする。瓦礫の山の上にいたままだったら、天井と瓦礫に潰されていた。

「そっちは大丈夫か!?」
「ああ!それよりあとどれくらいもつ?」
「まだ崩れてねぇのが不思議なくらいだ!天井に少しでも穴が空いたら、外気が一気に流れ込み崩壊するぞ!」

今私達がいるこのチューブロードも時間の問題。あんなに大きな落石があるんだ、この鍾乳洞を支えている上部の岩ももう限界のはず。考えている時間なんて、もうない。
私は鞄に入れていたポーチから腕時計型ライトと伸縮性ベルト入りバングルを素早く腕に装着する。もうひとつのアイテムは、いざという時の為の命綱だ。絶対になくす訳にはいかないと鞄にしっかり仕舞いこむ。

「コナンくん」

体が震えていた。手も、足も、情けないくらいに震えていて、きっとすぐ側の快斗くんには伝わってしまっている。
この世界に来て、何度死の恐怖を味わっただろう。何度味わっても慣れることなんてない。胸元から腹部が冷えるような心地になって、口の中がからからに乾いていく。このまま動けないと立ち止まっていたら、どの道間違いなく死ぬ。
覚悟を決めろ。四人全員、ここで生き埋めになるわけにはいかないのだ。
蘭ちゃんを守るように立っているコナンくんに視線を向ける。崩壊の音はどんどん大きくなっていくけど、私の声は確かにコナンくんに届いたようだった。
視線が交わって、私は震える唇を開く。

「私と一緒に地獄を見てくれる?」
「ミナさん…?」
「キッド、蘭ちゃんだけなら一緒に飛べるよね」

快斗くんから離れて意識のない蘭ちゃんへと歩み寄り、彼女の手にそっと触れた。体は冷え切ってしまっていて、例え今目を覚ましたとしてもすぐには動けないだろう。

「は?!ッおい、馬鹿なことを、」
「飛べるよね。君がさっき、そう言ったんだよ」

振り向いて真っ直ぐに快斗くんを見つめれば、彼はぐっと言葉に詰まった。それから、諦めたように小さく肩を落とす。

「…恐らく飛べる。だが、この落石を避けながら気圧の下がった空間を飛び続けられるかは定かじゃねぇ」

快斗くんがそう言った直後だった。
どおん、という低い轟音が響いて、鍾乳洞全体が大きく揺れる。思わず膝をついて上を見上げれば、視界を遮るほどの大きな瓦礫が落下してくるのが見えた。更にその上部からは、外の光が覗いている。

「穴が…!」

穴が空いてしまった。ということは、外気か穴からここに一気に流れ込み始める。
降ってくる落石に、チューブロードが軋み壊れる音が響く。立っていられなくなって私は咄嗟に蘭ちゃんの体を腕に抱き込んだ。次の瞬間、体を支えていたはずの床が抜ける。

「ミナさん!!蘭!!」
「ミナさん!!」

チューブロードの崩壊だ。美しく螺旋を描いていたチューブロードは無惨にも砕け、私達の体はいとも簡単に空中に投げ出される。
コナンくんと快斗くんの声を聞き、空中を落下しながら天井を見上げる。私と蘭ちゃんに次いで落下してくるコナンくんと快斗くんの姿を確認し、私は歯を食いしばりながら渾身の力でぐったりとした蘭ちゃんの体を上空へと放り投げた。

「キッド!!」
「ッ!!」

上空に舞い上がった蘭ちゃんを快斗くんが抱え込む。その衝撃でグライダーが勢いよく開いたのを確認し、私は落下してくるコナンくんへと腕を伸ばした。コナンくんの細い腕を掴み、そのまま腕の中へと抱き寄せる。

「キッド!!蘭を頼んだぞ!!」

コナンくんが大声で叫んで、瞬時に腰からサスペンダーを抜き取った。私が貰ったバングルに仕込まれているのと同じ、伸縮性ベルトのサスペンダー。彼はそれを長く長く伸ばし、飛び出た建物の鉄骨へと引っ掛けた。

「ミナさん掴まって!」
「コナンくん!!」

コナンくんの体を抱えたままベルトの金具へと手を伸ばし、力の限り握り締める。強い衝撃に肩が外れそうなほどの痛みが走って、私は呻き声を喉の奥に殺しながら唇を噛んだ。

「まだ逃げ道はある…!」
「どうするつもり?」

サスペンダーの伸縮機能で落下の衝撃は緩和され、私とコナンくんは最下層へと降り立った。右肩を動かすと鈍い痛みと違和感があるけど、危機的状況にアドレナリンが出ているせいかさほど痛みは強くない。大丈夫、まだ動かせる。

「ひまわり用脱出シューターを使う」
「ひまわり用脱出シューターって…あんな狭いところを?!」
「ミナさん」

「見るよ、地獄。一緒に」

コナンくんの声に思わず動きを止めた。
そうだ。地獄を見てくれるかって、聞いたのは私だった。コナンくんに覚悟を求めておいて、私の覚悟は大したこともなかったことに気付かされる。
このまま何もせずに死ぬくらいなら…地獄でも何でも見て、生きて帰るんだと。そう思ったのは嘘じゃないのに。
黙り込む私を真っ直ぐ見つめながら、コナンくんは更に言葉を重ねる。

「それしか方法はない。ミナさんにはかなり狭いけど、命懸けでついてきて」

絵画の大きさからいって、恐らくひまわり用脱出シューターはコナンくんが余裕で入れる程度。私みたいな大人は、ギリギリ入れるか入れないかくらいだと思う。
けど、コナンくんの言う通りだ。それしか方法がないなら、どんなに狭くて窮屈でもそこを抜けるしかない。
命懸けで。地獄を見ると決めたのなら、死と生の境目だって抜けてみせる。

「…わかった。ごめん、もう迷ったりしない。行こう、コナンくん」

コナンくんと頷きあって、崩れる天井から降ってくる瓦礫を避けながら駆け出す。足が止まったら潰される。一瞬の迷いが命取りになる。揺れる足場に足をもつれさせながら、私とコナンくんは必死にシューターへと駆け寄る。
コナンくんを抱いて一緒に入れる大きさじゃない。でも、一人ずつなら何とか入れなくもない。

「コナンくん、先に行って。コナンくんが飛び降りて、十秒数えたら私も行く」
「わかった!」

話している時間も惜しい。コナンくんが伸縮性サスペンダーをダクトパイプに引っ掛けて中へと飛び込んでいくのを見て、私はゆっくりと深呼吸した。
じゅう、きゅう、はち、
耳を劈く崩壊の音を振り払うように、強く手を握り締めながら十秒を数える。
なな、ろく、ご、よん、
透さん、透さん、透さん。
会いたい。会って抱きしめて欲しい。
気を緩めるな、今はただ生きて帰ることだけを考えるんだ。
さん、に、いち、

「ゼロ…ッ!」

叫ぶと同時に、手首のバングルの金具を強く引いてダクトパイプへと引っ掛ける。落石の轟音を背中に聞きながら、地面を強く蹴って狭いシューターへと体を滑り込ませた。
長く続くシューターの下り坂を落ちていく。壁に肘や膝をぶつけて痛みが走るけど、そんなことに気を向けている余裕もない。やがてちらりと光が見えて、何かと思考を向けた瞬間どぼんと水の中に飛び込んだ。
光の正体は、コナンくんの腕時計型ライトだった。ライトは、水の中に浮かぶコナンくんと…それから、多分電力が落ちて地上に運ばれる前にシステムが止まってしまったんだろう。水に泳ぐ、防火防水ケースに入れられた芦屋のひまわりを、照らし出していた。


──────────


「蘭!大丈夫か!」

かく、と体を揺さぶられて意識が浮上した。ゆっくりと目を開けて顔を上げれば、心配そうに私の顔を覗き込むお父さんがいた。
どういう状況なのか理解が上手く追いつかなくて、重たい瞼を動かして目を瞬かせる。

「お父さん…?」
「蘭!怪我はない?!大丈夫?!」

お父さんの後ろから顔を覗かせたのは園子だった。園子は私の傍に膝をついて、ものすごく心配そうな表情で私を見ている。そのすぐ後に、安室さんや少年探偵団の子供達も駆け寄ってきた。
…私どうしたんだっけ、と考えるよりも先に、コナンくんを探してレイクロック美術館に戻ったのを思い出す。新一やミナさんも一緒にいて、ひまわりをケースに入れて…脱出するってなったんだ。その辺から記憶が朧気だけど、新一が助けてくれたのは覚えている。

「…新一が助けてくれたから…」

もう大丈夫だ、って言ってた。すごく幸せな気持ちになった。でも、私の言葉に目を丸くしたのは歩美ちゃんだった。

「違うよ!キッドが助けてくれたんだよ!」
「グライダーでふわーってな!」
「覚えてないんですか?」

元太くんや光彦くんにまで言われて目を瞬かせる。
グライダーで、と言われて、そう言えば空を飛んでいたような気がする。

「…じゃああれは新一じゃなくて、キッド…」
「蘭さん、コナンくんとミナさんは?一緒だったんじゃないんですか?」
「…えっ?…ミナさんと、コナンくん、いないんですか…?!」

思考を遮るように声をかけてきたのは安室さんだ。あまり見ることの無い、彼の焦った表情に眉を寄せた。
ミナさんとコナンくんは脱出する直前一緒にいたのを覚えている。水に飲まれてからはわからないけど、でもあの二人も当然近くにいるんだろうと思っていたからどくりと心臓が嫌な音を立てた。

「キッドが抱えていたのは、蘭さんだけでした」

私だけ、って。
響く轟音に体が震える。私が今いるのは湖の畔だ。視線を走らせれば、レイクロック美術館の方向の崖が崩れていくのが見える。

「そんな、」

心臓が痛い。上手く呼吸ができない。
火事が起こっていた時点で、美術館内部は相当に崩れ始めていた。キッドはグライダーで飛ぶ術がある。でも、ミナさんやコナンくんは?
火事の中、建物が崩れていく中、水に押し流される中…どうやって、脱出を?

「じゃあ、ミナさんもコナンくんもまだ、」

あの、崩れ行くレイクロック美術館の中に。


***


「コナンくん、大丈夫?!」
「この状況を大丈夫と言って良いなら、何とかね!」

狭いシューターの先は少し開けた場所に繋がっていた。空気のあるところを少しずつ移動しながら進んできて、コナンくんの言う通り何とかここまで来られたけど…大きな鉄骨が、私達の行く手を塞いでいた。
私とコナンくんで押してもビクともしない。進むことも戻ることも出来ない。
まだ生きていることが不思議なことのように感じられるほど、感覚はとうに麻痺していた。水で体は冷えているのに酷使した肩は酷い熱を持っているし、打撲や擦り傷で体中傷だらけだ。体を動かすのがやっとなくらい、体力も尽きてきている。
水位は徐々に上がってきている。残された空間も僅かで、酸素不足からか頭もだんだんぼうっとしてきた。何か方法を考えなくちゃいけないのに。

「このままじゃ、脱出どころか一分もしないで溺死だ!」

溺死。
私や芦屋のひまわりと心中なんて、コナンくんがあまりに可哀想だと笑みすら浮かぶ。

「水が流れ込んでくるってことは…もう既にここは湖よりも下。水没してるってことだよね」
「水没…そうか!」

ぽつりと弱音が零れたが、コナンくんが声を上げて目を瞬かせる。

「ミナさん、こっち!」
「えっ?」
「花火ボールで崩落の順序を狂わせる!そうすれば、圧力のバランスが崩れて一気に湖に押し流されるはず!」

花火ボール。その単語自体は初耳だったけど、なんとなく予想はつく。
東都水族館の時。無人探査機はくちょうのカプセル墜落の時。コナンくんが関わった事件で、私は花火を目にしている。きっとそれも、阿笠博士の発明品なんだろう。
爆発、そして湖まで押し流される間の酸素の確保。最後の命綱を使うなら、今この瞬間しかない。

コナンくんが腰のベルトからサッカーボールを射出した。僅かな酸素を大きく吸い込んで水に潜り、コナンくんに誘導されるまま泳いでひまわりのケースを盾に回り込む。そうして私は、鞄から取り出した小型エアーボンベを開き、コナンくんの口へと宛がった。驚いた彼が振り向くのも構わず、コナンくんを抱え込むようにしてひまわりのケースに掴まる。
十分間酸素が吸える。十分あれば、湖に押し流される時間を考えてもきっと足りる。どうかコナンくんが、これを口から離さないでいてくれることを願う。

――これって小型エアーボンベだろ?必要なのか?
――いつ何時どんなことが起こるかわからんじゃろ。念には念を、備えあれば憂いなしじゃよ

阿笠博士の言った通りだった。この命綱が、きっとこの絶望を奇跡へと変えてくれる。


強く目を閉じて手に力を込めた。瞼を閉じていても感じるほどの光が視界を焼いて、花火の爆発による激流に飲み込まれる。
振り落とされそうな力に揉まれ、流され、抗いながらケースにしがみついて…やがて、穏やかな水の静寂に投げ出される。薄らと目を開ければ、遠くに外界の光が見えた。水面だ。
ケースが浮かんでいくのに引っ張られて、私とコナンくんの体も浮上していく。

けれどそこが、私の限界だった。
思い出したように肩が強く痛んで、指先から力が抜ける。ずる、とケースから手が離れて、それに気付いたコナンくんがこちらに手を伸ばすのが見えた。
あぁ、それだけの元気があるなら大丈夫。エアーボンベは彼の命を繋いでくれる。もう地上まではあと少しだ。
腕は伸ばせない。指は動かない。届かない。
がぼ、と音がして口から大きな空気の玉が抜けていった。苦しくてたまらない。冷たい水が、私の体を満たしていく。

私を助けようともがきながら近寄ってくるコナンくんの背中を、残っていた力で蹴り飛ばす。…蹴り飛ばすなんて程遠くて、力の入らない体では緩く押しただけだったけど。でも、それでも充分だった。
ふわりと浮いたコナンくんの体が、そのまま水面へと引き上げられていく。

生きることを、諦めたわけじゃない。生きることを諦めたいわけじゃない。死んでもいいと思ったわけじゃない。だって私は、透さんに会いたい。透さんのところに帰りたい。でも、体に力は入らないのだ。まるでスイッチが切れてしまったかのように、ゆるゆると水の中を漂うことしか出来ない。
浮かびかけた体が再び沈んでいくのを感じながら、私はぼんやりと。
キラキラ、青く光る水面を見上げていた。


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