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「今日は東都タワーに行きましょう」

朝起きて、顔を洗ってダイニングキッチンに向かうと、エプロン姿の安室さんが振り向きながら言った。
今日の朝食はお味噌汁とご飯、それから焼鮭。あと、安室さんお手製のグリーンスムージーだ。味覚が無くなってしまった私でも比較的食べやすいメニューでほっとする。
私の味覚は、完全に無くなってしまった。嗅覚には異常が無いので匂いがあるだけ何を食べているか大体はわかるけど、口に入るものは全くの無味だ。少し前までは集中すれば味も感じ取れたけど、今はそれすらない。
食欲も、喉の乾きも、全くない。咀嚼するのがわりと苦痛で、ただ流し込む方がまだマシだ。
極端に熱いものも食べたくない。味を感じられない以上、ただの熱湯や熱い物体を口にしているのと同じ感覚でしんどい。
それでも、顔には絶対に出さないように細心の注意を払う。

「東都タワーですか」
「はい。以前お話ししたでしょう?夜景でも見に行きませんか」

お味噌汁のいい匂いに目を細める。食事自体は苦痛になってしまったが、料理の匂いは好きだ。特に安室さんが作ってくれた料理の匂いは安心する気がする。
ダイニングキッチンの椅子に腰を下ろすと、エプロンを外しながら安室さんも椅子に座る。
一緒にいただきますと手を合わせて食べ始め、私はお味噌汁の器を手に持ってから首を傾げた。

「安室さん今日はお仕事お休みなんですか?」
「昼過ぎまでなんです。午後四時くらいには米花駅に行けると思うので、いかがです?」
「嬉しいです!夜景見たいです」
「決まりですね」

安室さんは優しく笑う。その表情にどきりとして、私は視線を外してお味噌汁に息を吹きかけて冷ましてから啜った。

だってミナさん、安室さんの“大事な人”なんでしょ?

数日前、コナンくんに言われた言葉が忘れられない。
今までも安室さんにどきりとさせられることは度々あったけど、カッコイイなぁだとか素敵だなぁとか、いわゆるテレビの中の俳優さんを見ているようなそんな気持ちだった。
今は一度どきりとしたら、しばらくドキドキと胸がうるさい。それからほんのり温かくて、同時にきゅうと締め付けられるような痛みもある。
羞恥だけじゃない何かが顔を火照らせ赤くする。
安室さんが笑うと嬉しいし一緒にいられるだけでなんだか心がぽかぽかする。
こんな気持ちになったことがないから正直自分でも少し混乱しているし、コナンくんの言葉を思い出す度に恥ずかしくてどうにかなってしまいそうになる。
どうしてこんな気持ちになるのか、まだ答えを見つけられずにいる。


一度安室さんに米花駅まで送ってもらい、その後はいつも通り図書館で時間を潰す。
図書館で静かにこの世界のことを調べるのは何気に楽しくて、私のお気に入りの時間でもある。今ではすっかり工藤新一くんや毛利小五郎さんのファンだ。尊敬や憧れの思いが、記事を読む度に強くなる気がする。
何分記事の量が多いので、読んでも読んでも出てくるのだ。時間を潰すのには困らない。

「…どうして、工藤新一くんは表舞台に出なくなったんだろう」

ぼんやりと新聞の記事を追いながら呟く。
ある時からぱったりと工藤新一の記事がなくなり、それと同時期に眠りの小五郎の記事が増え始める。工藤くんの陰に隠れていた毛利探偵が、工藤くんがいなくなったことで注目され始めたということなのだろうか。
なんだか少し違和感があるな、と思いながらぺらりと新聞を捲る。

「…あれ、これ…」

またまたお手柄小学生、とか、キッドキラー?!の見出しに目を引かれる。その記事の写真に写っていた見覚えのある顔に目を丸くした。
これ、コナンくんの記事だ。驚きながら文字に目を走らせると、かの怪盗キッドを撃退した小学生として話題に上がっている。
え、すごくないか。コナンくんって只者じゃないとはわかっていたが、こんな記事になるくらい本当にすごい子なんだ。

「……どう考えても私より頭が良さそうだ…」

警察ですらまともにやり合えない怪盗キッドを相手に立ち回り、撃退したなんて。コナンくんの頭の中は一体どうなっているんだろうと考えかけて、凡人の私が考えたところでわかるわけがないなと諦める。

ふぅ、と息を吐いたところで、ふとこちらをじっと見つめている人物がいることに気付いた。
本棚の影から、じっと。丁度顔は上手く見えず、けれども視線だけがこちらを向いているのがわかる。
そちらに振り向くと、人影はさっと逃げるように本棚の間を縫うように行ってしまった。ちらりと見えた横顔に見覚えはない。体格からして男性のようだったが、知り合いではないだろう。
誰だろう。気味が悪いな。
なんとなく不快な思いになり時計を見る。時刻は三時を少し過ぎたところ。私は新聞を棚に戻すと、鞄を持って図書館を出た。
安室さんとの待ち合わせにも丁度良い時間だ。そう思いながら早足でバス停へと向かう。タイミング良く来たバスに乗り込み、座席に座って息を吐いた。
バスに乗り込むまで背中に張り付くように感じていた冷たい視線が、酷く心地悪かった。


***


「まさかこっちの世界の東京タワーに行くことが出来るなんて思ってませんでした」
「こちらの世界に来てしまうこと自体が予想外でしたからね。まるっきり同じとはいかないでしょうが、あなたの世界と似たような空気が味わえると思いますよ」

米花駅で安室さんに車で拾ってもらい、そのまま東都タワーへと向かう。
夏が近付く季節だからか、日も長くまだ外は大分明るい。夜景が見えるようになるまでは、適当に時間を潰すということで私も安室さんも了承した。
東都タワー地下の駐車場に車を停めて、安室さんと一緒にのんびりと歩き出す。

「お腹は空いてます?」
「あ…、少し遅めの時間に軽く食べたので、実はあんまり…」
「それじゃあ、アイスクリームでも買いましょうか。…本当はしっかり栄養のあるものを食べて欲しいところですが…まぁ、たまにはそういう日があってもいいでしょう」

軽く食べたというのは嘘。空腹も味覚もない私は、外で時間を潰せる日は昼を食べない。安室さんを心配させないように最初は少しでも食べるようにしていたが、味覚が完全に失われてからはそれもなくなった。
だから安室さんの言葉にほっとする。アイスくらいなら問題なく食べられるだろう。
入口でチケットを買い、中へと足を踏み入れる。本当に外観や内装は私の世界の東京タワーと大差ない。レストランやカフェ、お土産屋さんが並んでいる。

「どうです?」
「お店は違うけど、雰囲気はほとんど一緒です。ふふ、なんだか少し懐かしいです」

私が小さく笑うと、安室さんも微笑んでくれる。それにまた朝と同じようにどきりとして、思わずぱっと顔を背けた。頬が熱い。
のんびりと足を進める安室さんについて行きながら二階に上がり、カラフルなアイス屋さんに目が止まった。私の世界にも似たようなアイス屋さんがあったなと思って少し嬉しくなる。

「アイス、買ってきますよ。何味がいいですか?」
「えっ?え、えっと…バニラ、とか」
「おや、随分シンプルですね。チョコレートはお好きですか?」
「す、すみません。えっと、チョコは好きです」
「わかりました。少し待っていてくださいね」

どうせ味もわからないんだからと何も考えておらず、安室さんの問いに咄嗟に変な返しをしてしまった気がする。
アイス屋さんに向かう安室さんの背中を見送って、すぐ近くにあったベンチへと腰を下ろした。
アイス屋さんの店員さんとやり取りする安室さんを見つめながら、私はゆっくりと長い溜息を吐く。無言でお金を支払わせてしまっていることに罪悪感を覚えながらも、私が出そうとしたところで安室さんは出させてくれないんだろうなと思う。お陰で私のお金の使い道は、駅から図書館まで行き来するための交通費くらいなものだ。使っている以上確実に財布の中は少なくなっているが、それでもまだ余裕がある。恐らく底をついたらついたで安室さんが何とかすると言い出すに違いない。
それまでに帰らないとな。
そう考えて、胸がずきりと痛む。帰るのが当然なのに、どうして胸が痛むのだろう。
帰りたくないとでも、思っているのだろうか。安室さんに迷惑をかけ続けているこの状況で?思わず自嘲の笑みが零れた。なんて図々しい。

「ミナさん」

声をかけられて、無意識に俯いていたことに気付いた。はっとして顔を上げると、バニラアイスとチョコアイスをそれぞれ両手に持った安室さんが小さく笑って立っていた。

「お待たせしました。どうぞ」

私の隣に腰を下ろしながら、コーンに乗ったバニラアイスを差し出してくる。それを受け取りながら、私は顔に笑みを乗せた。

「ありがとうございます。いただきます」

受け取ったアイスを口に運び、ペロリと舐める。
それから、私は硬直した。

「…ミナさん?どうかしましたか」
「えっ?あ、いや、アイスなんて食べたの久しぶりだなぁと思って…美味しいです。ありがとうございます」

へらりと笑って安室さんを見るも、私の背中には冷えた汗が伝っていた。
味は感じない。わかっていたことだ。無味のものを口に含むことにはもう慣れた。だが、それだけではなかった。
冷たさを、感じない。
温度さえ感じなくて、私が今食べているものが何なのかわからなくなる。顔には出せない。安室さんは鋭いから少しでも怪しい様子を見せたらすぐに違和感に気付くだろう。顔に笑みを貼り付けたまま、アイスを舐め続ける。コーンを持つ手に汗が滲んだ。
空腹感、喉の乾き、味覚。ひとつずつ私から消えて、今度は温度が消えたというのだろうか。そんなことって、有り得るのだろうか。

「ミナさん」
「っ、はい」

安室さんに呼びかけられて顔を上げる。
笑みを浮かべているのかと思ったのに、予想に反して安室さんは、真剣な顔で、私をじっと見つめていた。その表情に息を呑む。

「僕に、何か隠していませんか?」

問い掛けではあったけど、安室さんの声は確信に満ちていた。喉がひくりと震えて、閉塞感に言葉が詰まる。

「…か、隠しているって、何を…」
「あなたの食欲が落ちたこと。それと同時に痩せ始めたこと。隠そうとしているのはわかっていましたから、極力触れないようにしてきました。ですが、そろそろ見過ごせません。食べ物を咀嚼したがらない。美味しいと言う頻度が減った。食事をする時の表情が常に強ばっている」

矢継ぎ早に告げられる言葉に何も言うことが出来ない。
安室さんと一緒にいるのは安心出来て嬉しいことなのに、私は今すぐこの場から逃げ出したくて仕方がなかった。

「……そ、そんなふうに見えてました?安室さんの考えすぎですよ、安室さんのご飯美味しいから食べすぎちゃうなと思って、少しダイエットしてたというか、」
「ミナさん」

何とか声を絞り出して弁解しようとするも、安室さんの声に遮られて舌が凍り付く。
安室さんは目を細めて、じいと私の瞳を覗き込んでいる。

「あなたが今食べているアイス。何味ですか?」
「え?」

ぽかん、と口を開けてしまった。それから、手元のアイスを見つめてから安室さんに再び視線を戻す。
安室さんは、何を言っているんだろう。

「何味って…バニラ、じゃ…」
「いいえ」

息を呑む。冷水を頭からかけられたような心地だった。
喉が張り付いて息が乱れる。

「試すような真似をしてすみません。…あなたがそのアイスの味に気付いたなら、僕の悪戯だということにしてこちらのチョコ味を渡そうと思っていました。けれどあなたは…バニラアイスではないことに、気付かなかった。あなたが今口にしているのは、ヨーグルト味のアイスなんです。薄暗いここの照明では、バニラアイスとの色の違いもほとんどわからないでしょう」
「…安室さん…、…え?ごめんなさい、言っている意味がよく…わかりません」
「それから、先程アイスを食べた時にあなたは一瞬動きを止め、青ざめました。味の違いに気付いたのかと思いましたが…そういう様子もない」

声が震えた。
だって私、そんなに大きな失敗をした覚えはない。
確かに食事の時に顔は強ばっていたかもしれないしろくに噛まずに飲み込んでいたかもしれない。美味しいと言うのを心掛けていたけれど、確かに頻度は減ってしまっていたかもしれない。
でも、上手くやれていると思っていた。だって普通の人はそんなことには気付かない。
安室さんは動揺する私を見てほんの少しだけ眉を寄せ…言った。

「ミナさん、あなたは…味覚を失い、アイスの冷たさも感じられていないのではないですか?」

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