25

ここから逃げ出したい。
安室さんの視線が怖くて、息苦しくて、体が冷たく冷えるような心地になった。安室さんの指摘に何か言葉を返すことも出来ず、張り付いた喉は気持ち悪くて舌が乾く。
手が、体が小さく震える。胸がぎゅうと痛んで、呼吸さえ苦しくなる。

「ミナさん」

もう一度問い掛けるように安室さんが私を呼ぶ。
安室さんの目を見ていられなくなって、視線を床に落とした。
どうしてバレたんだろう。私の表情、仕草、それから体型の変化。そんなところを見ただけで、どうして味覚と温度を感じられなくなったのではないかという答えに行き着くのだろう。理解が及ばない。
上手く出来ていると思っていたのに、安室さんに心配や迷惑をかけたくなかっただけなのに、なんで私は肝心な時に失敗するんだろう。
安室さんには知られたくなかった。安室さんに知られないまま元の世界に帰って、そうしたら全て元に戻ると信じて疑わなかった。この世界にいる間くらい我慢出来るから、大丈夫だと思っていたのに。
どうしよう。なんて言えば。否定するのも肯定するのも怖くて、唇を噛む。

ふと、ぽんと背中を軽く撫でられて目を瞬かせる。
そろりと顔を上げて安室さんの方を見れば、ほんの少し困ったような顔で笑っていた。

「…とりあえず、それ、溶ける前に食べちゃってください。…今のあなたには、大切なエネルギー源ですよ」

安室さんに言われて、手元のアイスに視線を向ける。…バニラだと思っていた…安室さんが言うにはヨーグルト味のアイス。少し溶けかかって、コーンに染み込んでいる。
…味覚がなくて美味しくいただくことは出来ないが、安室さんが買ってきてくれたものだ。無駄にすることは出来ない。
私は少しだけ目を細めると、アイスの残りを少しずつ食べ始めた。


アイスを食べ終わると、安室さんは私の手を引いて立ち上がる。
まだ大事な話を何もしていないのに、彼の表情は優しく穏やかで、いつも私が見ている安室さんのそれだ。先程までの見透かすような瞳との差に、逆に怯えが湧き上がる。
問い詰めないのか。疑問に思いながら眉を顰めると、安室さんは苦笑して言った。

「せっかく来たんですから、展望台で夜景を見て帰りましょう」
「え、」
「ほら、行きますよ」

安室さんにぎゅうと手を握り込まれてとくんと胸が跳ねる。
冷たさを感じないことに動揺していたが、安室さんの手の温かさがわかることにほっとする。
大きくて、温かくて優しい手だ。この手に私は助けられ、何度も安心してきた。少しごつごつした手のひらは、恐らく、普通の人のものではない。けれどもそれは、私をこの世界で安心させる唯一のものなんだろうと思った。
安室さんに手を引かれるままメインデッキと呼ばれる展望台へと移動する。更に上のトップデッキは、ツアーとやらに申し込まないと入れないそうだ。だから私と安室さんはメインデッキまで。
メインデッキに着くと、窓の外はすっかり暗くなっていた。私が思っていたよりも時間が経っていたようだ。カップルや家族連れ、学生なんかの姿もある。

「いい感じに暗くなってますね。夜景も綺麗に見えるでしょう」

安室さんに連れられて窓の近くへと歩み寄る。
目下に広がる数えきれない光の海に、一瞬だけ胸が詰まる。様々な光が瞬いて、大地を包んでいる。

「…わぁ…」
「どうです?なかなかいい眺めでしょう」
「…はい、とっても」

なかなか、なんてものじゃない。すごく綺麗だ。息を呑むくらい。
安室さんに私の家族の話をした日のことを思い出す。安室さんは、光の一つ一つに人の人生や物語があるのだと言っていた。
広がる光の海を見ながら、その光一つ一つを目に焼きつける。
この光の数だけ、人がいるのだ。人がいて、その人には当然その人の人生があって、物語がある。それぞれが、それぞれの違った時間を過ごして、一つとして同じものはきっとない。
胸が熱くなって、つんと目の奥が痛くなった。

「ミナさん」

安室さんに呼ばれて、視線を向ける。
安室さんは真剣な目で私を見つめていた。

「病院に行きましょう」
「嫌です」
「先程の僕の言葉が全て本当だと認めるんですね?」

これ以上、安室さん相手に隠し通すことなんてできない。だから咄嗟に拒否の言葉を出した。
安室さんは私の即答を聞いて眉を寄せるが、私は視線を逸らして再び夜景に向き直る。
病院は、ダメだ。この世界で身元がはっきりしない私がそもそも病院にかかれるかわからないし、かかれたとしても全額負担になる。ただ風邪を引いただけとはわけが違うのだ。私の今の状況から見ても、空腹感や喉の乾きを感じず、味覚がなくなり冷たさを感じられないだなんて精密検査が必要になるに違いない。そんなの、いくらかかるか分からない。いくらあったって足りないかもしれない。
病院には行けない。行きたくない。安室さんにそんな迷惑をかけたくない。

「ミナさん」
「絶対に、行きません。行くなら、自分の…自分の世界に帰ってから行きます。この世界では、絶対に病院には行かない」
「ご自身の体がどういう状況かわかってますか?どう考えても普通じゃない。神経障害、感覚障害、様々な可能性が考えられます。放置して良いものじゃない」
「それでも、行きません」
「手遅れになるかもしれないのに、ですか」
「構いません」
「どうして、」

私が言い切ると、私の手を握る安室さんの手に力がこもった。ぎゅうと強く握りしめられて、おずおずと視線を向ける。
安室さんは眉を寄せて、目を細めて、酷く辛そうな表情をしていた。
どうして、安室さんがそんな顔をするのだろう。安室さんには関係ない、私の問題だ。帰れるまで、私が少し不自由なことに我慢すればいいだけ。なんでそんな、痛みを耐えるような表情をしているのだろう。

「…どうしてあなたは…自分のことを大切にしない」

その言葉に、ゆっくりと目を瞬かせた。
自分のことを、大切にしてないわけじゃない。自分よりも大切なことがあるだけだ。

「あなたは自分を蔑ろにし過ぎなんです。…あなたが可哀想だ」
「…可哀想?」
「あなたに蔑ろにされる、あなた自身が、です」

安室さんが言っている意味がよくわからなくて、私は少しだけ眉を寄せて首を傾げた。

「…私は、自分よりも大切なことを優先したいだけです」
「そんな体で、自分よりも大切なことなんてよく言いますね」
「安室さん、私はこの世界の人間じゃありません。私は、あなたが夜景を見つめてそこに見つける光の中にはいないんです」

私は、安室さんが見つめる光の先にはいられない。そんなことはわかっていたのに、口にすると酷く胸が痛んだ。
どうしてこんなに悲しいんだろう。安室さんの辛そうな顔を見ていると、どうしてだか泣きたくなる。なんでこんな気持ちになるんだろう。

「私に大切なのは、この世界でできる限り迷惑をかけずに元の世界に帰ること。…安室さん、あなたにこれ以上の迷惑はかけられません」
「…僕、言いましたよね。迷惑なんかじゃない、僕がやりたいからしてることだって、何度も」
「安室さんがそう言ってくれたとしても、その言葉に甘える自分にはなりたくないんです」

甘えてしまったら、全てが崩れてしまいそうで。
ずっと気を張って支えてきたものが、足元から壊れてしまいそうな気がして。
からからに乾いて、凍り付いてしまっていた舌が滑らかに動くことに私が一番驚いていた。張り付いて動かなかった喉も開いて、声をきちんと紡いでくれる。
言わなきゃいけない。安室さんに甘えっぱなしで、このままじゃ私がダメになってしまう。
安室さんの前では誇れる自分でいたいのだ。

「…あなたはこの世界に来てから、少しだけ自身を大切にしてくれていたと思います。けれど、元の世界に戻ったら…きっとまたあなたは、あなた自身を蔑ろにするんでしょう」
「そんなこと、」
「何が何でも病院に連れていきます。ちゃんと体を調べてもらってください、どうか手遅れになる前に」
「もう手遅れかもしれないのに?」
「手遅れにさせない為に言っているんです。病院に行かない方が迷惑だ」

安室さんと、こんな言い合いがしたいわけじゃないのにな。
なんでこんな東京タワー、いや東都タワーまで来て、夜景を見ながら安室さんと口論してるんだろう。
安室さんが真っ直ぐに私を見つめ、鋭い瞳を向けている。
安室さんの気持ちは嬉しい。そこまで心配してくれていることが嬉しい。
…そうか。病院に行かないで、私がまともに動けなくなったら、そうしたらそれはそれで安室さんの迷惑になるのか。それは、嫌だな。うん、すごく嫌だ。
ぼんやりと考えながら、私は夜景に目を向ける。
この世界のことは全てガラスの向こう側、触れはしても届かない遠い向こう側の話。私はここの人間ではない。ここの人間にはなれない。

「…それでも、病院には行きません。ごめんなさい、安室さん。あなたの足を引っ張ってしまうのなら、迷惑をかけてしまうのなら、どうか捨て置いてください。きっとなんとかなります。今までもなんとかしてきました。なんとかなってきました。あなたの知らないところで、私はきっと自分の世界に帰ります」

それはとても孤独で悲しいことだと思った。でも、何よりもマシな手だとも思った。
安室さんに知られないように世界に帰る。誰も傷つかない。私の胸が少し痛むだけだ。

「帰しません」

安室さんの声に、目を瞬かせながら振り向いた。

「聞いても良いですか」
「…なんですか?」
「素敵なお祖母様とお祖父様に恵まれて、確かにあなたは幸せだったでしょう。ご両親がいないことを気にしなくなるくらい、温かな日常だったはずだ。ですが、そのお二人がいなくなった世界は…あなたに、優しかったですか」

問い掛けに、少しだけ目を伏せて考える。
あの世界は、私が帰ろうとしている世界は、私に優しかっただろうか。
辛い毎日だった。でも笑って生きていた。それは心から?日々から色が消えたのはいつ?考えれば考えるほどよくわからなくなる。
友人とももう何年も会っていない。連絡も取っていない。それでも世界は私に優しかった。本当に?
仕事に明け暮れる日々、摩耗していく日々。それは本当に…優しく温かいもの、だっただろうか。

私、帰りたいの?帰りたくないの?
自分に問いかけて、この世界の温かさに胸が強く痛む。
安室さんやコナンくん、蘭ちゃん、少年探偵団のみんな、沖矢さん。短い間にたくさんの人と出会い、繋がった。元の世界よりも、多分温かくて強いものだと感じている。

「あなたが笑って元の世界に帰ってくれるのなら…僕は全力で協力します。でも、僕には…どうしてもそう思えません」
「…名残惜しい、とは…思いますよ。だって皆とせっかく知り合えたんだし、皆のことが好きだから」
「ミナさん」

繋がれていた手を、安室さんが両手で包み込む。温かさに目を細めて、そっと安室さんを見上げた。

「夜景を見つめてそこに見つける光の先には自分はいない、そう仰いましたね」

でも、と安室さんが続ける。

「あなたはここにいる。光の先なんて見えにくい場所じゃなくて、僕の目の前にいるんです。あなたはここにいる、この世界にいる。あなたが今存在しているのは、ここなんですよ」

私は今、ここにいる。
窓の向こう側ではなく、ここに立っている。
ぱちり、と目を瞬かせると、安室さんはほんの少しだけ笑ったようだった。

「ここで、いいんじゃないですか?」
「…ここ?」
「ここで。…この世界で、生きてみませんか」

なんて甘くて魅力的な言葉なんだろう。
この世界で生きられたらどんなに素敵なことだろう。幸せなことだろう。私はきっと毎日、心から笑って過ごしていける。
けれど。

「…戸籍もないし、私が生きていくには難易度が高すぎます」
「一緒に考えましょう。あなたがここで生きていく方法を。きっとなんとかなります。だって、今までもなんとかしてきたんでしょう?」

私の言葉を借りて安室さんが言い、くすりと悪戯な笑みを浮かべた。
ぎゅうと胸が苦しくなって視界が歪む。唇を噛んで俯いた。苦しいのに、甘くて温かい。

あぁそうか。
簡単なことだったのに、今更になって気付く。
いや、気付こうとしなかっただけかもしれない。自分の気持ちに気付かないふりをして、ただ蓋をしてきたんだ。
見ないふりをしている間に気持ちは大きく膨れ上がって、無視することが出来ないほどに大きくなった。

私、安室さんのことが好きだ。

Back Next

戻る