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安室さんの家に戻り一息ついたところで、安室さんから黒いスマートフォンを手渡された。安室さんが以前使っていたものと言うが目立った傷もなく、保護フィルムも貼り直されていて綺麗な状態だ。
何気なくスマホを裏返すと、スペードが欠けたようなマーク。某リンゴのマークを彷彿とさせるマークだ。

「基本的なスマートフォンが扱えるなら問題ないと思いますが、何か分からないことがあれば聞いてください。僕の番号とアドレスは既に登録してあります。電話は必ず出られるとは限りませんが、出来る限りは応答しますので」

用意周到過ぎやしないだろうか。思わずぎょっとする。
セキュリティロックもかかっていない状態なのでスマホを開いて電話帳のアプリをタップすると、一件だけ「安室透」と表示される。確認すると確かに番号とアドレスが登録されていた。

「…至れり尽くせりです…本当にありがとうございます」
「僕もあなたと連絡が取れないのは不安ですからね。インターネットも使えますから、大いに活用してください」
「本当にありがとうございます……!」

安室さんって神様なのかもしれない…。そんなちょっと馬鹿な考えが浮かんで頭を振る。
改めて安室さんから借りたスマホを見つめ、操作に慣れる為に少し弄ってみる。まずはセキュリティロックをかける所から始め、待受画面の画像を変えてみたり。今まで自分が使っていたスマホとは操作の仕方が違うからたまに押し間違えたりするが、基本的なことは大体同じなので使っているうちにすぐ慣れるだろう。

「夕食、何か食べたいものはありますか?」

スマホ操作に必死になっていたら、安室さんがエプロンを付けながら声をかけてきた。はっと顔を上げて、しかし特段何が食べたいということもない為小さく首を傾げる。

「安室さんの料理なんでも美味しいからなぁ…」
「ありがとうございます。…そうですねぇ…お昼は何を食べました?被らないような献立にしますよ」

昼食のことを問われ、はたと気付く。
そう言えば、今日は昼食を摂っていない。朝食を食べて家を出て、買い物をしてから沖矢さんとお茶をして。その後昼前に図書館に入り、今の今まで忘れていた。

「…お昼食べるの忘れてました」
「まぁ、そういう日もありますよね。でもちゃんと三食食べないと駄目ですよ。朝に食べたきりなら、お腹空いたでしょう」
「あ、いえ、そこまでは。でも安室さんのご飯は食べたいです」
「ふふ、わかりました。今朝が和食だったので、なら洋食にしましょうか」

そうなのだ。不思議と空腹感はなく、そう言えば喉も乾いていない。この世界のことを調べるのに夢中になっていたからだろうな。
空腹感はないが、安室さんのご飯は美味しいから食べたい。空腹感が無いからと言って満腹なわけではない。料理を目の前にしたら食べれるだろう。
安室さんが料理の支度にかかるのを見つめる。エプロン姿もよく似合っているな、なんて思いながら手元のスマホに視線を落とした。

安室さんの家にはテレビがない。私と安室さんが会話をしない限り、人の声はしない。
静かな空間に、安室さんが野菜を切ったり、冷蔵庫を開けたり、ガスコンロを点けたり、水を流す音がする。何故だかわからないけど、数年前祖母と二人で暮らしていた時のことを思い出した。あの時も、静かな空間の中に祖母と私が立てる生活の音が転がっていたっけ。
トントン、コトコト。ジャー。パタパタ。
料理をする祖母の背中が好きだった。料理をする祖母はとても楽しそうで、嬉しそうで。時折私の視線に気付いて振り向くと、笑顔で「ミナちゃん、お腹空いた?」「もうすぐだから待っててね」なんて言ってくれて。ほかほかのご飯を食べるのが、毎日の楽しみだった。
祖父が亡くなってから随分と小さくなってしまったように感じた祖母の背中だったけど、料理をする姿はずっと変わらなかった。祖父と祖母と私の三人で囲んだ食卓も、祖母と二人で囲んだ食卓も、私の宝物だ。
一人暮らしをするようになってからは食事だとかに気を使わなくなったし、生活音なんて気にしなかったし、テレビをつけることが多かったから静けさを感じることはあまりなかった。
なんだか、懐かしいな。転がる音が、とてもあたたかい空間だった。
もう、祖父も祖母も。誰も、居ないけれど。

「ミナさん?」

安室さんに声をかけられてはっとした。
ディスプレイの消えたスマホに視線を落としたままぼんやりとしてしまっていたらしい。顔を上げると、少し心配そうにこちらを見つめる安室さんと目が合った。

「どうしました?体調が優れないとか」
「あっ、いえっ、全然!元気です!」

眉を下げる安室さんに慌てて答えた。
私がぼけっとしてしまっただけだ。体調が悪いとかそういうことは無いし、安室さんに心配させてしまうのは申し訳ない。

「…なら良いのですが。随分とぼんやりしているようでしたので…」
「ちょっと、家族のことを思い出していたというか…懐かしくなっちゃって」
「…たまには親御さんのところに顔を出してあげた方が良いですよ。可愛い娘さんなんですから、心配も尽きないでしょう」

安室さんの何気ない言葉に、小さく息を呑む。その私の様子に気づいたのか、安室さんが少しだけ目を細めた。

「…すみません、失言をしましたか」
「えっ!いえ、全然…!すみません、話していなかったなと思いまして」

そう言えば、安室さんにうちの家族のことを話したことは無かったか。視線は自然と手元のスマートフォンに落ち、ゆっくりと息を吐いてから少しだけ笑む。

「私、両親に会ったことないんです。物心ついた時には祖父母と一緒に暮らしていました。その祖父母も、父方なのか母方なのか知りません」

そう言うと、安室さんは驚いたように目を見張った。このまま話を続けても良いものかと思ったのだが、安室さんが黙ってくれているということに甘えて続けることにした。

「両親とか、父や母という概念もなく育っていました。両親がどういうものか知ってから祖父母に聞いてみたこともありましたが、どうしても悲しい顔をするので…聞き出すことも出来なかったし、祖父母も話そうとはしませんでした」

何か理由があるのはわかったけれど、祖父母に悲しい顔をさせてまでそれを聞き出したいとも思わなかった。今では両親がどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか、気になることも無い。

「…そうだったんですか」
「はい。祖母は料理が大好きで…祖父と一緒に、美味しい美味しいって言いながら食卓を囲む毎日でした。祖父は私が高校生の時に亡くなって、祖母も大学に入学後すぐに亡くなってしまったんですが」

二人とも亡くなったのは突然だったから、しばらくは実感がわかなくて大変だったな。
祖父は交通事故で。祖母は心不全で。昨日まで普通に話をしていたと思ったら、翌日に突然いなくなってしまった。
親戚付き合いも全くなかったし、親戚に会ったこともない。祖父母が避けていたのだと思う。
祖父のお葬式の時も祖母のお葬式の時も大々的にはやらずに、本当に仲の良かった友人の方々と私だけで執り行われた。

「…すみません、辛い話をさせてしまいました」
「いいえ。祖父も祖母も、私にたくさんの思い出と幸せをくれました。亡くなったその時はとても辛かったけど、それは昔の話です。…今は、思い出に感謝してるんです」

全く辛くないかと言われればそんなことは無いし、今でも会いたいと思うことはある。けれど私が悲しみや孤独で塞ぎ込まずに済んだのは、二人が与えてくれた思い出と幸せのおかげだ。
いつでもはっきりと思い出せるあの空気。匂い。音。声。

「…本当に、あなたは強い人ですね」

ぽつりと安室さんが言った。その顔はどこか苦しそうで、辛そうで。なんで安室さんがそんな顔をするのかわからず、少し慌てる。

「あなたは大事な人の死さえ乗り越えるんですね」
「乗り越えられているかどうかは…正直わからないんですけど。でも私が悲しんで泣いても、祖父母はきっと喜ばないから」

私の幸せを願ってくれていた。だから、一時の悲しみに暮れはしても悲しみに沈みたくはない。
私を大切に育ててくれた祖父母が、誇ってくれる私でいたいと思うのだ。

少しだけ過去の思い出に浸って、切なくなってしまっただけだ。仕事で時間を消費していく日々に、思い出に浸る間なんてなくて。時間の余裕が出来て、今まで考えてこなかったことを考える間が出来たんだと思う。
こんなふうに祖父母のことを思い出したのはいつぶりだろう。祖母が亡くなってから、振り返ることもなかったと思う。

「私、祖母が料理してるのを見てるのすごく好きだったんです。…テレビの音もない、静かな部屋で料理を作ってもらう音がすごく、好きだったから。…落ち着くんですよね」

へらりと私が笑って言うと、それを見た安室さんは少し考えるように目を伏せ、それから柔らかく微笑んだ。

「わかるような気がします。…生活音って、人が生きている証ですからね。その音がするところに命がある。誰かが息をして、生活している。それって当たり前のことだけど、すごいことなんですよ」

安室さんの声に耳を傾けながら視線を向ける。料理する手を動かしながら、安室さんはくすりと笑ってこう続けた。

「僕、夜景好きなんです。特にマンションとか、住宅街の窓の光。光の一つ一つに人が住んでいて、生活してる。数え切れない数です。その数え切れない数、人が生きている。それだけの数の人生や物語があるんです。…少し疲れた夜は、ぼんやりと夜景を見てそんなことを考えます」

穏やかな声で告げられる言葉に、私はゆっくりと一度目を瞬かせる。
そんなこと、考えたこともなかった。でも今の安室さんの話を聞いて、夜景を見たいと思った。
人が生きて、生活している証。

「…素敵ですね。…うん、私も見たくなりました」
「夜景ですか?」
「はい。高層ビルとかの夜景もいいですけど…今安室さんが言っていたような、住宅街の光がいいです」

光の一つ一つに人が住んでいて、生活していて、その数の人生や物語がある。胸が温かくなるような気がした。
小さく笑うと、こちらを振り向いた安室さんが優しく微笑む。

「それじゃあ、今度東都タワーにでも行ってみましょうか。高層ビルの光も、住宅街の光も綺麗に見えますよ」
「本当ですか?ふふ、楽しみです」

見ることも行くこともないと思っていた東都タワー。この世界に来たのなら、折角なら行ってみたいと思う。
なんだかデートみたいだな、と思って不意にどきりと胸が跳ねる。
なんだろう今の。そっと胸に触れるとドキドキと高鳴っている。

「ミナさん、食器を出してもらっても良いですか?夕食にしましょう」
「っ、はい!はっ、ほんとだいい匂い…!」
「サラダと、キノコのクリームパスタです」
「絶対に美味しい…!お皿用意します!」

胸の高鳴りは無理矢理押さえつけて、気付かなかったことにする。
この穏やかな安室さんとの時間が、私は好きだ。

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