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翌朝目を覚ますと、目の前に透さんの寝顔があった。夜中のうちにベッドに戻ってきていたらしい透さんは、珍しく私の方が早く起きても目を覚ます様子もない。出来る限り体を動かさないまま視線を向けて彼の表情をまじまじと見つめれば、彼は少し疲れた寝顔のまま小さく呻いた。
…お仕事、大変なんだろうな。きっと私には想像もつかない世界なんだろう。出来る限りゆっくり休んで欲しいけど、透さん今日のお仕事は大丈夫なんだろうか。ポアロとか探偵のお仕事とか、本職の方…とか。いや、多分夜間は本職の方だったんだと思うし、でもこれからまたお仕事に行かなきゃいけないとか、そういうのは無いのかな。透さんが何時頃帰ってきたのかはわからないけど、多分そんなに寝れていないと思うし可能な限り体を休めて欲しい。
そっと手を伸ばして彼の目にかかっていた前髪をそっと払う。すると、彼の呼吸がほんの一瞬だけ乱れてすぐに閉じられていた瞼がぱちりと開いた。深いブルーグレーが、私を見つめている。

「…おはようございます、透さん」
「…おはようございます、ミナさん」

なんとなく擽ったくなって小さく朝の挨拶をすれば、彼も寝起きのほんの少し舌足らずな声で挨拶を返して柔らかく笑った。透さんはそのまま私の背中に腕を回してぎゅうと抱き締めてくれる。欲しかった温もりと匂いに安心して息を吐けば、彼が小さく笑う気配がした。

「体の調子はどうですか?」
「ちょっと怠いのと、あちこち痛みますけど…大丈夫です」

そう応えると、透さんは安心したように眦を和らげて私の額にキスをくれる。
脱臼こそしなかったものの、落下から逃れるためにコナンくんの投げた伸縮性ベルトに必死に掴まったり狭いところを無理に抜けたり、無茶な潜水や水泳などなど…体中の筋肉という筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。体的には元気だけど、しばらくは体を動かすのもぎこちない生活になりそうだ。透さんの腕の中でゆっくり呼吸をしながら目を閉じる。
幸せだなぁ。とろりとした微睡みの中、生きてて良かったと思いながら私は透さんの胸に頬を擦り寄せた。起きている時には恥ずかしくてなかなか出来ないことも、寝起きの甘えだと思えば思い切れてしまうのだから不思議だ。
透さんが頭を優しく撫でてくれるのを感じながら、もう少し先の目覚めまで私は幸せな転寝を甘受することにした。



「スマートフォンを買いに行きましょう」

大丈夫とは言ってもまだ万全でない私の体調を、透さんは正確に理解していたらしい。今日の朝食は透さんお手製のミネストローネスープとふかふかの白パン。お腹に優しい献立に安心する。
パンをちぎってほんの少しだけミネストローネに浸して口に運んでいれば、透さんのそんな言葉に私はぱちりと目を瞬かせる。そういえば昨日お風呂に入った時にそんなことを言っていたけど、わざわざ透さんの手を煩わせていいのだろうかと少し不安になる。
もくもくと咀嚼していたパンを飲み込んでから、私はことりと首を傾げた。

「透さん、今日お仕事は…」
「休みです。一日何も無いので、スマートフォンを買いに行ったらそのまま家でのんびりしませんか?」
「スマートフォンくらいなら、透さんの手を煩わせることもないというか…一時間か二時間くらいあれば買ってこれると思いますし、その」
「ダメです」

一人での外出は許してくれないらしい。ぴしゃりと言い切られてしまって私は思わず身を竦めた。…透さんが疲れているのは今朝の様子でわかる。なら、私なんかに付き合わないで家で寝ていて欲しい…というのが私の正直なところである。
透さんは強い人だ。精神的にも肉体的にも、私なんか到底及ばないくらい強い人、と思っている。でも強いから無理をしても構わないとかそんなわけはなくて、例え透さんが大丈夫だと言い切っても、事実大丈夫だとしても、心配は心配なのだ。
何となく微妙に気落ちする私を見て、透さんは小さな苦笑いを浮かべる。

「心配なんです。…と言うのは簡単なんですが。…僕が、一緒にいたいんです。ダメですか?」

ダメですか、なんて。そんな言い方ずるい。そんなふうに言われて私がときめかないはずないし、そんなふうに言われて断れるはずもない。本当にこの人は、私をどこまでも甘やかしてくれるのだ。好きな人とどこかに出かける休日もとても素敵だけど、のんびりと二人で過ごす休日もあまりに魅力的。要は一緒にいられるならなんだって幸せなんだけど。
スマートフォンを買い直す所要時間はきっと一時間から二時間程度。その後すぐに帰ってくれば、お昼過ぎからは家でのんびり過ごすことが出来る。透さんが休む時間が取れるとなれば、 当然断る理由も何も無い。
無理をさせてしまうのは少し心苦しいけど…透さんと一緒に過ごせるのは、純粋に嬉しい。

「…ダメじゃ、ないです 」
「良かった」

柔らかく笑う透さんを見て嬉しくなるけど…でも結局。透さんの甘い言葉に上手く丸め込まれているだけなんだろうなぁ、なんて思う。


***


スマートフォンは、透さんの薦めで防水防塵、更には耐衝撃性の高いものを選んだ。壊れにくいものを選ぶに越したことはないとのこと。私の手にも馴染みやすいサイズで、色は黒、赤、白とあったのだが…透さんの強い希望により白にした(何やら黒と赤は嫌なものを連想するらしい)。
でも、白と言えば透さんのスマホと同じ色だ。同じ機種という訳では無いが、色が同じと言うだけでも気分は高揚するし…お揃い、なんて気分になってしまう私はちょろいんだろうなぁ。

「…、」
「透さん?」

そして、今はそんなスマホを買った帰り道。駐車場に向かって歩いているところだったが、ふと透さんが立ち止まったのに気付いて振り向く。

「すみません、忘れ物をしてしまったようで」
「えっ?」
「すぐ戻ってくるので、ここで待っていてください」

え、忘れ物って。透さんはぽかんとする私に申し訳なさそうに笑うと、そのまま来た道を駆けて行ってしまう。
というか、忘れ物?透さんが?彼も人間だしそういうこともあるのかもしれないが、あまりに忘れ物をするようなタイプに思えなくて正直ちょっと驚いている…というか、信じ難い。

「忘れ物って言っても…」

今日はスマホを買いに来ただけだし、私は小さな鞄に財布を入れてきたが透さんは財布とスマホをポケットに直接インだ。財布もスマホもどこかに忘れたような様子はなかったし…忘れ物を取りに行くなら私も一緒に連れて行ってくれればいいのにな。
そう考えて、あぁなるほど、と思い至る。つまりは私が傍にいたら困るということだろうか。ということは本職のお仕事の方の連絡が来たとか? なかなかの名推理、なんて自画自賛して、私は歩道の脇に避けてその場で透さんを待つことにした。
歩道柵に寄り掛かりながら、鈍く痛む右肩を摩る。酷い筋肉痛だ。時間が経つほど痛みが増す気がして苦笑を浮かべた。無茶な力をかけたし、普段使わないような筋肉も酷使したからきっと筋繊維がぶちぶちっといってるんだろうなぁ、なんて。
ぼんやりとしていたら、不意に軽やかなクラクションがすぐ傍で聞こえて振り向いた。歩道のすぐ脇に丸いフォルムの真っ赤な車が停まっている。あれ、この車って。
見覚えのあるその車にぱちぱちと目を瞬かせていれば、運転席の窓が開いた。

「こんにちは、ミナさん」

窓から顔を覗かせたのは、やはりというか沖矢さんだった。スーパーに寄ったのだろうか、後部座席に積まれた買い物袋が見える。

「こんにちは、沖矢さん。お買い物ですか?」
「ええ、もう帰るところですが。ミナさんの姿が見えたので、ご挨拶をと思いまして。こんなところでどうしたんです?」

わざわざ車を停めて挨拶に来てくれるなんて、沖矢さんって律儀な人だなぁ。
車の中はクーラーが効いているんだろう、屋外で汗ばんでいる私とは違って沖矢さんは涼しい顔をしている。…いや、沖矢さんは例え太陽の強い日差しの下でも涼しい顔をしているような気がするけど。

「スマホが壊れたので、透さんと一緒に新しいものを買ってきたところなんです」
「安室さんと?…姿が見えませんが…」
「忘れ物をしちゃったみたいで、今取りに行ってるんです。直ぐに戻ってくると思いますよ」
「そうだったんですね」

相変わらず忙しい人だ、と沖矢さんが呟いたのが聞こえた。
…透さんは沖矢さんには気を付けろみたいなことを言うけど、沖矢さんは透さんに対してこう、攻撃的な感じはしないし…その差ってなんなんだろう。
ちらりと透さんが走っていった方を見るが、彼が戻ってくる気配はまだない。私はなんとなく聞いてみることにした。

「沖矢さんって、透さんと仲悪い…んですか?」
「良くはないでしょうね。それは、あなたから見ていてもわかるのでは?」

当然ですとも。でも私にはその理由まではわからないのだ。
沖矢さんは東都大学院生で、多分透さんより年下…なのだと思うし、多分。でも透さんは沖矢さんに対して結構トゲトゲした態度を見せるというか…。そもそも、彼が「沖矢昴という男には気をつけた方がいい」なんて言うんだからよっぽどの事があるに違いないのだ。

「仲良くないのはわかりますけど…沖矢さんは透さんのことが嫌いだとか、そういうんじゃないですよね」
「何故、そう思うんです?」

ほんの少しだけ車の窓から身を乗り出した沖矢さんが、面白そうに笑いながら首を傾げた。
何故、と言われても。そう思うとしか言いようがないんだけど。

「…透さんに対する敵意を感じないというか」
「なるほど。つまりミナさんは、安室さんが僕に敵意を向けていると感じていると」
「そっ、そうは言ってません…!!」

否定も出来ないが。
敵意…というのとはまたちょっと違う気がする。なんか、単純な言葉で言い表せない何かがあるような気がして。その何かって言うのは私にはわからないけど。

「まぁ、いろいろあるんですよ。僕は、安室さんのこと嫌いじゃないですけどね」

沖矢さんは、そう言ってくすりと笑った。
結局、透さんと沖矢さんの間にある確執というのはよくわからない。私は透さんのことも沖矢さんのこともどちらも好きだから仲良くして欲しいなぁなんて思うけど、きっとそんな単純な話ではないんだろう。
いつか、仲良くしてる二人を見てみたいと思う。…叶う確率は低いだろうが。
むぅ、と無意識のうちに唇を尖らせていれば、ふと歩道の先に視線を向けた沖矢さんがあぁ、と声を漏らした。

「時間のようですよ」
「え?」
「ミナさん!」

透さんの声がして顔を上げる。急いで走ってきたらしい様子の透さんが私の傍に来て、私と沖矢さんの顔を見比べてから目を細めた。

「こんにちは、沖矢さん。ミナさんに何か用でも?」
「こんにちは、安室さん。いえ、たまたま見かけたのでご挨拶がてら少し話をしていただけですよ」
「そうですか」

二人とも口元は笑ってるけど透さんの目が笑ってない。これはあんまり二人を長い時間対峙させておいたらダメな気がする。そういえば透さんは赤が嫌いだったし、沖矢さんの車もあまり見たくないとかそういうのもあるかもしれない。
ばちばちと見つめ合う透さんと沖矢さんを見てどうしたものかと考えていたら、透さんがにこりと笑った。

「それでは、僕達はここで。ミナさん、行きましょう」
「えっ?あ、はいっ…!沖矢さん、また」
「ええ、また。お体…特に右肩、お大事にしてくださいね」

透さんが歩き出してそれに釣られながら、にこやかな声に思わず振り向きかけたが、透さんに強く肩を抱き寄せられて叶わなかった。
お体お大事に、って…もしかしてこの全身の筋肉痛のことを言っているのだろうか。確かに右肩の痛みが強くて摩ったりしていたけど、沖矢さんはそれで全部察したとか?そんなことってある?観察眼ずば抜けてるんじゃないだろうか。

「肩、」
「えっ?」
「痛みますか?」

透さんが私の肩をそっと撫でる。顔を上げると心配そうにこちらを見る目とかち合って、私は小さく笑って首を横に振った。

「大丈夫です」
「帰ったらのんびりしましょう。ハロと、三人で昼寝もいいですね」
「わぁ、すっごく魅力的です!」

実を言うと体の疲れもあってか、ほんの少し眠気を感じ始めていたのだ。帰ってクーラーを入れた涼しい部屋で、のんびりごろごろしながら午睡に勤しむなんてものすごく贅沢。
私が笑うと、透さんも柔らかく目を細めて笑ってくれた。


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