174
「よい、しょ…」
「あっこら!ダメだって!」
レイクロック美術館の大惨事から一週間が経った。
幸い新しいスマホにデータは全部引き継げたから連絡先に困ることも無く、この一週間で操作にも大分慣れた。新しいスマホに慣れるために快斗くんやコナンくん、蘭ちゃんなんかにもメールを送っていたんだけど、あの死地を潜り抜けた皆大きな後遺症なんかもなく今まで通り過ごしているとのこと。話を聞く限り、私が一番重傷だったようだ。凡人は生き残るのに必死なのである。
あんな大惨事があろうと、時間は平等に過ぎるし旅行に行っていた嶺さんも帰ってきた。
フランス旅行のお土産はボンヌ・ママンのマドレーヌ。ボンヌ・ママンのお菓子と言えばフランスでも愛される有名なお菓子だ。私の世界でも耳にしたことがある名前と見た事のあるロゴについ懐かしさを覚えてしまった。今日出勤の時に渡されたので、帰ったら透さんと一緒に食べようと思う。
「大丈夫だよ、少しずつ動かさないと鈍る一方だし」
「動かし始めていいのはちゃんと治ってから!まだ治ってないミナさんは、本来は出勤しちゃいけねーんだっつの」
そう言って、快斗くんは私の手にあった分厚い洋書数冊を取り上げてしまった。そうして、本を本棚の高いところにしまってくれる。
八月、夏真っ盛り。本来土曜日のみ出勤の快斗くんだが、今は夏休み中で平日も出てきてくれているのである。お陰で私は大助かりなのだけど…随分と体の心配をしてくれるのでどこかこそばゆい。
「快斗くん…そんな気を使わなくても、本当に大丈夫だよ?」
「ほー?じゃ、腕上げてみな」
「腕?何で?」
「いいから」
首を傾げながらも、快斗くんに言われるままゆっくりと腕を上げる。だが、一定の高さでびりっとした痛みが走って思わず顔を顰めた。肩から、腕にかけて。ずき、というような鋭い痛みに、腕を上げていられなくなる。
「いっ、」
「ほれ見ろ」
「痛い…」
「まだ治り切ってない証拠。わかったら、こういう重いもんは俺が持つからミナさんはその辺に座ってて」
いや、仕事に来てる以上座ってるだけというわけにもいかない。せめて何かしてないと…と思いながら、ひとまず快斗くんに言われた通りにカウンターの内側に入って椅子に腰を下ろした。痛む腕と肩を優しく摩って小さく息を吐く。
…まぁ、考えてみれば当然なんだけど。チューブロードの上部から、建物の崩落に伴って落下。瞬間、弛緩した蘭ちゃんの体を放り投げ、落ちてくるコナンくんをキャッチ。コナンくんを抱えたまま、鉄骨に引っ掛けた伸縮性ベルトに掴まって地面との激突を回避。そこからも腕や体を酷使した脱出だった。一週間でここまで動けるようになったのは、むしろ幸いなのかもしれない。
今は体中に湿布を貼って様子を見ているところである。日に日に良くなってはいるから、これ以上何かがあるということはないだろうけど。
「痛む?」
本を本棚にしまい終わった快斗くんがカウンターの内側に戻ってきて、そっと私の隣に立った。彼を見上げながら苦笑を浮かべる。
「ん、…うん、ちょっとね。でもホント、良くなってきてるからそんな心配しなくても大丈夫だよ」
「ミナさん、わかってねぇなぁ…自分が死にかけたって自覚ある?」
快斗くんは盛大に溜息を吐くと、呆れたように言いながらそのまま椅子に腰を下ろす。カウンターに頬杖をついてじっと見つめてくるその瞳は真っ直ぐで、私はもごもごと口ごもった。
死にかけたと言われれば…まぁ、そう、なんだけど。でも結果的に無事だったし、確かに体は痛むけど元気は元気だし…なんて考えていたら、そんな私の考えを見透かしたらしい快斗くんが眉を吊り上げた。
「死にかけたんだぜ?わかってる?わかってねーな?どうしてみたいな顔してるけど、ちゃんと自覚しろって!」
「ぅわごめんなさい」
「探偵がいたからなんとか切り抜けられたんだろうけど、普通に考えてミナさんがあの中に残って生き残れる確率なんてほぼゼロパーセントなんだからな」
「ゼロパーセント」
「ったりめぇだろ!あの探偵がいなかったらどうやって脱出するつもりだったんだよ」
「…えーと、まぁ、…私一人だったら間違いなく死んでただろうね…」
多分チューブロードの崩壊と一緒に地面に叩きつけられて終わりだっただろう。あの時はアドレナリンどばどばでさほど恐怖や痛みも感じていなかったけど、冷静になった今改めてあの時のことを突きつけられるととんでもない状況だったと言わざるを得ない。
え、私、よく生きてたなぁ…。しみじみとそう思いながら小さく息を吐けば、快斗くんはやれやれと肩を落とした。
「なんつーか…ミナさんは自分のことに無頓着すぎじゃね?」
「そんなことないよ、死ぬのやだもん」
「やだもんて」
湖に沈みながら死ぬんだと思った。死ぬのが嫌で生きたいと思ったけど、あの時はなんというか大きすぎる絶望の前に諦めるしかなかったというか…。
例えば喉が渇いたなぁと思ったとする。周りにコンビニやスーパーはなく、あるのは目の前の自販機のみ。でも、これ幸いと思ってもポケットに五十円玉しかなかったら飲み物は買えない。その場合どうする?当然、諦めるのである。
飲みたいと思ってもどうすることも出来ないそんな状況。水の中に沈みながら感じたのは、そういう漠然とした諦めだった。だって、どうにもならないんだもの。願っても祈っても、届かないものに縋り付くわけにはいかない。
「ほら」
つん、と額を指先で弾かれてはっとした。知らずぼんやりとしてしまっていたらしい。
「自分のことなんて二の次、って顔してる」
「どんな顔?それ。そんな顔してないよ」
軽く笑って言ったけど、快斗くんは真剣な表情のままで目を細めた。
「無意識なら尚タチが悪い。…ま、出会った当初に比べたら大分ましになったとは思うけどさ。ミナさんがいなくなったら、悲しむ奴はたくさんいるよ。俺はもちろん、あの探偵や毛利一家、鈴木財閥の御令嬢に女高校生探偵。ガキ共。…あんたのカレシだって」
快斗くんに言われてぱちりと目を瞬かせる。
そっか。心配してくれてるんだな。と言うか、私ってそんなに危なっかしく見えるのだろうか。…まぁ何度か死にかけてると言えば、危なっかしいにも程があると言われても仕方ないな。
苦笑して頷く。
「うん。…うん、わかってる」
「ちゃんと生きてよ、ミナさん」
「ふふ、コナンくんと同じこと言うんだね、快斗くん」
「探偵と?」
きょとんとする快斗くんに笑って、コナンくんにいつか言われた言葉を思い出す。…いつか、じゃないな。コナンくんは事ある毎に、私に「ちゃんと生きて」と言うのだ。
「ちゃんと生きてって。こないだも、生きてくれなきゃやだって言われちゃった」
「…そっか。愛されてるなぁ、ミナさん」
「そうね。…愛されてるんだね、私」
たくさんの大切な人達に、大切に思われている。その事を、何度でも教えてもらっている。私がどこか宙ぶらりんになったときに、みんなが手を引いて地面に連れ戻してくれる。
私は、私の為に…私の傍にいてくれる大切な人の為に、生きなくてはいけない。
***
「あ、ミナさん!」
嶺書房閉店後、用事があるらしい快斗くんとはお店の前で別れた。駅からバスに乗ろうとそっち方面に歩いていたら、どこかからの帰りらしいコナンくんとばったり出くわしたのである。
「こんばんは、コナンくん」
「こんばんは、ミナさん。元気そうで良かった」
「コナンくんもね」
レイクロック美術館の崩落後、病院で軽く挨拶をしてから実際に顔を見るのは一週間ぶりだ。メールで互いの安否については連絡し合ってたけど、直接会って話が出来るとやっぱり安心する。
「丁度よかった。今日、ミナさんに連絡しようと思ってたんだ」
「私に?何か用事?」
首を傾げると、コナンくんはこくりと頷いて笑った。
「嶺書房って日曜日定休日だよね」
「え?うん、お休みだけど」
「次の日曜日、予定ある?」
次の日曜日。基本的に暇してる人間だし、思い返さなくても特に何も用事はなかったはずだ。透さんと休みが合えば一緒にお出かけというか、デート…をしたい気持ちはあるけど…彼もここ数日忙しそうでようやく落ち着いてきたところみたいだから、休みがあるならしっかりと休んで欲しいと思う。
「特に用事はないけど。なんで?」
「あのね、今度の日曜日、元太達と一緒にサッカーの試合観戦に行くんだ。ビッグ大阪と東京スピリッツの試合なんだけど」
私はサッカーを嗜まないのでチーム名を言われても全くわからないんだけど、そう言えばコナンくんはサッカーが得意だし…サッカー、好きなんだろうな。
ビッグ大阪と東京スピリッツ…とりあえず後で検索をかけて下調べをしておこう。
「それで、ミナさんも一緒に行かない?子供だけだから電車で行くんだけど」
「私も一緒に行っていいの?」
「へへ、実はミナさんの分のチケットも取ってあるんだ」
「えっそうなの?!」
コナンくんはうん、と言うとポケットからサッカー観戦チケットを取り出して私に差し出した。受け取って見てみると、確かに今度の日曜日の日付である。
わざわざ私の為にチケットを取ってくれたのかな。こないだレイクロック美術館の時は子供達とあまりのんびり出来なかったし、一緒にお出かけする機会を貰えるのは私としてもとても嬉しい。
「ありがとう。喜んでご一緒させてもらうよ。サッカー観戦なんて初めて。あ、チケット代渡さないとね」
「ううん、チケット代はいいよ。ほら、お互いに快気祝いってことでさ」
え、と思って視線を向けると、コナンくんはニッと笑っている。でも、私の分のチケット代なんて一体どこから出たのか。普通に考えたら阿笠博士だと思うし…。
「…でも、」
「快く受け取ってもらった方が、博士も喜ぶよ」
コナンくんのその言葉に、私は再びチケットに視線を落とす。
…博士、そっか。博士にも心配をかけてしまったんだろうな。だったらこれは有難く受け取って、また別の形でお礼をした方がいいだろう。
嬉しさがじわじわと滲んで、私は笑みを浮かべて頷いた。
「…うん、わかった。じゃあ、有難くいただくね」
「そうして。日曜日、午前十時に米花駅で待ち合わせだからよろしくね!」
ばいばい、なんて手を振って走っていくコナンくんを見送る。
日曜日、午前十時に米花駅前。寝坊しないように気をつけないとと思いながら、私はチケットを大切に鞄にしまい込んだ。
Back Next
戻る