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気付けば、ベッドには私一人だった。枕元にハロが丸くなっていたから正しくは一人ではないけど、透さんの姿はない。少し腕を動かしてベッドを探ってみたが、シーツは冷たく彼がベッドを抜け出してかなりの時間が経っていることがうかがえた。
ぼんやりとする頭で、昨日はどうしたんだっけと考える。…向日葵展であんな大惨事があって、間一髪のところを透さんに救われたんだった。溺れて体力のなくなった私は帰ってきてから透さんと一緒にお風呂に入り、軽く食事をしてベッドに横になったんだ。
その時には透さんも一緒で、安心して眠ってしまったのだけど…どうやら彼は私が寝入った後にこの和室を出ていったらしい。ゆっくりと体を起こして部屋の中を見るが、まだ真っ暗で辺りは静まり返っている。

「…今、何時だろ…」

すぴすぴと寝息を立てるハロを優しく撫でてやってから立ち上がり、和室を出る。台所はもちろん、お風呂場の方にも透さんの姿はない。ダイニングにある時計は夜中の一時過ぎを示していた。
…そりゃ、そうか。あれだけの事件があって、警察官の彼が呑気にしていられるわけがない。きっと事後処理だとか報告だとか、いろんなお仕事があるんだろう。こんな夜中だけど、きっとそういうお仕事を片付けに出たんだろうな。
なんだか目が冴えてしまって、私は台所でお水を一杯だけ飲んだ。

結局、タイミングも逃して事件のことは何も聞けずじまいだ。犯人はなつみさん、という人だということくらいしかわかっていない。犯行に及んだその動機だとか、ひまわりを巡る一連の事情を、私は知らないまま。聞いたら話してくれるのかな、なんて思いながらシンクに寄りかかって溜息を吐いた。
そういえば、阿笠博士が作ってくれた防犯グッズも気付いたらどこかに落としてしまっている。腕時計型ライトも、伸縮ベルト入りバングルも。
大切にしないとと思った直後にこれなんだから…いや、あのアイテムがないとそもそも私はあの美術館から脱出もできなかっただろうから、感謝はしても足りないくらいだ。でもせっかく貰った物一つ大事に出来ないのかと正直凹む。

「…ダメだ」

はぁ、と溜息を吐いて頭を振った。こんな時に考え込んでもぐちゃぐちゃとネガティヴになる一方である。
少し寝て多少回復はしたが、まだ体の疲労は重く私の体をずしりと苛んでいる。
とりあえず、寝よう。眠くなくてもハロの体温を借りて、目を閉じてしまおう。そうすればきっと朝になって、透さんも帰ってくる。
私はただ朝に目を覚まして、夜中の間透さんがいなかったことを知らぬふりをするだけ。私が朝口にするのはお帰りなさいではなく、おはようございますの挨拶だ。
もう一杯だけコップに水を汲んで飲み干し、そのコップを軽く濯いでタオルで拭き食器棚に戻す。透さんは鋭いから、シンクや水切りラックにあるはずのないコップが残っていたら私が夜中に目を覚ましたことに気付いてしまうだろう。
知らないふりは徹底的に。ほんの少しの隙だって残してはいけない。
あと数日で嶺さんもフランスから帰ってきて、嶺書房でのお仕事も始まる。それまでに体を休めて、万全の状態にしないと。

和室に戻ってベッドへと腰を下ろす。ハロはよく眠っていて、お腹を出して時折前足をひくりひくりと動かしている。どんな夢を見ているのかな、思わず笑みが浮かんだ。
その時だった。
こん、という音が窓の方からしてはっとして振り向く。窓はカーテンが閉められていて、外の様子は見えない。
じっとしていると、今度はこんこん、という控えめな音。誰かいる。誰かなんて、私に予想出来る限り一人しかいない。
慌てて窓に駆け寄り、カーテンを勢い良く引いた。視界に翻るのは、純白のマント。月の光を受けて眩く輝いている。

「快斗くん…!」
「おっと、」

ベランダに佇んでいたのは怪盗キッドだった。急いで窓を開けてベランダに飛び出す。勢い余って足がもつれて転びそうになり、快斗くんの腕が私の体を支えてくれた。なんか、こんなことばっかりだな。

「こんばんは、お嬢さん。良い月夜ですね」
「もう、またそんなこと言って…」
「怪盗キッドとしての方がいいかと思って」
「快斗くんでいいよ」

怪盗キッドとしての彼もとても素敵で魅力的だけど、普段の快斗くんを知っているせいか何ともむず痒い。
私がほんの少し頬を膨らませると、快斗くんはへらりと笑った。

「それよりも快斗くん、大丈夫だったの?蘭ちゃんを助けてくれたんだよね」
「あぁ、間一髪のところだったけどな。俺よりもミナさんとあの探偵の方がよっぽど危なかったろ。肝が冷えたぜ」

確かに。まともな逃げ道なんてものは残されておらず、むしろ逃げ道というよりは血路を開いたと言った方がいいかもしれない。ひまわりの脱出用シューターなんてそもそも人が入るような場所じゃない。…まぁお陰で、上手く逃げ延びられたんだけど。

「溺れたんだろ。大丈夫なのか?」
「何で知ってるの?」
「そりゃ、すぐ傍にいたから。こんな姿だし、出て行くわけにいかなかったけどさ。…歯痒かったよ」

快斗くんはそう言うと視線を落とした。
そっか、すぐ傍にいたのか。私とコナンくんが無事に脱出出来るか、きっとずっと気を揉んでいてくれたんだろう。快斗くんにもたくさん心配かけちゃったな。

「…あんな形で、」
「…あんな形?」
「崩落するチューブロードと、上から降ってくる落石。…そんな中、落ちていくミナさんとあの探偵を見て…正直、生きた心地がしなかったよ」

死んじまったら、どうしようって。
ぽつり、と呟かれた言葉に小さく息を飲んで目を見開いた。
快斗くんは細い息をゆっくりと吐き出し、私の手を取る。柔らかなシルクの肌触りに目を細めていると、彼は両手で私の手を優しく包み込んだ。

「…あんな思いは、二度とごめんだ」
「快斗くん」
「ミナさんが生きてて良かった。でなきゃ俺、きっと一生後悔してた」

ほんの少しだけ掠れた声で紡がれる言葉に、私は口を閉ざす。
本当に私は、なんて幸せ者なんだろう。こんなに心から心配してくれる人達がいる。私の大切な人達が…私のことも、思ってくれている。胸がじんわりと温かくなって、自然と笑みが浮かんだ。

「ミナさん?」
「私が死んだら、快斗くんは泣いてくれる?」
「何つーことさらっと言ってるんだよ縁起でもねぇ」
「違うの。今回のことで、なんていうか…私、本当にたくさんの人達に心配をかけてしまったんだなって」

毛利さんに蘭ちゃん、園子ちゃん、少年探偵団の子供達…コナンくんに、快斗くんに、それから透さん。
大切に思う人達から、大切に思われるなんて本当に素晴らしいことだと思う。きっとこの人達は、例えば私が死んでしまった時に…悲しんでくれるんだろうと思う。惜しんでくれるんだと思う。そんなのは、人生の財産じゃないか。

「ありがとう、快斗くん」
「…何言ってんだよ、俺は何も出来なかったんだぜ。…その、…見殺しにしたも同然っつーか」
「そんなことない。そんなことないよ」

見殺しになんかされていない。だって私は死んでいない。ちゃんと生きているのだから。
思ってもらえるだけで、私にとっては充分なのだ。私が強く思えない分、諦めかけてしまった分…きっと皆が強く思ってくれた。私をこの世界に引き止めてくれたのは、皆の思いの力かもしれない。…なんていうのは、自惚れが過ぎるだろうか。
私は自分のことを上手く好きになれないけど…でも、皆が思ってくれる私のことを、誇りに思う。

「…ほんと、ミナさんには敵わねーや」
「うん?」
「いや、こっちの話。…ほんと、好きだなぁって」
「えっ」
「あ、赤くなった」

きしし、と快斗くんが笑う。突然の言葉に思わずびっくりしてしまったけど、これはからかわれただけだな。むっとしてぷいと顔を背けた。

「おーい、拗ねんなって」
「拗ねてません。年上はからかっちゃいけないんです」
「からかってねぇのに」

ちぇ、と快斗くんが唇を尖らせるのを見て、くすりと笑った。
キッドの格好をしていても、私の目の前にいるのは黒羽快斗くんだ。本当の彼に触れられているような気がして、なんだか少し擽ったい。

「ジイちゃんも、感謝してんだ」
「…寺井さんが?どうして…」
「あの芦屋のひまわり。空襲で屋敷が焼け落ちる寸前、ジイちゃんが持って逃げたものなんだ」
「えっ?!」

思わず声を上げてしまい、快斗くんにシィと言われて慌てて口を手で塞いだ。

「空襲の時…ひまわりを託して死んでいく男に、恋をしていた女性がいたんだ。その人に、芦屋のひまわりをもう一度見せてやりたかった」

そう言われて浮かぶのは、高層ビルの上の方にある美術館…少年探偵団の皆と、阿笠博士と一緒に訪れた美術館で出会ったおばあさんのこと。
五枚目のひまわりを見つめながら、とても悲しそうに微笑んでいたあの人。ほぼ毎日美術館に通っているというおばあさんに、「よほどゴッホのひまわりが好きなのね」と哀ちゃんが言って、おばあさんはこう答えたのだ。
――でも、このひまわり≠カゃない、と。

「…その人は…芦屋のひまわりを、見ることが出来た?」

なんとなく。確信はないけど、あのおばあさんがそうなんじゃないかと…そう思った。

――お嬢さん達は、七十年前の私と同じ目をしている。それはまるで、ひまわりの花言葉。私はあなただけを見つめる

――…でもね、見つめているだけではいつかきっと後悔する。私のようにね。人は、失って初めて大切なものに気付く。…あのひまわりのように。

おばあさんの言葉を思い出しながら目を細めた。
あの人はきっと、とても辛い…辛い恋をしたんだ。快斗くんの言った女性があの人なら、大切な人を空襲で亡くして今も想い続けているということなのかもしれない。
七十年間、ずっと。
快斗くんは私の問いに柔らかく微笑み、ひとつ頷いた。

「見られたよ。それに、芦屋のひまわりも無事だ。…きっとまた、あの人が芦屋のひまわりを見る日も来る」
「…そっか。…良かった」

私達のやったことは、きっと無駄じゃなかった。そう思えることが、私達にとっても救いになる。

「だから、ミナさんもゆっくり休んで」
「快斗くん」
「もう大丈夫だから。…全部、終わったからさ」

そうか。…全部、終わったんだ。
美術館は大変なことになってしまったけど、死者はいなかったと聞いている。ひまわりも無事。全て、終わったんだ。

「…うん…そうだね」
「眠れそう?」
「寝られそう。ありがとう、快斗くん」
「どういたしまして」

快斗くんは私の手の甲に柔らかいキスを落とし、黒羽快斗ではなく怪盗キッドの顔で笑った。
それから、仰々しい動作でお辞儀をする。

「それではまた。月の美しい夜に、お会いしましょう」
「次に会うのは嶺書房でだよ」
「…ノリが悪いなぁ。ったく」

怪盗キッドももちろんかっこよくてとても素敵だと思うけど。でも私の前では、やっぱり黒羽快斗でいて欲しいだなんて思うのだ。私は彼の秘密を知る、数少ない一人だと思うから。
瞬きをする間に、彼の姿は消えていた。本当に、まるで夢だったのではないかと思わせる不思議な人。でもその実態は、優しくて暖かい男の子だ。
手摺に頬杖をついて、明るく光る月を見上げる。
夏の夜、吹き抜ける風は涼しくて心地よかった。きっとよく眠れるだろう。

「またね、快斗くん」

また、嶺書房で。そんな思いを込めて、小さく呟いた。


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