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「すみません、ちょっと散らかってるけど…どうぞ上がってください」

マンションの蛍光灯の下で見てわかったことだが、安室さんの着ていたスーツはどこもかしこも煤のようなもので汚れていて、破れているところもあった。
簡単なほつれ程度なら直せるけど、さすがにここまで敗れてしまっているものは私では繕えない。
一体何があってこんな身形なのか。私の想像のつかないことがあったに違いない…多分。

「お構いなく…と言いたいところですが、見ての通り僕はかなり汚れてしまっていますので、」
「あ、今着替え持ってきますから、先にお風呂どうぞ。ちょっと待っててくださいね」

体も冷えてしまっているし、そんな人を放置は出来ない。何かを言いかける安室さんの言葉を遮って、私は靴を脱ぐと先に寝室へと向かった。
クローゼットを開けて、奥に仕舞いこんでいた男物のジャージを取り出す。以前付き合っていた彼氏のもので、あまり使っていなかったためなんとなく勿体なくて捨てられなかったものなのだが、こんな所で役に立つとは思わなかった。元彼の方が安室さんより身長も低かったし体格も貧弱だったが、ないよりはマシだろう。ちゃんとしたものは明日買いに行くとして、今日はこれで我慢してもらうことにする。
バスタオルも一緒に重ねて安室さんの待つ玄関に戻ると、彼は少し複雑そうな顔でそこに佇んでいた。

「…?どうかしました?」
「…いえ、何度も言うようですが、あなたは少し警戒心というものを持たれた方が良い」
「…私ちょっと感覚麻痺してるのかもです。あ、スーツとシャツは脱いだら洗濯機の上に置いておいてください。洗えるものは明日洗濯しちゃうので」

へらりと笑って言えば、安室さんはそれ以上は諦めたのか溜息を吐いただけで何も言わなかった。
私が差し出した着替えとバスタオルを受け取り、ようやく靴を脱いで家に上がる。バスルームの場所を教えると、小さく礼を告げてドアの向こうに消えていった。

…最初からわかっていたことだが、本当に安室さんは綺麗な顔をしている。そこらの芸能人なんかよりも、よっぽど端正な顔立ちをしているのではないだろうか。
歳若く見えるが、纏う気配はどこか貫禄があるというか。一体いくつなのだろう。見た目は私と同じくらいに見えるが、その貫禄からか同い年とは思えない。
褐色の肌に金糸の髪は一見軽薄そうな印象を受けるものの、仕草や立ち居振る舞い、物腰はとても品があって、その印象を打ち消している。

…本当に一体どんな人なのだろう…

気付けば私はぼんやりと玄関で考え込んでしまっていた。
自炊はほとんどしないと言っても、招いた人にお茶も出さない訳にはいかない。慌ててキッチンに向かい、ヤカンに水を入れて火にかける。確かダージリンティーのティーバッグが残っていたはずだ。戸棚を探せば、それはすぐに見つかった。

ヤカンが沸騰するまでに着替えてしまおうと寝室に向かい、着ていたスーツを脱いでハンガーにかける。パジャマ兼ルームウェアに着替えると、ようやく帰ってきた実感がわいて小さく息を吐いた。キッチンに戻って、まだ音を立てないヤカンをぼーっと見つめる。

とても疲れた。
正直今すぐ眠ってしまいたいくらいには眠い。
自分の今後のことも考えなければならないし、けれど何からどう手を付けたら良いのか正直わからなかった。
会社は…辞めようと思う。残業代や早出代は出ていたし、それを使う間もなく働いていたから貯蓄はそれなりにある。
仕事を辞めて、少しのんびりと過ごそうか。3ヶ月くらいは働かなくても問題ないだろう。
それから…今考えなくてはいけないのは、安室さんのこと。
彼はベーカチョウというところにいたらしく、そこへ帰りたいらしい。けれど私にそんな場所の心当たりはない。
ルームウェアのポケットからスマホを取り出し、ベーカチョウ、ベイカチョウ、ベイカチョー、など、検索をかけてみるもののヒットはしなかった。
かと言って、安室さんが適当なことを言っているようには思えない。
まずは、彼とその辺りの話をしなければならない。


ヤカンが甲高い音で鳴いた。コンロの火を消し、用意していたティーバッグ入りのマグカップにお湯を注ぐ。
ふわりと立ち上る紅茶の香りに、無意識のうちにゆっくりと息を吐いた。

「シャワー、ありがとうございました」

後ろから声をかけられて振り向く。シャワーを浴びてさっぱりした様子の安室さんが、肩にバスタオルをかけた状態で立っていた。
やはり元彼のジャージは少し丈が足りなくて、思わず小さく笑う。

「とんでもない。…体は温まりました?」
「えぇ、お陰様で。…すみません、このジャージ、彼氏さんのじゃないですか?僕がお借りして良かったんですか」
「元彼のです。新品じゃなくて申し訳ないんですけど、そんなに使ってなかったしちゃんと洗濯してあるので大丈夫ですよ。でも、やっぱり少し小さいですね。安室さん身長高いから」

苦笑して答え、マグカップに浮かんでいたティーバッグをゴミ箱に捨てる。

「お砂糖とミルクはどうしますか?」
「あ、いえ…僕は今温まってきたので大丈夫ですよ。佐山さんが召し上がってください」
「え?でも」
「本当にお構いなく。お風呂と着替えを貸してくださっただけでとても感謝していますから」

ね、と言って笑う彼に、あぁ一線引かれたなと思った。
理由はわからないけど、この人は多分私が何を出しても口にはしないのだろう。こういう時は、あまり気にした様子を見せないのが良い。私は「そうですか?じゃあ…遠慮なく」と軽く告げて、自分の好みで牛乳と砂糖を入れて混ぜた。

「適当なところに座ってください」

床に座らせるようで申し訳ないが、うちにはソファーはない。小さなリビングにはテレビと、床に敷いたラグマットの上に引出し付のローテーブル。一人暮らしのOLの家なんてこんなものだ。
安室さんはさして気にした様子もなく、ラグマットの上に腰を下ろした。私もマグカップを手にリビングに足を向け、ローテーブルを挟んで安室さんの向かい側に腰を下ろす。
まだ熱い紅茶を啜って、ほうと息を吐いた。

「早速で申し訳ないんですが、いろいろと情報を整理したいのでいくつかお聞きしてもよろしいでしょうか」
「その前に…すみません、あの、怪我の手当をさせていただいても良いですか?」

ジャージで隠れて見えないけど、スーツがあれだけボロボロだったんだから無傷なはずはない。さっきも「大した怪我ではない」と言っていたし、少なからず怪我はしているはずなのだ。
マグカップをテーブルに置いて立ち上がると、テレビ台の引き出しから救急箱を取り出す。消毒液と絆創膏と湿布薬くらいしかないが、何もしないよりはマシなはずだ。
紅茶は遠慮されてしまったが、怪我はそういう訳にもいかない。本当なら病院に行ってちゃんと調べて欲しいくらいなのだ。

「いや、しかし…」
「しかしじゃないです。怪我、してるんですよね」

図々しいと思われても、これだけは退くわけにいかない。簡単な手当だけでもさせて欲しい。

「…ちゃんと手当しないと…バイ菌入ったら怖いですし。あの、私が触れてもいいところだけでも構わないので…せめて、絆創膏くらい貼らせてください」

救急箱を開けていろんなサイズの絆創膏を取り出した。手のひらを軽く擦りむいているのは見た。あとスーツが敗れていたのは肘と、膝のあたり。他にもあると思うけどあの暗い中で確認できたのはそこだけだった。
安室さんはしばらく黙っていたけど、やがて小さく息を吐いてジャージの袖を捲り上げる。褐色の腕には小さな傷がいくつもあって、ところどころ血が滲んでいた。
それから、二の腕には大きな痣。これは湿布薬だろうかと思いながら小さく息を呑む。

「…怪我は主に左半身に集中しています。右側は先程浴室でも確認しましたが放っておいて大丈夫でしょう。手当お願いできますか?」
「っ、はい、もちろん」

私は頷いて、安室さんの左腕に散らばる傷の手当を始めた。痣には湿布を貼り、擦り傷は消毒液で消毒してから絆創膏を貼る。
腕が終わると、今度は左足のズボンの裾を捲り上げてくれたので、思っていた通り血の滲んでいた膝にも絆創膏を貼る。
大したことはしていないし拙い手当だけど、何もしないのは私が嫌だった。
綺麗に筋肉のついた体。まるでアスリートのようなその体には、今回出来た傷以外に古傷のようなものもたくさん刻まれていた。
最後に頬の小さなかすり傷に絆創膏を貼って、救急箱を閉じる。こんな綺麗な顔なのに傷が残ったら大変だ。…いや、ここまでの美形なら、むしろ傷がついてもそれも深い魅力になるのかもしれない。

「ありがとうございました。助かりました」
「え、いや…私の自己満足みたいなものでしたし」

改めて礼を言われると何だかちょっといたたまれない。
まごまごと言葉を返して、救急箱をテレビ台の引き出しへと仕舞った。


「改めて、いくつか質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「あ、は、はいっ。すみませんお待たせして…」
「僕の手当をしてくれたんですから、いいんですよ」

安室さんの目が真剣だったので、私も緩んだ気を引き締めて正座で座り直す。そうしたら、安室さんは少し苦笑してから改めて私を見つめた。

「…まず、ここは東京都〇〇市の四丁目。僕は東京都米花市の米花町にいたはずですが、あなたに米花町という場所の心当たりはない」
「はい、聞いたこともないです。…ちなみに、ベーカチョウってどういう字を書くんですか?」
「米に花の町ですよ」
「なるほど、それで米花町…」

チョウは町で合っていたようだ。漢字がわかったところで少し地名としての親近感は出てきたが、それでも知らない場所ということに変わりはない。
試しに携帯で「米花町」と検索をかけてみたが、やはりそんな地名は一切ヒットしなかった。

「毛利小五郎という名前に聞き覚えは?」
「えっ、ごめんなさい無いです。どちら様ですか?」
「眠りの小五郎と呼ばれる名探偵なのですが…この方にも覚えはないと」
「…ないです…。名探偵…?」
「工藤新一という高校生探偵の名もご存知ない?」
「…ごめんなさい、知らないです。名探偵と聞いて真っ先に浮かぶのってシャーロック・ホームズくらいで」
「シャーロック・ホームズですか…」

ふむ、と安室さんは難しい顔をして考え込んだ。それから顔を上げて、念の為と前置きをして言う。

「怪盗キッドのことも、ご存知ない?」
「か、怪盗キッド?いいえ全く。…アルセーヌ・ルパン関連の何かですか?」

話を聞きながらますますわからなくなって来た気がする。
安室さんが何を言わんとしてるのかわからないし、この質問にどんな意味があるのかもわからない。
毛利小五郎、工藤新一、怪盗キッド。どれもこれも知らないものばかりだ。
安室さんは口元に指を当てて考えていたが、小さく息を吐いて顔を上げた。

「…では、警視庁がある場所を教えてください」
「警視庁ですか?それだったら…確か地下鉄の霞ヶ関駅が近いんじゃないでしょうか」
「…なるほど」

そこは同じか、と小さく呟いたのが聞こえた。
同じ、とは…?ますます困惑する。
安室さんは目を細めて考え込んでいたが、溜息を吐いてポケットからスマホを取り出してテーブルの上に置いた。

「これは僕のスマートフォンですが、どうやら壊れてしまったようでずっと圏外なんです。いろいろと調べたいのですが、これではインターネットに繋ぐこともできません。申し訳ないのですが、パソコンをお借りしても?」

安室さんがスマホを操作し、待受画面を私に見せてくる。確かに電波の表示はなく、そこには「圏外」と表示されていた。電源はつくし操作もできるのに、電波だけが届かない。変な故障の仕方だなと思いながらも、私は立ち上がって寝室からノートパソコンを持ってきてローテーブルに置いた。

「それはもちろん構いません。ネットには接続されていますから、好きに使ってください」
「助かります。僕は少し調べ物をさせていただきますので、佐山さんはどうぞいつも通り過ごしてくださいね。…僕がいる時点で難しいかもしれませんが」
「いっいえそんなことは!無理矢理うちに呼んだの私ですし…!安室さんこそどうぞ寛いでください!」

私が無理を言って家に呼んだのになんで安室さんに気を遣わせなければいけないのか。
慌てて言うと、安室さんはきょとんとした顔をしてから…すぐに、くすりと笑った。

「ふ、…ふふ、本当にあなたは不思議な方ですね。ありがとうございます。ありがたく、寛がせていただきますよ」

なんて綺麗に笑うんだろう。
顔に熱が上って、急に熱くなる。誤魔化すように私は寝室に入ってクローゼットから下着を取り出した。
そうだ。私は疲れているのだ。
早くシャワーを浴びて寝てしまいたいのだ。

「じゃ、じゃあ私お風呂行ってきます…!」
「ふふ、はい。行ってらっしゃい。ごゆっくり」

なんだか恥ずかしくて安室さんの方が見れない。だって多分まだ笑ってる。
安室さんの方を見ないまま、私は慌ただしくバスルームに入ったのだった。


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