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遠ざかっていくミナさんに手を伸ばすのに、これっぽっちも届きやしない。けど、ミナさんがオレの背中を蹴るのが限界だったように…オレも、ここから潜ってミナさんを引き上げるだけの体力なんてない。ミナさんがくれたエアーボンベのおかげで息はもつが、体が上手く動かない。自分の無力さがもどかしくて歯痒くて、強く手のひらを握り締める。
ミナさん、一緒に地獄を見るんじゃなかったのかよ。これじゃ、地獄を見たのはミナさん一人になってしまう。
蘭をキッドに託す選択は、ミナさんにとっても勇気のいる辛い選択だったに違いない。
だって彼女はあの時、取捨選択をしたのだ。恐らく自分の身のことは数に入れていない。キッドが一人だけなら抱えて飛べると知って、オレか蘭かを選ぶのに悩んだはずだ。彼女は皆を助けようとする、そんな人だから。どちらかを選ばなくてはならない状況を苦しんだに違いないのだ。
それでもミナさんは、覚悟を決めて見せた。オレに一緒に地獄を見てくれるかと尋ねた彼女は、恐怖に震えながらも覚悟を決めた強い瞳をしていた。
決めたんだ。絶対に一緒に生き残るって。後から全てを知るであろう蘭と、あの場でオレとミナさんを置いて行かなくてはならなかったキッドの為にも。
なのに。

「(くそ…っくそ、くそ…ッ!)」

なんでだよ。どうしてオレはこんなに無力なんだ。ミナさん、あんたが死んだらあの人が悲しむだろ。あの人の傍にいてあげられるのは、あんただけじゃねぇか。
誰でもいい。ミナさんを助けてくれ。
オレじゃ助けられない。どうすることも出来ない。体力も限界だ、こんな子供の体でこれ以上、どう足掻けばいいんだ。
頼む。ミナさんを、誰か。


──────────


「あっ!なんか出てきたぞ!」
「ひまわりだ!!」

元太くんの声に視線を向けると、水音を立てながら何かが浮かび上がってきた。四角くて銀色の枠に透明の強化ガラス。その中に収められているのは、青と黄色のコントラストが眩しい二枚目のひまわりだ。陽の光を受けて、水面に浮かびながらゆらりゆらりと揺れている。
あれは、コナンくんやミナさんと一緒にケースに入れたもの。ひまわりをケースに入れた後、水に飲まれてから私の記憶はないけど、でもあのひまわりが無事ならきっと近くにコナンくんやミナさんもいるはずだと身を乗り出した。

「おお、無事じゃったか!」
「あのひまわり、コナンくんやミナさんと一緒にケースに入れたんです!だから二人とも近くにいるはず!!」

次郎吉さんに必死に訴える。
きっと二人とも無事だ。きっとこの湖のどこかを漂っている。コナンくんを探して、そう声を上げようとしたその時だった。そのひまわりの向こう側、水面から小さな手が覗き、ざば、と音を立てながら小さな影が姿を現した。
コナンくんだ。口に何かを咥えている。あれには見覚えがあった。阿笠博士の発明品である小型のエアーボンベだ。以前バカンスで行った神海島で使ったことがある。でもあれを、今どうしてコナンくんが。
コナンくんが無事であったことに安心して膝から力が抜けそうになり、けれどそれと同時にミナさんの姿がないことに背中が冷えた。
ミナさんは、ミナさんはどこに。

「コナン!!」
「コナンくん!!」

探偵団の子供達が歓喜の声を上げる中、コナンくんは水面に浮かぶひまわりにしがみつきながら口元のエアーボンベを外して叫んだ。

「助けて!!ミナさんが!!」

悲痛な叫びだった。
水に体力を奪われてコナンくん自身限界なんだろう、声にいつもの勢いや元気はない。ただ強く思う、自分ではどうにもならないのだという悲痛な声を張り上げているようだった。
コナンくんの叫び声に息を飲んだその瞬間、隣から勢いよく駆け出した影が湖に飛び込んだ。安室さんだ。
綺麗なフォームで湖に飛び込んだ安室さんは、あっという間に水面から見えなくなっていく。次いでお父さんも湖に飛び込み、ひまわりとコナンくんの救出に泳いでいく。
気付けば、胸元で強く手を握り締めていた。コナンくんはお父さんに引き上げられて陸に上がり座り込んでいる。けれどその視線は真っ直ぐに湖に向けられ、睨むようなその表情からはミナさんに対する心配の念が浮かんでいた。とても声をかけられるような雰囲気ではない。
ミナさんも、一緒に助からないと駄目だ。どうか、どうかと祈りながら唇を噛み締める。
一分にも、十分にも、一時間にも感じられそうな曖昧な時間の中…私はただ、水面から安室さんとミナさんが顔を出すのを待った。
ミナさん。何故だか危なっかしくて、ほっとけなくて、だけどとても頼りになる安心できる人。大好きなお姉さんみたいな存在。早く、早くと気持ちばかりが焦っていく。

「あ!上がってきた!」

歩美ちゃんが湖面を指差して声を上げた。
大きな水音と一緒に水面から顔を出した安室さんは、その腕にミナさんを抱えていた。ほっと胸を撫で下ろしかけて、彼女の体がぐったりと弛緩していることに気付く。貼り付いた髪の間から見える彼女の頬は白く、瞼も固く閉ざされている。動揺に体が凍りついた。
意識がない?自発的に呼吸が出来ていない?もし心肺停止だったら。救急車を呼ばないと。ぐちゃぐちゃと頭の中の考えがまとまらない。視界が狭まって、呼吸が浅くなる。
コナンくんはよろめきながら立ち上がり、私の傍にやってきて安室さんとミナさんをじっと見つめている。

「ミナさん…!」

コナンくんの声にも答えず、安室さんは抱えたミナさんの首を軽く反らし、そのまま覆い被さるようにして彼女の唇に自分のそれを重ねた。
…こんな状況で不謹慎だと思うのに、彼が彼女に施す人工呼吸が…なんだかとても神聖なもののように見えて息を飲む。湖の中で、腕に抱いたミナさんに口付ける安室さんの表情はとても必死で、強く祈っているのが痛いほどに伝わってくる。
安室さんの息が吹き込まれて、彼女の胸元が少し膨らむのが見えた。お願い、目を覚まして…!

「ミナさん!」
「ミナお姉さん!しっかりして!」
「ミナ姉ちゃん!」

子供達が声を上げる中、安室さんが陸に上がってミナさんの体を横たえた。それから首の後ろに空間を作り気道を確保する。

「声、かけ続けてください」

安室さんはそう一言言ったきり、本格的にミナさんへの人工呼吸を始めた。的確な手順で行われる人工呼吸により、ミナさんの胸が膨らむのを見つめる。安室さんが口を離すと息が自然と吐き出されるけど、それでもまだ自発的な呼吸には繋がらない。

「ミナ姉ちゃん!」
「ミナお姉さん頑張って!」
「ミナさん!」
「ミナさん」
「ミナさん…っ」

ミナさん、皆あなたを待ってる。
レイクロック美術館から逃げ遅れてたキッドも私もコナンくんも、皆助かってる。それなのに、あなただけが戻ってこないなんて、そんなのおかしいでしょう。

「ミナさん、」

お願い、目を覚まして。


***


水の中をさまよう中で、ふと体を引っ張られるのを感じた。薄らと目を開けたら、ぼやけた視界の向こうに金糸の髪が光っていた。きらきら、きらきら。それがとても綺麗で、私はほんの少しその光景に見惚れていたと思う。
透さん。
夢かな。あんなに会いたかった人に、こうして会えるなんて都合が良すぎる。でも、それでもいいか、なんて思った。夢でも、死ぬ直前に見る幻でもいい。彼に会えたのなら、その瞬間私は幸せでいられる。

透さん。

彼に抱き締められて、胸がいっぱいになった。このまま、溶けてしまえたらいいのに。この幸せな気持ちのまま、溶けてしまえたらいいのに。
暖かい。温かい。水の流れは心地よくて、彼の腕の中は安心して。このまま死んで行けるなら、それは最上の幸せかも、なんて思って。
唇が温かいものに包まれる。ふう、って口の中に空気が流れ込んで、肺が温もりで膨らむのを感じた。

あれ、私。

強く彼の手に引き上げられる。
夢か現か曖昧な境界を漂いながら、私は自分の腕を掴む褐色の手を見た。
夢だったらいい。現実だったらいい。彼に包まれて死ねたらいい。彼と一緒に生きれたらいい。
ぼんやりと正反対のことを考えながら、私はそのまま目を閉じた。


***


「ッ…げほ、っぅ、ゲホッ」
「ミナさん!!」

たくさんの声で溢れていた。上手く息が出来なくて、口から水が溢れて苦しさに喘ぐ。体を横に向かされて背中を撫でられて、私はその手に甘えながら水を吐き出した。
苦しい。水が塞き止めていた酸素が急に流れ込んできて、体がびっくりしているみたい。

「ミナお姉さん!」
「大丈夫かよ!」
「ミナさん、気が付きましたか!」
「ちょっと、しっかりしなさいよ!」

あぁ、子供達の声だ。背中に触れる手が増えて、軽く叩かれたり撫でられたり、さすられたり。そんなに心配しなくても大丈夫、そう言いたいのに呼吸もままならない今の私には、上手く喋ることさえ出来ない。
ほんの少しだけ目を開けてみたけど、水と涙の膜で視界は不明瞭だ。あと、眩しさに上手く瞼が動かない。少しずつ感覚が戻ってきて、ちくちくと草が肌を刺すのが少し擽ったく感じられる。

「ミナさん、」

肩に触れるこの手は、声は…蘭ちゃんのものだ。良かった、意識が戻ったのか。さっきはあんなに冷たかったのに、蘭ちゃんの手のひらは温かくてほっとする。意識とともに体温も戻ったようだ。
少しずつ呼吸が落ち着いてくると、そっと体を抱き起こされる。自分で座ったり起き上がる体力は今の私にはなくて、私を抱き起こしてくれる優しい腕に甘えて寄り掛かることにした。
顔を上げれば、びしょ濡れの透さんがいた。私を抱き起こしてくれているのは透さんだったのだとわかり、胸がきゅうと痛くなる。彼の髪からは水が滴っていて、髪だけじゃなくて服もじったりと濡れてしまっている。

「…とおる、さん」
「ミナさん」
「…たすけて、くれたんですね」
「はい」

そっか。水の中から私を助けてくれたのは…透さんだったんだ。夢だと思ったあれは、もしかしたら夢じゃなかったのかもしれない。
へら、と笑えば彼はきゅっと唇を噛んで苦しそうな顔をした。どうして透さんがそんな顔をするんだろう。もしかして、たくさん、たくさん心配をかけてしまったのかな。
死ぬかもしれないと思った。それも仕方ないと最後には諦める気持ちもあった。けど私は、生きている。
ここに。

「ミナさん、」

そっと手を握られて視線を向けると、じっと私を覗き込むコナンくんがいた。彼もまた、透さんと同じような…唇を噛み締めた、苦しそうな顔をしている。

「こなんくん」
「ミナさん、もう…あんなの、やめて」

彼の震える声は、初めて聞いた気がする。
泣くのを堪えるようなその声は、じんわりと私の中に染み込んでいく。

「ボクだけ助かったって…嬉しくないよ。ミナさんも助かってくれなきゃ…生きてくれなきゃ、やだよ」
「…うん、」
「でも、ありがとう」
「…わたし、なにも、してないよ」
「絶望を奇跡に変えた」

コナンくんはぎゅうと手に力を込める。それから、いつもの彼らしくない…どこか下手くそな笑みを浮かべて、目を細めた。

「ミナさんは、ボクのヒーローだ」

ひゅ、と息を飲んで目を見開いた。
ヒーロー。それは、ずっと私が彼らに向けて思っていたことだ。絶望を奇跡に変えるヒーローだと、ずっと憧れを抱いて彼らのようになりたいと思ってきた。
そんな彼から…コナンくんから。ヒーローだなんて、言われるなんて。

「ありがとう、ミナさん。…ありがとう」

私なんかに、何が出来るんだろうと。出来ることをやろうと、彼らの背中を追いかけるくらいのことはやりたいと、そう思ってきた。
…もしかしたら。
彼らの背中にほんの少し触れるくらいは、出来たのだろうか。


***


その後、意識を取り戻しはしたものの溺れたことに変わりはないと、私は病院に搬送された。コナンくんや蘭ちゃんも一緒だったが、そこに怪盗キッドの…快斗くんの姿はなかった。正体を隠している身だし、理解はしているけど心配であることに変わりはない。
皆の話によれば、蘭ちゃんを抱えて飛ぶキッドの姿はたくさん目撃されていたみたいだし、快斗くんが無事であることは間違いなさそうだ。飛べるくらいだからきっと大きな怪我もないんだろうけど、連絡を取ろうにもスマホが壊れてしまったから手段がない。

処置を受けて服を着替えさせてもらい、私と同様に異常の無かったらしい蘭ちゃんとコナンくんに挨拶を済ませてから病院を後にした。話したいことはたくさんあるけど、もう疲労の限界だった。話はまた後日でも良いだろう。
まだふらつく足を動かしながら透さんに支えられて車へと乗り込む。透さんの髪はまだ湿っていたが、私が処置を受けている間に着替えたらしい。

「ありがとうございます」
「いいえ」

運転席に乗った透さんは、そのままシートベルトをすることもエンジンをかけることもなく…ハンドルに片手をかけたまま、ぼんやりと正面を見つめている。
その瞳は、目の前の景色を見つめているわけじゃない。もっと遠く…車のハンドルもフロントガラスも駐車場の景色さえ飛び越えた、その先に向けられているような気がした。

「…透、さん?」
「ミナさん」

彼の目が、私の方に向けられる。夕日の明かりを受けて、きらきらと光る瞳が…じっと私を見つめている。
透さんはゆっくりと私の方に手を伸ばし、ゆるりと頬に触れる。耳、首筋を滑り、肩に辿り着く。
そうして、決して強くはない力でそっと抱き寄せられた。私の肩口に彼の額が押し付けられ、どきりと胸が跳ねる。

「…ミナさん」
「…透さん?」
「ミナさん」

ぎゅう、と透さんの腕に力がこもる。

「ミナさん」

何度も、何度も名前を呼ばれる。
でも、その声に痛いほどの思いが込められているのが伝わってくる。たくさんの心配と、大きな安堵。それから多分、やるせなさや苦しみも。

「透さん」
「ミナさん」
「私、生きてます」

もうダメだと思った。死ぬんだろうと諦めもした。
だけど私は今、ここに生きていて…透さんの腕の中にいる。これは夢じゃない。現実だ。

「…ミナさん」

すり、と彼の髪が頬をくすぐる。
私もゆっくりと腕を伸ばして、透さんの背中をそっと掴んだ。

幸せだということと、生きているということ。
私は、今ここに生きている。
私の鼓動が、体温が、少しでも透さんに伝わればいいと思う。


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