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「一緒にお風呂入りましょうか」

透さんがそんなことを言い出したのは、家に着いてすぐのことだった。しっぽを大きく振りながら駆け寄ってきたハロを抱き上げてただいまの挨拶をしていたら突然そんなことを言われて、私は咄嗟に上手く反応も出来ずに口をパクパクとさせることしか出来ない。
え。今、透さんはなんと言ったのか。お風呂?

「えっ」
「溺れて体も疲労しているでしょうが、一度冷えた体ですからしっかり浴槽でお湯に浸かって温めた方がいい。ですが、人間は洗面器一杯分の水があれば溺死出来ると言われています。正直今のミナさんを一人でお風呂に行かせるのは不安と言いますか」
「アンッ」

確かに透さんの言う通り、立っているのも正直しんどいしハロを抱え上げた腕は既に悲鳴を上げている。身体中の筋肉が疲労して上手く動かないのは充分に自覚しているし、正直に言えば今すぐベッドに飛び込んでしまいたい気持ちもある。けど、服を着替えたとは言っても湖で溺れたままだしベタつくからお風呂には入りたい。湖に飛び込むまでは、本来人が通らないような場所を進んだのだ。泥や煤で汚れたのも間違いない。でも、透さんにそこまで面倒を見てもらうこともない…はず。

「だ、大丈夫です。お風呂くらいは一人でも…あの、心配ならシャワーで済ませますし」
「ダメです。シャワーではちゃんと体を温めることは出来ません。夏場だから大丈夫なんて言わず、きちんと体を湯船で温めてください」

この感じ、久々だ。透お母さんである。好きな人に対して思うことじゃないとわかってはいるけど、どうしてもこういう時の透さんは優しくて厳しい、世のお母さん像そのままというか。
私はついぽけっとして透さんを見つめてしまったが、彼にはそんな私の考えはお見通しらしい。私を見つめていた目が、じとりと細められる。

「…またお母さんみたいとか思ってるんでしょう」
「うっ!」
「顔に書いてありますよ」

やっぱり私はそんなにわかりやすいのだろうか…。思わず小さく呻き、ハロを床へと下ろした。それから顔を両手で覆う。
いや、だって。一緒にお風呂って。こう、準備して…見られるのとは全く違うというか…。ただ恥ずかしいと言うより羞恥心がすごい。

「お風呂、沸かしてきますね」
「いいいいやあの、」
「反論は聞きません」

何故…!
お風呂場に足を向ける透さんを慌てて止めようとして勢い良く立ち上がり、立ちくらみを起こして足がもつれた。目の前が急に暗くなって膝から力が抜ける。

「わっ…!」
「っ、ミナさん」

平衡感覚がわからなくなった私を、透さんが抱き留めてくれたのがわかった。しばらくそのままじっとしていたら、ゆっくりと視界が鮮明になっていく。…急に立ち上がって、自分じゃ立っていられないくらいの立ちくらみを起こすなんて…やっぱり私の体は自分で思っている以上に疲労しているらしい。

「…す、すみません…」
「ご自身の体かどういう状況か、少しはわかりましたか?お願いだから、大人しくしていてください」
「…はい…」

さすがにこんな状況では反論も出来ない。確かに一人でお風呂に入って、溺れないとは限らないのだ。お風呂で溺れるなんて間抜けな話と笑えたら良いが、今の私には笑える話ではない。
肩を落として小さく息を吐けば、透さんが私の体を横抱きにして和室へと足を進める。恥ずかしさはあったけど、これ以上駄々を捏ねて透さんに迷惑をかけたくなかった。
優しくベッドの上に座らされて、ぽんと透さんに頭を撫でられる。

「そんな顔をしないでください」
「…すみません…」
「先に言っておきますが、迷惑だなんて思ってませんよ」

あ、と思う間に透さんはお風呂場へと向かってしまった。ハロがこちらに寄ってきて、ベッドに飛び乗り甘えてくる。

「…ただいま、ハロ」

もし、あのまま湖で死んでしまっていたら。今こうしてる当たり前の日常にも、もう二度と戻れなかった。透さんの家に帰ることも…ハロに会うことも。
快斗くんは蘭ちゃんを連れて飛んで脱出した。コナンくんにはエアーボンベを渡して、あのまま無事に浮上出来ていた。三人の無事をきちんと確認出来ていたわけじゃないけど、どうしてだか私には彼らが無事であると信じられていたのだ。
だから、というわけではないが。まぁ、これでいいかな、と思わなかったわけじゃない。死にたいと思ったわけじゃない。生きたくないと思ったわけじゃない。けれど確実に近付く死の気配から、生きたいという気持ちだけで逃げられる訳では無いこともわかっていた。死というのはじわじわ近付いてくることもあれば、今回みたいにすぐ側で命を絶つタイミングを見計らっているようなこともある。
結果、私は透さんに助けられて命を長らえたわけだけど。博士の作ってくれた防犯グッズがなければ、もしかしたら湖に辿り着く前に息絶えていたかもしれないし。
命って、確実なものじゃない。いつどこでどうなるかわからないもの。そして死とは…思っているよりもずっと、すぐ傍にあるもの。私だけじゃない、みんな平等に死のすぐ側で生きている。
…生と死って、表裏一体なんだ。当たり前のことを考えて、でも妙に納得してしまう。
私の足に体を擦り付けて甘えてくるハロを抱き上げて、ぎゅうと腕に抱いた。温かくて、柔らかい毛に頬を寄せる。

「…ただいま、」

ただいまを言える幸せを、噛み締めた。


***


「ほら、そうしていても仕方ないですよ」
「そ、そう言われましても…!」
「それとも僕が脱がせましょうか?」
「結構です!!」

生きていることにどれほど感謝しようと、やっぱり好きな人とお風呂に入る(いや、この場合お風呂に入れてもらうというのが正しいのかもしれない)のは、恥ずかしいことに変わりはないのである。どうしても透さんに見られながら服を脱ぐということに抵抗があり、下着姿で留まってしまっている。
透さんはと言えばすっかり先に衣類を脱ぎ、抵抗する私をやや呆れたように見つめているものの…そんな顔をされても恥ずかしいものは恥ずかしい。なるべく視線を下に向けないようにしながら、私は透さんから顔を背けるのに必死だった。

「ミナさん、騒げば騒いだだけ体力を使います。観念してください」
「う、うーっ…!」
「あと十秒で脱いで浴室に入らなければ実力行使に出ます」
「ぬ、脱いで入るので透さん先に入ってください…!」

半ば叫ぶように言えば、透さんは小さく溜息を吐いてやれやれと肩を竦めると、仕方ないと言わんばかりにそのまま踵を返して浴室へと入っていった。
夜寝る時に透さんが上半身に何も着なくなるようになって多少の耐性はついたけど、透さんの裸を見るのは未だに慣れない。嫌な訳じゃなくて、引き締まったその体躯を見るのはどうしても恥ずかしいのだ。だって、…どうしたって、かっこいいから。
羞恥心というか、そういうものを感じて焦って慌てているのは私だけのようでそれはそれでなんとなく傷付く。
そ、と自分の体を見下ろして溜息を吐いた。腹部には大きな傷。腕にも弾痕。…女性として、魅力的な体じゃないことは重々承知だけど…やっぱり、凹むなぁ。透さんはそんなの重要じゃないって言ってくれるけど…その言葉に甘んじていられるほど私は、私のことを好きになれないのだ。はぁ、と思わず溜息を吐いた。
いやいや、と首を振る。こんな時に何を考えてるんだ、私。透さんは疲労してる私を心配して、一緒にお風呂に入ろうとしてくれているだけだ。ここで私が凹むのはお門違いというやつだろう。
浴室の中からはざばざばと音がしていたが、やがて湯船に入るようなちゃぷんという音を最後に静かになった。頭を切り替えようと軽く頬を叩いて、私は着けていた下着を脱ぐとタオルで軽く体を隠しながらそっと浴室を覗いた。

「し、…失礼します…」

外で悶々と私が考えてしまっていた間に、透さんはすっかり髪と体を洗い終えたらしい。湯船に浸かりながらこちらを見上げた透さんは、ふっと苦笑した。

「遅かったですね」
「う、す、すみません。なかなか決心がつかず…」

あわあわとしながら私は椅子に座ると、桶にお湯を溜めて頭からざばっと被った。
余計なことを考える前に、さっさと頭と体を洗ってしまおう。目を閉じながら髪をシャンプーして、その間も刺さるような視線を感じて居た堪れない。
手探りでシャワーのコックを捻り、頭からお湯を被って泡を洗い流す。手探りでもシャワーのお湯を出せるくらい、私はこの浴室を使っているんだなという事実に気付いて頬に熱が上がった。どうしてこう、考えなくても良い余計なことを今考えてしまうのだろう。
手早くタオルにボディーソープを乗せて泡立たせ、体をゴシゴシと洗う。

「そんなに強く洗ったら、肌を傷付けてしまいますよ」
「へ、」

ぱち、と目を瞬かせながら浴槽の方に視線を向けると、浴槽の縁に頬杖をついた透さんがじっとこちらを見つめていた。目が合うと、透さんはほんの少しだけ微笑む。

「洗ってあげましょうか」
「け、け、結構です…!」
「それは残念」

残念、なんて言いながら透さんはどこか楽しそうだ。絶対残念だなんて思ってない。こっちは顔から火を吹きそうなのに、からかうなんて酷い。酷い、とは思うけど…でも、やっぱりかっこいい。
溺れてたのを助けて貰った直後は余裕がなくて全然ちゃんと見れていなかったけど、水も滴るいい男、ってやつだったはずだ。今の透さんのように。
濡れた髪を軽く後ろに撫でつけて、ほんの少し乱れた前髪がなんともセクシーで息を飲む。いい男もいい男、最上級のハイクオリティなイケメンさんだ。恥ずかしくならない方がおかしい。
ふる、と頭を振ると、私は再びシャワーで体を洗い流す。何か動いてないとおかしくなってしまいそうなほど、頭は羞恥で沸いていた。

体を洗い終わると、透さんが浴槽のスペースを空けてくれる。躊躇しながらもこのまま浴室を出るわけにもいかず、結局私に残された選択肢なんてひとつしかないのだ。

「…しつれい、します…」
「どうぞ」

向かい合って入る勇気はなくて、透さんに背中を向ける形でゆっくりと浴槽に体を沈める。ファミリー用の家でもないし、浴槽はどちらかと言えば小さめだ。私が入った分お湯が溢れて、浴槽の外へと流れていく。透さんの足の間に座ることになり、私は体を出来る限り小さく畳んで膝を抱えた。
お湯は、乳白色に揺れていた。入浴剤を入れてくれたんだろう。何だか甘い良い匂いもする。

「…情けない話ですけど、」

ちゃぷん、と音がして、あ、と思う間もなく透さんに抱き寄せられた。必然的に透さんに寄り掛かるような形になって小さく身体を強張らせたけど、透さんの腕の力は強く私を離さない。

「怖いと、思ったんです」
「…怖い?」
「あなたが目を開けなかったらと」

すり、と透さんが私の髪に頬を寄せたのがわかった。耳に少しだけ透さんの唇が触れてくすぐったい。

「今まであなたが危険な目に遭った時、こう言っては何ですがある程度は安全が確約されているか、僕の目の届くところで起こったことばかりでした。けれど今回は…僕に出来たことは何も無かった」
「そんなこと、」
「あなたに僕の手が届くようになった時には、既に危険な状態でした。僕は一生あなたを失うところでした。あなたを失う寸前だったんです」

ぽつりぽつりと呟かれる言葉は、静かなのにずしりとした重みを感じる。
さっき車の中で抱き締められた時も感じたけど…私は、透さんに本当にたくさんの心配をかけてしまった。あんな状況、私じゃどうにもならなかった不可抗力だ。でも、退館のアナウンスに従わなかった私がそもそもの原因である。

「…ごめんなさい、」
「あなたを責めているわけじゃありませんよ。ただ少し、まだ、信じ難くて」

透さんはそう言って、くすりと笑った。

「離れたくないんです、あなたと。…あなたがちゃんと生きているということを…確かめたいんです」
「…透さん…、」

ぎゅう、と私を抱きしめる透さんの腕に力が篭もる。ほんの少し苦しいとさえ思ったけど、そんなことよりもなんて愛おしいんだろう。透さんの腕に手を添えながら、私はゆっくりと息を吐き出した。
触れ合う肌が心地いい。熱くて少し逆上せてしまいそうだったけど、もう少しだけこうしていたかった。
ここに、この場所に戻れて…帰って来れて、よかった。

「今日はゆっくり休んでください。…明日もしあなたが動けるようなら、一緒にスマートフォンを買いに行きましょう」
「え?でも、修理を…」
「僕の使い古しをいつまでも使ってもらうのも申し訳ないですし、今回のことで古いスマホじゃダメだと思い知りましたから」

ちゃんと、防水のものを買わせてください。一緒に選びましょう。
透さんのその言葉に振り返る。ちゅ、と音がして唇に柔らかい感触があって、頬がかっと熱くなった。
透さんはそんな私を見て、本当に柔らかく…優しく、笑っていた。


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